不楽是如何 -99ページ目

ラグビーチャンピオンシップ

いやあ、良いニュースが飛び込んできましたねえ。

 

 

1日2試合ですか。

しかも有観客。試合ごとに観客の入れ替えとかやるんかなあ?

これ、アルコール販売ありだったら2試合目なんてベロンベロンでしょうね。

とにかく、中止にならなくてよかった。

開催に向けての前向きな努力、いいですねえ。

 

パラリンピックも今日始まりましたが、いまだ反対と言っているアホにもこの前向きな姿勢を見倣ってほしいですね。

 

あと、

 

 

ニュージーランド代表ヘッドコーチは2年単位なんですね。

昨年のトライネーションズで、オーストラリア、アルゼンチンに連敗したときは、ちーとヤバかったw

 

三ヶ根山スカイライン

え~っと、パンクの話に2回も費やしました。

本当は、奥三河の林道の件でチラっとふれて1回で済まそうと思っていたのですが、書いているうちにその時の情景が思い出されて、ついつい長文になってしまいました。

 

三ヶ根山スカイラインは最初からプランに入っていて、三河を離れる最後によって行こうと。

まさか2日目に寄ることになるとは思ってもみませんでした。

 

事案の発生した8月11日その日のうちに新城から西南に道の駅筆書きの里幸田を目指します。ここで、一夜を過ごし、少し時間があったので、周辺地図で見つけた、

 

 

昔の三河地震で露出した断層面を見に行きます。

 

   

 

この地震、起きた時期も悪かったですねえ。1945年って。

実は戦中から戦後ってのは、結構、大きな地震が続き、

鳥取地震(1943年/M7.2)、昭和東南海地震(1944年/M7.9)、でこの断層か絡む三河地震(1945年/M6.8)、昭和南海地震(1946年/M8.0)。

毎年、どこかで大地震の時代でした。

 

そして、今回の遠征で予定に入れていた三ヶ根山スカイラインに向かいます。

三河に行くにあたって、この道を走ろうと決めた理由はコレ。

 

 

三ヶ根山スカイラインにこれがあると知ったのは結構古く、大学生の頃でした。

今は亡き内田康夫さんの小説、浅見光彦シリーズ「三州吉良殺人事件」の最初の方にこの殉国七士の墓の話が出てきました。

 

連合国軍によって戦後、事後法により戦犯とされ、処刑された7人の方がここに眠っています。

この処刑された方々の遺骨に関しては、最近、米公文書の秘密指定が解除されたのとともに出てきて

 

 

太平洋に散骨されたとのことでした。昭和の公文書で秘密文書であっても期間が過ぎればちゃんと公開してくれるんですね。と、変なことに感心しました。

 

三ヶ根山には、横浜で火葬された7人の遺骨をある弁護士が見張りの目をかいくぐって空き缶一つ分ぐらい盗み出し、ここに埋葬したとのことです。

 

そして終戦の日に近い8月12日、私はここを訪れました。

 

 

ここを訪れた大きな理由は特に無いんですが、なんかA級戦犯、A級戦犯って言われて、別に日本人が裁いたわけではく、半ば連合軍の報復的な裁判で裁かれた印象が強かったので。昭和生まれの日本人として1回ぐらいは来ておいた方がいいなと。

他に、ここには戦没者の慰霊碑がたくさん建立されており、

 

 

右翼の聖地と呼ぶ人もいるみたいです。

私は別に右翼ではありませんが。

私は昭和48年生まれですが、終戦は私が生まれる僅か28年前です。

今年で終戦の日から76年。先の戦争はもう歴史になりつつありますが、そう遠くない昔に理由はどうであれ戦争が起こり、多くの日本人が亡くなったってことを忘れてはいけないと思います。

そういう思いも込めて、私は今年も終戦の日前後、靖国神社へ参拝すると思います。この年も記録をみると8月15日に靖国神社に行ってますね。

 

けど、なぜカレンカーペンター?

