
広中一成は、張同楽 等著『中華民国専題;第12巻:抗戦時期的淪陷区与偽政権』,南京:南京大学出版社,2015年3月。の「緒論」一、学術研究回顧 (二)華北淪陷区偽政権研究前沿及有関問題 9.外国学者的研究で、知りました。
本文を中文から訳しますと「2009年5月、日本語雑誌《中国21世纪》第31期に発表された抗日戦争時期淪陷区偽政権という日中学者研究の一連の論文で、日本の学者広中一成『冀東防共自治政府の日本満洲に対する“外交”』等、館蔵未刊擋案を利用した華北偽政権の組織機構とその変遷の考察は、華北偽政権の侵略した日本軍との関係、華北偽日本政権の傀儡的な本質を明晰に示している。」(同上書26頁)と紹介されております。
自著『アジアから見た日本の侵略:明治維新から東南アジア占領まで』,京都:宮帯出版者2020年2月。で、通州事件の朝鮮人・日本人の殺された概数を、広中一成 著『冀東政権と日中関係』,汲古書院,2017年12月。から引用させてもらいました。
1. 広中一成は愛知大学国際研の考えと同じだ‼
ところが、同年出版された 愛知大学国際問題研究所 編『対日協力政権とその周辺:自主・協力抵抗』(愛知大学国研研究叢書第4期第1冊),名古屋:あるむ、2017年3月。によりますと、
「本書では『対日協力』という言葉を用いた。それは、同じ対象を検討するにせよ、そのもの自体に『偽』あるいは『漢奸』という、はじめから対象を貶めた表現をつきまとわせる思考方法から少しでも距離を置こうという思いの表れからである。」(後記:編集代表 三好 章、331頁)とあります。
傀儡もしくは偽政権を劣ったものとして扱わず対日協力政権とします。貶めるの語義は「劣ったものとして扱う。みさげる。さげすむ。」(広辞苑)です。
この当時、広中一成は愛知大学国際研究所客員研究員で、しかもこの叢書に「一九三〇年代中期華北における日本の電力開発:濼河水力発電所建設計画を例に」を執筆しております。同様の対象を貶めた立場にいることは明らかです。
2. 傀儡政権とはどういうものか
川島 真が、「『傀儡』政権とは何か:汪精衛政権を中心に」(波多野澄雄 他4名 著『決定版 日中戦争』(新潮新書;788),新潮社2018年11月、第六章)に簡潔にまとめています。私なりに傀儡政権について簡単にまとめます。
A.傀儡政権の特徴
1. 日本が占領したところでしか、政権は生まれない。
2. この政権が出来る準備は、日本軍特務部(スパイ諜報組織)が事前に目ぼしい中国人を探している。
3. 必ず日本人顧問がおり、実権を掌握している。
4. 日本軍が、この人形(傀儡)を用い、最初に現地に治安委員会を作る。
5. 日本軍が治安を安定させたら、それを自治委員会とする。
6. 日本軍が無条件降伏するや否や、この政権は解散する。汪偽政権は1945年8月16日、偽満州国は1945年8月18日に解散する。
B.傀儡政権を支配する日本軍の差異
1. 蒙疆聯合委員会は、偽満洲国の実質支配者である中国東北占領軍(関東軍)の支配下にある。
2. 中華民国臨時政府は、日本華北駐屯軍(北「支那」駐屯軍)の支配下にあり、汪偽政権成立後、偽華北政務委員会という。
3. 中華民国維新政府は、日本華中駐屯軍(「支那」駐屯軍)の支配下にあり、汪偽政権下で解消させられた。
3 広中一成の傀儡観批判
では、広中一成 著『傀儡政権:日中戦争、対日協力政権史』(角川新書;K-296),KADOKAWA 2019年12月を批判します。
A. 蔣介石の業績を無視している
「冀東政権こそが中華民国建国の理念を継承している」
(48頁)という小見出しは、北伐で全国統一をした蔣介石の業績を無視しています。冀は中国河北省の一字略称です。
