ここ2、3回の記事が分かりやすかったのか、アクセスがいつもの4倍~10倍に跳ね上がりました。
みなさま、読んでくれてありがとうございます。
僕は、何度もブログには書いていますが、ゲームが大好きで。
今でもやります。
あまりゲームをやったことがない人からすれば、
「ゲームなんて所詮作り物の世界でしょ?」
「現実の世界の方が刺激がたくさんあって、教育にはいい」
「ゲームなんてしているくらいなら、外で遊んでほしい」
って思うかもしれません。
その考えを否定するつもりはありませんが、一つだけ主張したい。
現実の世界で起こることは、ゲームの世界では体験できません。
逆に、ゲームの世界で起こることは、現実では体験できません。
すなわち、
外遊び⇒OK
ゲーム⇒NG
とやっているならば、子どもが体験できる世界を一つ減らしたも同然なんです。
ゲームで体験できることは、全て外遊びなど、現実世界で体験できるのならば、わざわざゲームなんてやる必要はありません。
でも、実際は、ゲームの世界で体験できることは、現実世界では体験できないんです。
現実世界では、宇宙には行けないでしょ。
現実世界では、生身で空を飛べないでしょ。
現実世界では、地底になんて潜れないでしょ。
現実世界では、異世界になんて行けないでしょ。
現実世界では、死ぬ危険があるところには行けないでしょ。
現実世界では、国を動かすリーダーには簡単にはなれないでしょ。
現実世界では、魔法は使えないでしょ。
でも、全部、ゲームならできるんです。
ゲームでなら、現実世界で体験できないことを疑似的に体験できるんです。
「現実世界での体験の方がいいから、ゲームなんて意味ない」
なんていう考え方自体がナンセンスで、
【現実世界 > ゲーム】
ではなくて、
【現実世界 ≠ ゲーム】
なんです。
どちらが優位か、ではなくて、どちらも違う体験ですよ、っていうこと。
だから、ゲームを否定すれば、ゲームで体験できたはずのことも同時に否定するんです。
そして、ゲームで体験できることは、ほとんど現実世界では体験できません。
最新のゲームはすごくリアルですから、実際に存在する風景も多く取り入れられています。
でも、その世界は、あくまでも仮想世界であって、物語の中なんです。
言ってみれば、小説の中の世界のような感じ。
小説は、文字情報から、仮想世界の臨場感を作りますよね。
ゲームは、映像や、音声情報、時には体感情報から、仮想世界の臨場感を作ります。
だから、僕は、
「外遊びなんかよりも、ゲームの方がいいですよ」
って言いたいんじゃなくて、
「外遊びも、ゲームも、読書も、おしゃべりも、全部いいから、子どもが興味持っていたら、全部やろう!」
って言いたいんです。
子どもがやりたいんなら、全部やりたい。
それぞれの遊びには、それぞれの良さがある。
だから、それが全部できるとなれば、すっごくワクワクする!
(僕はね)
大好きなことを一つ見つけてしまえば、寝ても覚めても、どこにいても、ずっとやり続けたい。
家でも、外でも、移動中でも、ずっとゲームをしていたい、って思うかもしれません。
それが
「好き」
っていう気持ちですよね。
子どもがもし、
「家で、19時~21時までの2時間だけやって良くて、他の時間ではやらないようにしよう」
って言い出したら、それは本当に好きなのか?本当に心、動いてんの?って思うんです。
だって、どう考えても、とても理性的じゃないですか。
頭で考えたくらいで抑え込める気持ちなの?っていう疑問が湧くんです。
めちゃくちゃ好きなことが見当たらない子もいると思うので、その子たちを責めるつもりもありませんし、その親も責めるつもりもありません。
しかし、「好き」という感情の大きさは、そのまま記憶力や思考力、行動力など、僕らの身体や脳みそを思う存分動かしてくれます。
言ってみれば、僕らを動かす原動力なるんです。
「好き」という感情が。
だから、ゲームであっても、何でもいいから、子どもが
「好き!」
「やりたい!」
って思ったことは、チャンスなんです。
子どもが自分の中に原動力を見つけたんです。
もちろん、それが人を傷つけることとか、命の危険があるとか、法律に触れる行為は、止めてあげなければいけません。
でも、ゲームをするくらいでは、さらに昼夜逆転生活をしたとしても、死にはしないし、誰も傷つかないし、法律にも触れません。
それで学校に行かなくなったとしても、学校に行くかどうかは子どもが決める話です。
『義務教育』という言葉は、
「親が子どもを学校教育を受けさせる義務がある」
としているだけで、
「子どもは、学校教育を受ける権利がある」
としています。
つまり、子どもが学校教育を受ける権利を放棄すれば、親の持つ学校教育を受けさせる義務は効力を持たなくなります。
実際、不登校の子どもの親は、誰も罰せられていませんよね。
逆に、子どもが学校に行きたいのに、「家業を継ぎなさい!」みたいにやれば、親は法律に抵触する可能性があります。
でも、子どもが学校教育を受ける権利を放棄すれば、その限りではありません。
やや極論に聞こえるかもしれませんが、僕はこんな考え方をしています。
巷の子どもたちに勉強嫌いが多い理由は、
「大人が、あれやこれやと理由をつけて、子どもの『好き』を奪っているから」
だと僕は考えています。
小さい頃から好きなことをしてきていなければ、どうして勉強を好きになれましょうか、っていう話です。
学びは、遊びの延長線上にあります。
子どもは遊べば遊ぶほど、色んなことを学び、学びの素養を身に付けていきます。
学びの素養というのは、
・集中力
・思考力
・記憶力
・発言力
・忍耐力
など、知識以前の能力のことです。
この学びの素養が弱いと、子どもがたとえ勉強をしても、学んだ内容を吸収する力が弱くなります。
学んだ内容を吸収できなければ、いざ子どもが勉強を始めた時に、勉強の楽しさを感じづらくなります。
やったことが全く上手くいかないよりも、ちょっとは上手くいった方が楽しみは感じられますよね。
だから、小学校で勉強が始まるんなら、
「小学校に入るまでにどれだけたくさん遊ばせたか」
が、子どもが学ぶことが好きな子になるのか、そうじゃない子になるのかの分かれ目じゃないかな、って僕は思っています。
もちろん、これは一般論の話なので、全ての子どもに当てはまるわけではないとは思いますが、ある程度の傾向は出るんじゃないかな、って思います。
めんどくさいから、そんな統計は取りませんけどね!
信じたい人だけ信じればいいです。
子どもがゲームをやりたいんなら、
「ゲームを制限されて、やりたくもない勉強の世界を押し付けられた子ども」
と、
「ゲームが自由にできて、ゲームの世界と、ついでに勉強の世界を体験できた子ども」
を比較すれば、後者の方が楽しいのは一目瞭然でしょう。
「うちの子はゲームしかしないんです」
って思う場合、ゲームを邪険に扱わずに、
「子どもがゲームから何を学んでいるのか?」
っていうところに興味を持ってみてください。
そしたら、子どもがいかにゲームからたくさんのことを学んでいるのかが見えてくると思います。
ゲームを受け入れられない人には見えないでしょうけどね( ̄▽ ̄)