子どもが不登校になった時に、
・子どもの将来を案ずる
・子どもの不登校を問題視すること
・子どもをかわいそうだと思うこと
・子どもを支援しなきゃと思うこと
と思っちゃうかもしれません。
そもそも『不登校』って、何だと思いますか?
答えは、簡単。
「子どもが学校へ行かない選択をしたこと」
です。
それ以上でも、それ以下でもありません。
不登校とは、
「子どもの身に起こった問題」
でもなければ、
「学校に行けなくて子どもがかわいそう」
でもなければ、
「学校に行けないことで未来が厳しくなること」
でもなければ、
「学校に行けないから特別な支援が必要になること」
でもありません。
不登校とは、
「子どもが学校へ行かない選択をしたこと」
に過ぎません。
そこにネガティブな意味付けをするのか、ポジティブな意味付けをするのかは、また別問題です。
子どもが学校に行けないからかわいそうなのではなくて、親にかわいそうだと思われているから、かわいそうな子どもになるんです。
分かるでしょうか。
不登校についてどんな意味付けをするのかは、親ではありません。
不登校は親の体験ではなく、子どもの体験です。
だから、不登校について意味付けをするのは、子ども自身です。
親が子どもに対してする意味付けは、とても強力な影響力を持ちます。
親が子どもの才能を信じれば、子どもは才能を伸ばします。
親が子どもの将来を心配すれば、子どもの将来は閉ざされていきます。
あくまでも、それはイメージの話に過ぎませんが、親の持つ力を親自身が侮っていると、自分が子どもに仕掛けたトラップ(負の意味付け)に気付かないこともあります。
『不登校』は、特にそのトラップに引っかかりやすい出来事です。
何度も繰り返しますが、不登校とは、子どもが学校に行かない選択をしたに過ぎません。
「不登校"だから"問題がある」
「不登校"だから"支援が必要」
「不登校"だから"かわいそう」
「不登校"だから"辛いに違いない」
なんていうのは、親が勝手に意味付けすることではありません。
支援が必要なことと、不登校なんて、本来関係がありません。
「不登校"だから"支援が必要」
って考えているのは、
「学校に行かない子どもは非国民だ」
とか、
「学校に行けない子どもは劣っている」
とか、
「学校に行かない子どもは生きていけない」
って信じている大人たちです。
もっと分かりやすく言えば、こう信じている大人にとって、大切なことは、『学校』であって、『子ども』ではありません。
その大人たちにとって、重要度は確実に
『学校』 > 『子ども』
っていうことです。
合わせて、
『成績』 > 『子ども』
『学歴』 > 『子ども』
です。
子どものことなんて、見ちゃいない。
「いやいや、子どものこと、ちゃんと見てるし!」
って思ったら、普段の子どもがどんな表情でいることが多いか、観察してごらんなさい、って思うんです。
そうしたら、僕らが目指している『子どもの幸せ』の意味は少しは分かるかもしれません。
学校に行くから幸せになるんじゃない。
勉強ができたから幸せになるんじゃない。
いい学校、いい会社に入れたから幸せになるんじゃない。
子どもが幸せになるのは、未来じゃないんです。
子どもが幸せになるのは、今です。
子どもが「学校に行かない」という選択をしたということは、その方が子ども自身の幸せに近い、ということです。
ここ、見逃しちゃいけないところです。
そういう子どもたちにとって、僕ら大人の支援が必要なのかどうかは、子ども自身が決めることで、大人が決めることじゃないです。
大人が子どもに支援が必要かどうか決めたとしたら、本人が求めていない支援をしてしまうことだってあります。
それはありがた迷惑なだけであって、子どもの進歩を妨げる関わり方にしかなりません。
本人が問題を感じていないのに、解決策を提示されても鬱陶しいだけ。
じゃあ、子どもが学校に行かないことを選択したら、何をどう考えたらいいのか。
コーチングの基本で、否定形で述べられていることは、まず肯定形に直します。
「子どもが学校に行かない」
⇒「子どもは学校に行かない代わりに、何をしたいのか?」
です。
例えば、
「ピーマンが嫌い」
「人参が嫌い」
「にんにくが嫌い」
「きゅうりが嫌い」
「魚が嫌い」
って言われたら、
「じゃあ、何が好きなの?」
ってやるのと一緒です。
「学校に行きたくない」
って言われたら、
「どうして?」