1935年11月25日に偽冀東防共自治委員会を土肥原賢二東北占領軍(関東軍)「奉天」特務機関長の説得に応じた殷汝耕が作ります。同年12月25日に偽冀防共自治政府と改名します。
A級戦犯として処刑された人物に指導され、漢奸として処刑された人物によって作られた組織を、広中は以下のように評価しています。
「冀東政権の中央機関にも日本人顧問は配置されていましたが、満洲国のようにあらゆる機関に置かれたのでなく、顧問の影響力も限定的でした。」(37、38頁)です。しかし、中央機関に日本人顧問が配置されている事で、傀儡性は明らかです。中国東北占領軍(関東軍)の支配下にありました。
B. 偽民国臨時政府について
a.まず新書の71頁の地図の範囲が間違っています。意図的でしょう。
1938年の段階では、河南省は、洛陽を含む河南省西部、鄭州、南陽は日本軍に占領されておりません。また山西省は、黄河流域まで日本軍は占領していません。1941年5月の中条山戦役で蔣介石中央軍がやむなく黄河を越えて南下します。
b. 中国事変(「支那」事変:七七事変)後の、休戦協定が出来たにも拘わらず、近衛文麿は11日午後中国東北占領軍(関東軍)2個旅団(12 000人)、朝鮮派遣軍1個師団(12 000人)を派遣し、急速に侵略を進めます。さらに三個師団(4万人)を増兵し、1937年7月29日、北平(現北京)を占領しました。
驚くべきことに、偽政権組織「北平治安維持会」は30日朝6時30分に成立し、東北占領軍(関東軍)特務部の命令下に市政を掌握しました。
同じく天津でも8月1日に偽政権組織「天津治安維持会」が、華北駐屯軍(北「支那」駐屯軍)特務部によって成立します。
12月13日南京陷落的の翌日、華北駐屯軍(北「支那」駐屯軍)特務部は北平で偽中華民国臨時政府を作ります。
この幕僚は、ほぼ一時代前の北洋軍閥人で構成され、政治制度も復古的でした。議政委員会は立法機関ですが、行政・司法委員会の各委員長、各部部長、特別市(北京[元北平]・天津)市長などで構成されるお手盛り委員会でした。もちろん日本人顧問がおります。
C. 偽蒙疆聯合委員会の分析がない。
広中一成が『後期日中戦争華北戦線:太平洋戦争下の中国戦線Ⅱ』(角川新書;K-449),KADOKAWA 2024年3月。で描く豫中会戦(京漢会戦)で暴れる戦車第3師団(同上書228頁)は、この内蒙古経由で河南省黄河以南に侵入しています。分析しない意味が分かりません。
東北占領軍(関東軍)特務機関は、口頭のみの土肥原=秦徳純協定の保安隊条項を口実に、まず漢奸李守信軍を察哈爾東特別自治区の行政長官に就任させ、次いで徳王(本名徳穆楚克東魯普)を抱き込み、さらに察哈爾部総管卓世海を加え察哈爾盟公署を1936年1月に成立させます。この時東北占領軍(関東軍)特務は総勢20数名の日本人顧問団を派遣しています。
盟は内蒙古独特の単位でこの下位に旗があります。
1936年5月12日に化徳県を徳化市と改名し蒙古軍政府を成立させます。つまり、偽蒙疆聯合委員会の前身は、完全に傀儡政権です。財政基盤は圧倒的多数の漢族地帯です。
中国事変(七七事変)後、蒙古軍は東北占領軍(関東軍)察哈爾派遣団の張家口侵攻に協力しています。東北占領軍(関東軍)は、張家口に9月4日に察南自治政府を成立させ、10月28に帰綏(現呼和浩特)で蒙古聯盟自治政府を成立させます。
東北占領軍(関東軍)は更に西の綏遠省を侵略し、蒙古聯盟自治政府と山西省北部を加え蒙疆聯合委員会とします。こうして自治権のない傀儡政権ができます。
広中一成にとっては余りに露骨な侵略と傀儡政権ですから、俎上にのせることが出来なかったのでしょう。傀儡政権の一つですが、分析しておりません。
