「百度」より:李世民

 太原(tàiyuán)から挙兵し、618年に唐(táng)を建国した李淵(lǐyuān)もtürk(突厥)族に臣従していた。子の太宗李世民(lǐshìmín)の活躍で群雄を制圧し、626年彼は「玄武門の変」クーデタで実権を握った。doğu türk(東突厥:doğuは漢語dōngの借用か?)は、8世紀に入ると北モンゴルの突厥以外のtürk族である鉄勒(türkを漢語に音写=zhílēi)が反乱を起こし、また雪害に見舞われ危機に陥った。太宗が攻め Ilig-qaγan(頡利可汗)が捕まり、突厥第一可汗国は滅びる。

 
türk(突厥)族はアルタイ山脈方面にいた遊牧部族集団で、阿史那土門(ashina tumen)
が柔然(róurán:東胡の末裔:モンゴル系と見られる)を552年に滅ぼして、突厥第一可汗国を建国した。サーサーン朝ペルシアと結んでエフタルを挟み撃ちにして滅ぼし、ソグディアナ(西トルキスタン)をも勢力下に置いた。大帝国を建設したわけである。
 
646年、鉄勒(türk)族の一つ薛延陀(拼音xuēyántuó:türk語不明:鉄勒の最有力部族)を太宗は倒し、鉄勒諸部を服属させ、遊牧民を羈縻(キビ)政策を実施した。さらに634年チベット高原東北部安多(チベット語:a mdo:拼音 Ānduō)にあった青海を服属させた。
 
高宗李治(gāozōng lǐzhì)が657年西突厥(xī
tūjué:türk語(十姓=on-oq))を打倒し、668年高句麗(고구려)を滅ぼし、世界はイスラームと唐の支配下に入った。
(乾陵=高宗陵、近くに武則天の陵もある)
晩年、彼は武則天に政治を委ねる。高校世界史教科書は彼女らが政治を混乱させた(武韋の禍)と教えるが、武則天はそれまでの門閥貴族社会を脱却し科挙制に基づく官僚世界を作った女性である。否定的評価を今はしない。
682年東突厥は骨咄禄(türk:Khutlugh:「天の幸を受けた者」の意)の音写)が復興し、Ilteeish kagan)と称した。これを突厥第ニ可汗国と言う。玄宗李隆基(Xuánzōng lǐlóngjī)の時融和策を取ったが、744年九姓鉄勒(Toquz-Oyuz)の部族連合体をまとめ上げた
回鶻(拼音: huígŭ :türk:uyyur)に滅ぼされ滅亡した。
 
以上、突厥族の動向である。