ゲームで悩む親の話を聞くと、
「うちの子は、ゲームをやめれないんです」
って言う。
これ、間違いなのよ。
子どもは、ゲームをやめられないんじゃないよ。
ゲームを
やめない
んだよ。
子ども自身が、自分で決めたルールは自分で守る。
でも、子どもは、親が決めたルールは守らないし、守ろうともしない。
だって、それを守ることで自分に不利益があるから。
ゲームしたいのに、
「ゲームの時間は1時間までね」
って言われたら、それを守ってしまうと、
「ゲームをしたい!」
っていう気持ちに嘘をつき、我慢をして、嫌な思いをすることになってしまう。
どこの世界に、自分から嫌な気持ちになるために、親が勝手に決めた約束や、親が勝手に決めたルールを守ろうとする子どもがいるのよ。
「自分からやりたいことをやらないように我慢する子ども」
はいない。
いるとしたら、
「それよりもさらにやりたいこと、魅力的なことのために我慢する子ども」
です。
そんな約束や、ルールを守るのは、
「自分の気持ちに嘘をつき、やりたいことを我慢する癖がついた親」
だけやで。
親がやりたいことを我慢したり、自分の気持ちに嘘をつき続けてるのは、親が勝手にやってること。
親が好きで勝手にやってることを子どもに押し付けたところで、子どもは親の言う通りになるわけない。
自分のやりたいことを我慢している親が、子どもに自分のやりたいことを我慢させる。
自分のやりたいことをやってる子どもを見て、親が自分のやりたことを我慢してるのをやめる。
どっちが、親子の幸福度は高いと思う??
考えるまでもない。
「自分のやりたいことをやってる子どもを見て、親が自分のやりたことを我慢してるのをやめる」
だよね。
「自分のやりたいことを我慢している親が、子どもにも自分のやりたいことを我慢させる」
って、親子もろとも不幸になる考え方やで。
ゲームをやりたい子どもが、自分のやりたいことを我慢してる親によって、ゲームをやめさせられようとすることは、親子もろとも不幸になる考え方やね。
「やりたいことは我慢しなければならない」
「やりたくないことを優先しなければならない」
っていう考え方を持っているから、
「やらなければいけないこと(=宿題とか)を優先しなければならないのに、やりたいこと(=ゲーム)をやめることができない」
っていう発想が出てくる。
ゲームをやめることが・・・できない。
親からしたら、
「やりたいことを我慢して、やらなきゃいけないことを優先する」
のが当たり前なんだと思う。
でも、やりたいことを優先している子どもからしたら、ゲームをやるとかやめるとかは、
「できる/できない」
の話じゃなくて、
「やる/やめる」
の話です。
つまり、
「ゲームを”やめられない”」
んじゃなくて、
「ゲームを”やめない”」
んです。
「ゲームをやめなきゃいけない」
ってのは、親側が勝手に作り出した論理であって、子どもからしたら、
「まだゲームしたいのに、なんでやめなあかんの」
って話です。
だから、ゲームを”やめない”んです。
「やりたいことを我慢して、やりたくないことを優先する親」
からすると、この子どもの感覚は理解できないと思います。
同じように、
「やりたいことを優先して、やりたくないことをやらない子ども」
からすると、親の感覚もまた理解できません。
でも、どっちが幸せかって言えば、間違いなく、
「やりたいことをやってる時」
です。
「やりたくないことをやってる方が幸せです」
って謎すぎるでしょ(笑)
それってもう、
「それがやりたいことだよね」
って話ですよ。
余談ですが、世の中にはおもしろい人がおるもんで、ある20代女性が自分の心の反応に興味を持って、
「自分が嫌なことをすると、自分はどう感じるのか」
っていうことに興味を持ったらしいです。
その人は、思い付く限りの嫌なことを試していくんですが、最終的にたどり着いたのが、
「嫌な人とお付き合いする」
っていうこと。
しかも、お付き合いするに留まらず、
嫌な人と結婚して、
嫌な人との間に2人の子どもを授かるそうです。
そして、その結果、どう感じたのかと言えば、
「嫌なものは、嫌だった」
ということだそうです。
僕が今まで知った人の中で、とびっきりぶっ飛んでる人です。
おもしろい人がいますよね~。
「自分がやりたくないことを優先する」
って、この女性がやっていることに近いことをしようとしているんだと思います。
「嫌なこと」って、まんま「やりたくないこと」なわけですよ。
「嫌なのにやりたい」なんてことはありませんよね。
「やりたくないことを優先しなければならない親」
からしたら、やりたいことを優先する子どもが理解できないから、
「きっと何かおかしいんだ」
「これは問題だ」
ってことで、
「これって・・・ゲーム依存症なのでは!?」
って、『病気』だと判断をするわけです。
自分が理解できないからこそ、
「そうか、この子は病気だったんだ。
だから、おかしかったんだ」
っていうことで、自分を納得させようとします。
それが、
「子どもがゲームを”やめられない”」
っていう言葉の背後に隠れています。
自分が理解できないことに対して、
おかしい
病気だ
障害だ
依存症だ
みたいなラベルを貼り付けて、
「なるほど、そういうことだったのね。納得!」
ってやりたい。
理解できないことは怖いし、落ち着かないから。
でも、そうならざるを得ない理由があると、納得できる。
だから、そうならざるを得ない理由を”作る”のよ。
ほんとは、子どもはゲームが好きで、まだゲームをやりたいだけなのに、親の方で勝手に、
「子どもがゲームをやめられない」
「子どもがゲームをやめようとしてるのに、やめられない」
っていう捏造をぶちかましていく。
なんかまるで、子どもが
「ゲームに毒されてしまっている」
かのような状況を作り出す。
なんで、こんな誤解が生まれるのかと言えば、それもこれも、親が
「親がやりたいことを我慢して、やるべきことを優先している」
から。
すなわち、
「自ら不幸な方を選択する習慣がついているから」
です。
自分で不幸な方を選択する習慣がついていることに向き合わないまま、
「子どもがゲームを”やめられない”」
なんて言ってると、子どもも同じようにやるべきことを優先するしんどい生き方をするようになるよ。
できる/できないで考えちゃうのは、不登校も同じやね
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