3. 維新政府の顛末
1938年1月16日、近衛首相は「……帝国政府は爾後(じご)国民政府を対手とせず……」(原文旧漢字カタカナ、以下同じ)と声明します。南京占領後、蔣介石に向かって「お前らは相手にしない」という声明です。ここから、事態は推移します。
3月7日、日本の外務、陸軍、海軍三省主管官員で、「政権名称問題」(『傀儡政権』166頁)が発生するのですから、傀儡であることは間違いありません。
3月28日に維新政府に成立しますが飯店(ホテル)住まいで、行政と立法の両院だけが設置されました。当時日本政府は偽臨時政府を中央政府とする方針だったようです。
4. 汪偽政権は傀儡政権である。
A 日「中」新関係調整要綱
汪偽政権の経緯は、汪一派と日本参謀本部第8課(謀略)課長である影佐禎昭との交渉後、1938年11月30日に御前会議で決められた「日支新関係調整要綱」に原点があります。
汪兆銘が重慶から逃げ出す12月18日の前に、定められていたのです。原文は以下のようです。
B 近衛首相の三つの声明でも、蔣介石は屈服せず
1. 近衛第2次声明(1938年11月3日)
偽維新政府を成立させた後、日本軍は武漢・広州を攻めます。1938年の秋、武漢・広州の侵略に成功しますが、国民政府を潰せなかった時に近衛は再び声明を出します。「……固より国民政府と雖も……新秩序の建設に来り参ずるに於ては、敢て之を拒否するものにあらず。」。
つまり、交渉に応じると近衛文麿首相はするのです。
2. 国民政府軍事委員会(1938年11月25~28日)
蔣介石は湖南省南岳で軍事委員会を開きます。今までの集団軍・路軍などの戦闘単位をなくし、軍単位にします。また遊撃戦を中国共産党から学び、1年間で遊撃幹部3 000人を育成し各軍に配置します。
対日抗戦を止める気は全くありません。
C 近衛第3次声明の意味
1. 近衛第3次声明問題は、自らの将来を暗示しています。
重慶逃亡を謀略機関から聞いた近衛首相は、1938年12月22日に第3次声明をだします。11月30日に決定された
「日支新関係調整要綱」其の二 具体原則の
第四 共通の治安維持に関する協力竝に撤兵に関する事項
日支両国は共通の治安維持に関し協力すること
一、日本は平和克復後約定以外の軍隊の撤去を開始し治安確立と共にニケ年以内に之を完了し支那は本期間に於て治安確立を保証すること
に、従っております。
「……支那に現存する実情に鑑み、この防共の目的に対する十分なる保障を挙ぐる為には、同協定継続期間中、特定地点に日本軍の防共駐屯を認むること及び内蒙地方を特殊防共地域とすべきことを要求するものである。……」と、声明します。
一般に日本軍撤兵問題で裏切られたと言いますが、日本軍撤兵は「平和克復後約定」後、「治安確立と共に2ヵ年以内」で合意しておりますから、永久に日本軍は中国駐屯できる約束でした。
2. 重慶逃亡後の「日本への希望」が汪兆銘政権の本質。
A. 汪兆銘は近衛第3次声明の4日前の12月18日に重慶を逃亡し、20日にフランス領インドシナのハノイに着いた。
汪兆銘は12月29日付の声明を31日に公表するが、
「中国の一般世論は、汪兆銘が国民党の副総裁の要職にありながら、突然外部に対して和平を提案したことを不公明な態度として非難ごうごう」(防衛庁防衛研修所戦史室著:支那事変陸軍作戦;2:昭和十四年九月まで。273頁)でありました。防衛庁の公刊物にここまで書かれています。
B. 12月30日、汪兆銘は、日本に対する希望を述べます。
1. 日中両国は新東アジア建設の基礎完成まで、英米列強となるべく摩擦をさけることが肝要である。
2. 挙兵までの準備期間(3~6ヵ月間)毎月ホンコン銀約300万元を日本側から援助されたい。
