では11回目の授業。

2-9. 自由民権のたたかい。

(1) 世界の中での自由民権運動というが、日本は既に朝鮮を不平等条約下に置き、琉球王国を併合し、アイヌ人の強制移住をしているのであるから、日本政府は自由民権を唱えることが出来ない。

「同時期に起きたというなら、……世界史的な背景で比較する視点」(50頁)を持たねばならない。

日本の自由民権運動はあくまでも体制内の政権獲得運動であるから、

 

(2) 日本の自由民権運動とウラービー(Urābī)やマフディー運動とは異質である。

 エジプトの上流社会、陸軍、ビジネスの世界は、徐々に、ヨーロッパ人に支配された。また、ヨーロッパ式の法理体系が導入されたことによって、高等教育を受けたエジプト人の公務員や軍人は憤慨した。彼らは、ヨーロッパ人がエジプト社会を牛耳ることによって、自らの出世の道が閉ざされることを不安視した。農民は課せられた重税に対して不平を募った。これがウラービー(Urābī)革命の土壌である。

アフマド(Aḥmad)いわゆるマフディー運動を開始した。エジプトで起きたウラービー革命に呼応するかのように発生したこの運動は、西方列強、オスマン帝国、ムハンマド アリー朝に三重の支配に抑圧された当時のナイル渓谷の終末論と救世主を待望する神秘主義に影響されている。

これらのイスラームの運動と日本の自由民権運動運動を同列に扱うことは違った性格のものを同列にすることに相違ない。

 

(3) 問題は田城賢司自らが言うように「性格が違う」(52頁)。

では自由民権運動から国会開設・大日本帝国憲法制定へ。

これがこの単元の主題であろう。大久保利通の暗殺後「明治14年の政変」(1881年)後の日本の政治上の変化である。

「『明治14年政変』が大きな転換点だったとはいえ、政変後ただちに政府の優位が確立したわけ
ではなかった。それでも、憲法制定・議会開設で主導権を確保するとともに、±佐派・佐賀
派・慶応系の有力政治家・官僚を排除し薩長の権力独占を実現した政府に対して、民権派とく
に自由党は具体的な争点・目標を打ち出すことができなかった。……加波山事件の直後、ついに自由党は解党し、
12月には立憲改進党も総理の大隈が離党して活動を停止した。組織的な民権運動はひとまず終わりを告げた。」(民権と憲法 / (岩波新書(新赤版) ; 1043 : シリーズ日本近現代史 ; 2) / 牧原憲夫 著 / 2006年 / 岩波書店)

 

探究活動は、自由民権活動そのものを問わねばならない。自由とはなにか。民権とは何か。

日本の政治制度が遅れていることに生徒たちが気づくことが必要である。