では第15回目

「2-12(3) 戦後の清」は、この節になじまない。

清の政治状況の変化は、ここからである。

 

1. 下関(马关mǎguān:下関の別称)条約、第1条の重要性は、「清は朝鮮を独立自主の国である」としたことより、「独立自主を損害するような朝鮮国より清に対する貢献典礼などは今後すべてこれを廃止するものとする」という後段である。

 

① すなわち、中国の朝貢体制が崩壊した。従って、琉球の日本合併も正式にはこの時である。

 

② 遼東半島, 澎湖諸島, 台湾を清は日本に割譲する。台湾征服戦争は前節で触れた。いずれも日本の侵略である。

中国分割に拍車をかけたことは事実である。それにしても64頁の地図は酷い。本当に版権をもらったのなら、こんな裏字の見える資料を #岩波書店 が提示するわけがない。教室と出版は違うよ。

沙市(shāshì), 重慶(chóngqìng), 蘇州(sūzhōu), 杭州(hángzhōu)を開港させた。その結果最恵国待遇でイギリスが長江流域を支配することになる。

 

③ 2億テール(両)の賠償金, 3千万テールの三国干渉による賠償金を子どもたちは実感できないから、それを分かるように説明すべきである。

計2億3千万テール(両)。当時の時価で日本円3億6千万円。

当時の日本の国家予算8千万円の4年分強以上の銀を、3年分割、イギリス=ポンド金貨で支払わせた(2021年度予算総額106.6兆円×4年分=426兆円)。その保証として3年間日本は山東省を軍事占領した。

 

清は財政破綻をきたし、鉄道鉱山利権,租借地借款で、繕おうとするが「瓜分の危機」を持つに至った。

 

2. 八国聯軍侵略戦争 

1900年6月17日、八国聯軍が大沽砲台(天津へ向かう海河河口。南北土塁の上に砲台があった)を攻撃した。

(八国联军侵略时期照片集 / 北京:学苑出版社 / 229頁)

慈禧大后(cíxǐdàhòu:日本でいう西大后)は宣戦を決意した。義和団の乱が原因ではない。宣戦布告をしたから八国聯軍が来たのではない。2000年7月14日、天津が日本に占領された。

八国聯軍19,000人(内8,000人が日本軍)は8月14日北京に侵入し、略奪の限りを尽くした。

この戦争は天津の限定的な戦争であったにも関わらず、児玉源太郎台湾総督が厦門(xiàmén)を占領しようとした。アメリカ,イギリスが反発し実現できなかった。

 

これらの日本の仕業は、日本の侵略の本質をよく表している。

 

では八国聯軍の実態。

有名な写真である(Wikipediaより)

なぜ八国なのに9人の兵士がいるのか。これを探究活動にすれば良い。

3,000人派遣した殆どはインド兵であった。だから左から4人目にインド兵がいる。イギリス兵は海軍が主力であった。

日本軍8,000人、ロシア軍4,800人、イギリス軍3,000人、アメリカ軍2,100人、フランス軍800人、オーストリア=ハンガリー軍58人、イタリア軍53人、ドイツ軍は遅れて出兵。

実は「歴史総合の授業」(71頁)のように、イギリスは南アフリカ戦争に陸軍の全精力を投入しており、兵を送れなかった。このことを分からないと日本=イギリス同盟がなぜ結成されたか、分からない。