僕は、
「遊びの解放」
っていう考え方について発信を続けているんやけど、
「遊びの解放をしたら、子どもが勉強をするようになる」
って言ってるわけじゃないんよね。
「遊びの解放」は、
「子どもが”自分から”勉強を始めるのに必要な関わり方」
なんよ。
子どもが自分から勉強を始めるのに、必要なのであって、
遊びの解放をしたら、子どもが自分から勉強を始めるわけじゃない。
例えば、
「美味しいキャベツを作るには、良い土を整える必要がある」
っていう言い方をする時って、
「土を良い状態にすれば、美味しいキャベツができる」
ってわけじゃないやん?
当たり前の話やけど、キャベツを植えてないのに、キャベツができるわけないやんか。
土を良い状態にしただけでは、美味しいどころか、キャベツは育ってこない。
なぜか?
「キャベツを植えていないから」
よね(笑)
「じゃあ、キャベツを植えるだけで、美味しいキャベツが育つのか?」
っていうと、そういうわけでもないやんか。
土を良い状態にすることも大事だし、ちゃんとお世話することも大事。
キャベツを植える前に、土を良い状態にして、ちゃんとお世話すると、美味しいキャベツが出来あがる。
「遊びの解放」っていうのは、
「美味しいキャベツを作る(=子どもが自分から勉強を始める)ために、土を良い状態にすること」
みたいな感じ。
土を良い状態にしただけで、美味しいキャベツができるんなら、そこから美味しい人参とか、レタスとか、白菜とか、ピーマンとかなんでも育ってしまう(笑)
でも、そんなことはなくて、そういった野菜を育てたいなら、
「野菜を植える」
っていうことをしないといけない。
ただ、土を良い状態にしただけでも、これはすごく良くて。
言い換えれば、
「何でも育てることができる」
っていう状態でもあるわけ。
何かを植えないと何も育たないけど、
そこに何かを植えたならば、何でも育つ可能性がある。
「遊びの解放」
っていうのは、
「子どもが何にでも育っていける可能性を解放する」
っていうことでもある。
そこに、子どもが自分で可能性の種を植えていく。
親の関わりによって、植わることもある。
僕の場合は、遊びの制限はされていない家庭で育ったんやけど、自分で勉強をするようになったのは父親の影響やね。
父親は、学ぶことが趣味であり、博識で、色んなことを教えてくれた。
それが楽しくもあり、僕は学んだり、知るということを楽しく感じるようになっていった。
ほんで、小1の時にやってたゲームをキッカケに、漢字にハマっていくんよね。
「遊びの解放」だけでは、子どもは自分で勉強をするようになるとは限らない。
でも、子どもが自分から勉強をするようになるには、「遊びの解放」は必須です。
「遊びの解放」をしてなかったら、
「親が言って、子どもに勉強をさせる」
「子どもが親の期待を感知して、勉強をするようになる」
っていうことは起こるかもしれんけど、
「子どもが自分の意思で、勉強をするようになる」
っていうことはまず起こらない。
「遊びの解放」をすると、子どもは何にでもなれる可能性が解放される。
そこで、親や先生から勉強のおもしろさを教えてもらうと、子どもが自分から勉強を始めるようになったりする。
自分でYoutubeとかを見て、学びたい欲を高める場合とかもあるかもね。