って聞いてもいいけど、そのあとでもいいから、ぜひ
「じゃあ、何をしたい?」
って聞いてあげてください。
「しばらく心と体を休めたい」
って言うかもしれないし、
「遊びたい」
って言うかもしれないし、
「友達と一緒にいたい」
って言うかもしれないし、
「お母さんと一緒にいたい」
って言うかもしれません。
「学校に行きたくない」
って言われたら、僕らが問うべきは、その理由や原因ではなくて、
「子どもの意識はどこに向いているのか?」
です。
学校に行きたくない以上、学校以外のところに向いているのは確実だと思います。
どこに向いているのかが述べられていないから、それを子どもから聞きます。
そして、その向いている方向が叶えられるのであれば、叶えてあげます。
学校って、僕ら大人は絶対視してしまいがちですが、学校に行ってなくても子どもは死にはしませんし、未来の不幸が約束されるわけではありません。
未来の不幸が約束されるのではなくて、親や周りの大人が未来の不幸を約束させることができるだけです。
そこは勘違いしちゃいけないところです。
「あなたはなんで学校に行けないの!?」
みたいにやっていると、子どもの未来を不幸と契約させようとしている流れです。
「学校に行きたくない」
って言われたら、
「そっか。いいんじゃない?
何かやりたいことあるの?」
って聞いてあげてください。
「学校に行きたくない」
って言われて、
「なんで?」
って問いたい場合は、普段から
「どうして、学校に行っているの?」
って問うていてください。
学校に行っている時は、行っているのが当たり前で、行かなくなった時だけ「なんで?」って問うのは、明らかに偏った思想が入り混じっている感じがするでしょう。
子どもたちにとって、学校に行くことは当たり前ではありません。
それを当たり前にしているのは、僕ら大人が勝手にやってることなんです。
学校に行くことを当たり前としていなかったら、いいことが一つあります。
それは、嫌だな、限界だな、って感じたら、サッとその環境から抜け出せることです。
時々ニュースで、長時間労働を苦に自殺することを報道していますよね。
その時に、
「そんなに嫌なら、会社辞めれば良かったのに!」
って思いますよね。
それと同じで、いじめや、学業不振などを苦に自殺した子どもたちの話を聞いた時も、
「そんなに嫌なら、学校に行かなければ良かったのに!」
って思いますよね。
でも、そうさせないのが『当たり前』という見えない強制力です。
人は基本的には、普通でいたい気持ちを持っています。
その気持ちは、僕らの想像以上に強力な束縛力を持っています。
なぜなら、集団生活からはみ出すことは、社会的な死(=孤独)を意味することがあります。
社会的な死を味わうくらいなら、物理的な死を選んだ方がマシ!と考えてしまうくらい、強烈な意味を持っています。
だから、
「そんなに嫌なら、辞めれば良かったのに!」
「そんなに嫌なら、行かなければ良かったのに!」
っていうのは、僕ら『当たり前』を振りかざす外野の発想なんです。
僕らが外野でいる限り、彼らの気持ちは永久に理解できません。
つまり、「学校に行くのが当たり前」と思っている限り、学校に行かない選択をした子どもの気持ちは永久に分かりません。
そして、「学校に行くのが当たり前」と思っている限り、『当たり前』の強烈な、不登校よりも自殺を選択させるほどの強力な強制力を無意識下に与えている可能性もあります。
そういう意味で、
「学校に行きたくない」
って言われたら、
「そうかそうか!よく言えたな!!偉いぞ!!」
「学校には行かなくてもOKやから、楽しくてわくわくすることやろうぜ!!」
くらい言ってあげたいんです。
僕らは、子どもを育てる立場の人間ではありますが、その前提で忘れてはいけないのが、
「子どもは生きている」
っていうこと。
『当たり前』や、『常識』を判断基準にしていると、そんな大切なことも忘れてしまいます。
だから、自分の命よりも、共同体を優先してしまう。
『不登校』とは、ただ子ども自身が、自らの意志で、学校に行かない選択をしたに過ぎません。
それをキッカケに「学校に行く」とはどういうことだったのか。
考えてみてもいいかもしれませんね。
学校に行かないからって、人生がダメになるなんてことはありませんから。
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