2006年単行本として販売された図書の、講談社学術文庫版である。2019年7月発行。著者は加藤聖文。
1905年9月4日日本ロシア戦争後のポーツマス条約により、思いもかけない利権が日本に転がり込んできた。1905年12月22日《中日会议东三省事宜正约》(日本でいう「日清『満洲』善後条約、以後地名,国名としての「満洲」は、本来使うべきでないので「」を使用する)で、ロシアからの利権譲渡が確定した。
南「満洲」を占領していた日本軍は条約発効後も軍政を継続していた。…内心はそのまま南「満洲」における影響力を確保しておきたかった(37頁)。
思い出してみよう。日本ロシア戦争の原因は、ロシアの南下政策が根本原因ではなく、日本ロシア協商から日本イギリス同盟への日本の政策転換にある。
それをロシアが南「満洲」に居座ったからと日本の教科書は主張するが。だったら、ポーツマス条約後、日本も即時撤退でないとおかしい。
1906年6月7日、南「満洲」鉄道株式会社は、勅令第142号で設立された。
国策会社であるので、関東都督府(陸軍),領事館(外務省)に「満」鉄が加わり、縄張り争いが混迷を深める結果となった(38頁)。
1917年11月革命によってボリシェヴィキ政権が樹立され、日本ロシア間の合意はすべて空文になり、南「満洲」で扶植しつつあった権益はきわめて不安定なものへ変わっていく(65頁)。
次いでシベリア干渉である。
日本にとってチェコスロヴァキア軍団の救出は口実であって、シベリア東部, 極東を入手し、東三省北部の支配, 間島支配を進めることが日本の目的だったのである。北サハリン侵略さえ当初から考えられている。シベリア干渉は、やはり日本の侵略と考えて良いだろう。
そこで日本は張作霖との提携を図る(72頁)。しかし中国の覇者を夢見る張作霖としては、日本の要求を鵜呑みにして傀儡視されるわけにいかなくなった(103頁)。
奉天(清が1644年北京に遷都後、奉天府と呼ばれた。1923年張作霖が奉天とするが、1929年易幟後、張学良が瀋陽に改名した。ところが偽満国は奉天の名を採った。しかし1947年中華民国は瀋陽と改称し現在に至る)総領事である吉田茂(戦後サンフランシスコ講和条約,日本アメリカ安全保障条約を結んだ張本人)は武力行使を唱えている(108頁)。
ここに1928年6月4日張作霖爆殺事件(皇姑屯事件)が起こる。
子、張学良は同年12月29日易幟し、中国東北は完全に中華民国の一部になる。
中東鉄路(東清鉄道を中華民国成立後中国東方鉄路と改称)を実力回収しようとしたが失敗。「満」鉄包囲線を形成しようとした。南「満洲」鉄道の東西平行線は、もともと「満」鉄が認めていたものである(122頁)。
ところが1931年9月18日九一八事件(柳条湖事件)が関東軍によって起こされる。
「満」鉄は翻弄されるが、十河信二理事(戦後、国鉄総裁)ただ一人が関東軍支持を表明する(136頁)。当時の「満」鉄総裁は内田康哉というが、1931年10月6日,本条繁関東軍司令官と小一時間の会議を持ち、関東軍支持に転向したのであった(140頁)。裏で動いたのが十河である。
こうして「満」鉄は絶頂期を迎える。中東鉄道を略取し、1524mm軌間を1435mm(標準軌)に変更し、長春⇒吉林⇒図們⇒朝鮮(朝鮮内は三ルートある)⇒日本海の鉄道を完成させた。
しかし、終わりの始まりであった。「満洲」問題は完全な内政問題に変わった(172頁)。1936年6月10日「満」鉄附属地はすべて行政に移譲された。
華北駐屯軍域である冀東密貿易では「満」鉄の天津事務所も大きな役割を果たしている。
さらに1937年7月7日七七事件(盧溝橋事件)が華北駐屯軍によって起こされる。
この結果「満」鉄は華北進出に乗り出していった。逆に言うと、満州での利権失墜がある。
(満洲時代の岸信介)
岸信介は日本産業株式会社(日産)と裏工作し、1937年12月27日「満洲」重工業開発株式会社を成立させた。こうして「満」鉄は創業当時の鉄道と炭鉱にもどってしまった。
岸は戦後にA級戦犯から首相にまで駆け上がり「昭和の妖怪」と言われた冷徹さを端的にあらわした人物である(168頁)。

