では第10回目の授業。

(1) 日清修好条規ーー東アジアの国際関係の変化

日清修好条規をどのように評価するか、が探究活動になろう。

「『歴史総合』の授業」単元2-7からは日本史の内容だが世界史視点が欠けている。

日清修好条規

第一條 此後 大日本國と大淸國は彌和誼を敦くし天地と共に窮まり無るへし又兩國に屬したる邦󠄈土も各禮を以て相待ち聊侵󠄃越する事なく永久安全を得せしむへし

第二條 兩國好を通󠄃せし上は必す相關切す若し他國より不公󠄃及ひ輕藐する事有る時其知らせを爲さは何れも互に相助け或は中に入り程克く取扱ひ友誼を敦くすへし(ウィキ・ソースより)

目的は田城賢司が言うように、「朝鮮問題の打開」(46頁)であった。つまり朝鮮侵略への方向で

ある。

 

(2)台湾出兵と琉球処分

上が「日清両国互換条款並びに互換憑単」である(ボワソナ-ドと国際法 / 大久保泰浦 / 2016年 / 岩波書店 / 234頁)。

一に「保民義挙」とあり、民の概念を日本臣民と特定することは難しいと思われる(拙書10頁)。台湾出兵は、日本の侵略事件とならなかっただけでなく琉球国の存在も認められた。

 

では琉球処分とは何だったのか?

明らかに琉球王国の日本併合である。

「探究活動」で琉球処分はどのようにとらえられたのか、と三択を考えさせているが、1609年の徳川家康の薩摩藩を用いた侵略による両属体制の形成を前提とすると、琉球併合以外の何物でもない。

 

(3)朝鮮の開国ーー江華島(カンファド)事件を巡って

この節を書いた田城賢司は万国公法を問題にしているが、これこそが江華島(カンファド)事件後の中国日本の争点であった。

江華島(カンファド)事件は雲揚号の非を認めるのではなく、かえって朝鮮側の非をとがめて条約を締結しようという算段であった。江華島(カンファド)事件後、森有礼(ありのり)が清国駐在公使として派遣され李鴻章(lǐ hóngzhāng)と交渉した。


森: 貴国と日本とはともにアジア州にありますが、残念ながら西洋に抑えられてしまっています。
李: 我々東方諸国は中国が最大で、日本がこれに次ぎます。その他各小国とは一致協力して局面を挽回しなければなりません。そうして初めてヨーロッパに対抗できるでしょう。
森: 私の見たところでは、和約(日清修好条規)は何の役にもたちません。
李: 両国の平和友好はすべて条約によります。どうして役に立たないといえましょうか。
森: 和約は通商のことを処理するために過ぎません。国家の大事はただどちらが強いかによるのみで、すべて条約によるというわけではありません。
李: これは謬(びゅう)論です。力を侍(たの)んで条約を違(たが)えるのは、万国公法の許さざるところです。
森: 万国公法もまた無用です。
李: 条約に反し公法にそむくことは、万国に容認されないでしょう。

(国境を越える歴史認識 / 劉傑 ; 三谷博 ; 楊大慶 編 / 2006年 / 東京大学出版会 / 13頁)

 

田城賢司氏は雲揚号艦長の報告書改竄(ざん)を述べているが、これは既に2006年に明らかにされているものであって、「近年」ではない。「幕末・維新 / (岩波新書(新赤版) ; 1042 : シリーズ日本近現代史 ; 1) / 井上勝生 著 / 2006年 / 岩波書店」。

雲揚号が最初に砲撃したのが、草芝鎮(チョジジン)という。海側城壁に弾痕がある。

 

大久保独裁が求めたものは主権国家体制であり、時を同じくする樺太千島交換条約による北海道の領有である。

黒田清隆は、北海道の開拓に難渋する現状では自然条件がいっそう不利な樺太まで手が回らないという考えを抱いていた。樺太の開拓は進展しなかった。結局、1875年5月に樺太千島交換条約によって日本は樺太を手放した。交換の際、日本は樺太アイヌを北海道に移住させた。

 

なお、探究活動(2)の地図は著作全体と同じく読めない。版権を取得して使用しているのであるから、こんな読めない地図を載せないで欲しい。教材(版権が必要ない)でも使えない。