(許してください漢語です。「百科」より)
ところがバイカル湖周辺から柔然(róurán)の丘豆伐(qiūdòufá)可汗がモンゴル高原を統一し、北魏との対立が決定的になった。
北魏は長城沿いに軍鎮を置きチュルク系高車(gāochē)などの遊牧部族集団を配した。
しかし孝文帝(xiàowéndì)の漢化政策により鮮卑部族集団そのものが存亡の危機に陥る。それが「六鎮の乱」だが、結局、北魏は535年東西に分裂する。
上図 怀朔镇(huáishuò zhèn=懐朔鎮)の高歓(gāohuān)が鄴(yè)[河北省邯郸(hándān)]を都に「東魏」を建てた。その後同氏は「北斉(qí)」を建てる。
他方武川鎮(wǔchuān zhèn)は「西魏」を建てる。都は長安(cháng'ān)にしたが如何せん軍事力がない。そこで府兵制(徴兵制)を行う。宇文泰(yǔwén tài)である。その後「北周」を宇文氏が建てる。北周は577年に華北を統一した。
隋(suí)を建てた文帝楊堅(wéndì yángjiān)と唐(táng)を建てた高祖李淵(gāozǔ lǐyuān)とは、いずれも武川鎮出身で、独孤信(dúgū xìn)の娘つながりで親戚である。軍属としては李淵の方が格が上である。
楊堅が長安を都として建国できたのは、軍事力である。589年に南朝 陳(chén)を滅ぼし、中国全土統一に成功した。しかし皇太子を殺した息子煬帝(yángdì)の高句麗(고구려)遠征失敗から隋は混乱し、李淵が唐を建国した。