3. 北海、長沙、南昌、潼関等に対して政治的効果をねらってする日本軍の作戦行動。
4. 重慶に対する徹底的爆撃。(同上書, 275頁)
こんなことを日本に頼むか
だから、傀儡政権なのだ。
C. 広中一成は、「国民党は蔣介石率いる『重慶国民党』と『南京国民党』のふたつに事実上分裂した」(『傀儡政権』212頁)と言います。
しかし重慶の国民党は、1939年1月1日中央執行委員会常務委員会臨時会議を開いた。会議では「汪兆明を党から永久に除名する決議」が可決されているので、既に党籍はない。
汪兆銘が後に集める国民党会議は、徒党を集めたものであり、分裂ではありません。
D. 重慶逃亡脱出から政権成立に1年3ヵ月かかった。
1. ハノイから日本軍の手配した山下汽船の「北光丸」(5500㌧)に11名が乗り、1939年5月6日に上海の日本軍埠頭に着きました。上陸したのは8日で、すぐさまA級戦犯で処刑された土肥原賢二のアジト「重光堂」に行きます。
6月に偽中華民国臨時政府王克敏、偽中華民国維新政府の梁鴻志と会談しますが物別れになります。彼らは既得権を既にもっているのですから。中国東北軍(関東軍)が支配する偽蒙疆聯合自治政府、華北(北「支」)駐屯軍が支配する中華民国臨時政府、華中(支那)駐屯軍の偽中華民国維新政府は、産業を掌握しております。鉱山、炭坑、繊維産業、鴉片、棉製品などなど。
2. 日本軍現地諜報機関(梅機関)の影佐が調整し、1940年1月にやっと2回目の会談で合意するのです。
1940年3月30日、偽蒙疆聯合委員会・偽中華民国臨時政府の高度の自主性を確認します。偽中華民国臨時政府は偽華北政務委員会と名称変更します。偽中華民国維新政府は自主的に解散し、梁鴻志は監査院長にしてもらいました。その上で、三者を合同させた偽南京国民政府が作られました。三者に高度の自主性を認めましたのは、それぞれを支配する日本軍隊が違うからです。
5 「租界の回収と治外法権」の撤廃とは何か
「参戦して日本協力することと引き換えに、長らく懸案となっていた租界の回収と治外法権の撤廃を実現させました」(『傀儡政権』256頁)と広中は自画自賛しております。
これへの批判は、石川禎浩京大教授を引用して反論とします。
「中国は日本に宣戦布告したものの、日本は結局敗戦まで中国には宣戦布告をしなかった。日本にとって建前上の中国とは、『対手にせず』と否認した重慶政府でなく、南京にこしらえた汪政権だったからである。日本は対米英開戦の『詔書』で『残存政権』と呼んだ重慶政府に対する和平工作を裏面で続ける一方で、汪政権の対米英『参戦』を認め(一九四三年一月九日に宣戦布告)、同政権の主体性を装う意図から、新たな条約を結んで上海などの租界を汪政権側に返還した。汪政権は、租界接収を対日和平・対英米参戦の成果と自賛したが、参戦はそれに見合う税金や徴用などの負担増加を汪政権に強いるものでもあった。」(石川禎浩『革命とナショナリズム 1925-1945』(岩波新書(新赤版);1251:シリーズ中国近現代史;3),岩波書店2010年10月,209、210頁)。
6 愛知大学国際研は中国の研究者を貶めている‼
広辞苑によりますと「貶める」の語義は「劣ったものとして扱う。みさげる。さげすむ。」です。愛知大学国際問題研究所のみなさんは「貶める」態度を認めないのですから、「現在の中国歴史学会の偽政権・傀儡政権とする態度」を見下げる、蔑んでいることになります。つまり、中国を蔑視する戦前の態度と同じ態度で、中国の歴史研究をしていることになります。
広中一成、並び愛知大学国際問題研究所は、ただちにその態度を変更する必要があります。
(文中敬称略)