 

 

とか、こい鯉広場って・・・

 

 

なんか、不思議な場所やなあとも思いつつ、

 

 

ドライブも楽しみ、三ヶ根山スカイラインを後にしました。ちゃんと晴れていたら、結構、絶景のドライブになっていたと思います。

 

南アフリカVSアルゼンチン 第2戦

ついに、南アのゴールラインが割れました!

南アフリカ29-10アルゼンチン

 

前半からFWの優位をタテにPGで着々と点数を積み上げる南アフリカ代表。

アルゼンチンも第1戦目に比べてボール動かしているなあという印象。

 

 

 

前半15-3。

後半、南アフリカ代表がマピンピ、マークスと日本でもおなじみの顔ぶれでトライ2本で29-3。

 

 

このマピンピのトライは、ラストパスを放ったルルー(これまた日本でおなじみ)が上手く回り込んで、一人余らせました。

この後、ラインアウトモールからマークス。

まあ、時間的にほぼ勝負ありって所でした。

 

にしても、アルゼンチンは惜しいプレーが多かった。

南アフリカのディフェンスを崩した局面も多かったです。

 

で、80分過ぎてから、南アフリカもボーナスポイントを狙ってペナルティ貰ってもプレーを切りません。

最後はボールがいったりきたりで、アルゼンチンがゴール前ラインアウトを起点にトライ。

この辺は、南アフリカの鉄壁のディフェンスが少し綻んだ感じでした。

コンバージョンも決まり、29-10でノーサイド。

 

1トライを許したとはいえ、ゲームをほとんどコントロールした南アフリカでした。

にしても・・・

 

 

この日も眠気も吹っ飛ぶ、後半から出場のムボナンビさんでしたw

2回目のパンク~せつない三河物語~(2)

奥三河の林道を気持ちよく走り、日帰り温泉も楽しみ、歴史に纏わる場所を訪問し、物凄く気分を良くしていた私。

 

好事魔多し。

野田城跡にて発覚したこの事態。

 

 

どこでだ?

全く分からない。多分、林道走行中に刺さったか。

いや、そもそもよくここまでバーストせずにいてくれた。

様々な思いが交錯し、多分、もう無理だろうなと思いつつも、貫通してないかもとか、もしかして修理でなんとかなるかと、一縷の望みを持って近くのタイヤ館へ。

いや↓の道を走っていた時にあっタイヤ館があるなあと気に留めていたんですがまさかこんなことになるとは。

 

右手奥にあるのがタイヤ館
 

奇しくもこの日は8月11日の日曜日。店も盆休みかなあと思いながら言ったら開いておりました。

お店の人にお話しを聞くと、明日から盆休みで、この日はもう早めに閉めようと思っていたらしいです。

ギリギリ滑り込みセーフで、見て貰ったら、貫通しておりました。で、もうこの太さのボルトが貫通したら修理も不可ということで・・・

この状態で走っていると、徐々に空気が抜け、走行の圧力に耐えきれなくなったところでバーンってなるらしいです。

で、パンクしたタイヤの処分だけお願いして、スペアタイヤに交換。

 

明日再び行こうと思っていた奥三河があ!

俺の盆休み終了。

1月に交換したばかりのATタイヤ、約8か月でご臨終~。

スマン、ジムニー・・・

 

でもこのタイヤ館の店長さん、遠くから来ているので固定客になりそうもない飛び込みの客に対してもすごい親切で、対応もご丁寧で。

どうもありがとうございました。

 

走行中にバーストしなかったことや、このお店の方が親切だったことで少し救われた私は、とりあえず野田城で行こうと思っていた、長篠古戦場、織田本陣に向かいました。

 

 

 

 

 

 

火縄銃の3段撃ちで有名な長篠の合戦ですが、今では、3段撃ちなんて無かったってのが定説になっているみたいで、奇襲で武田軍の退路を断った織田・徳川連合軍が、武田方に決戦を挑ませ、数に任せて圧倒したって所が本当みたいです。

私が子供の頃習った教科書ってのは、歴史に関してはかなり変わっているでしょうね。

 

織田本陣近くで見つけた、徳川家康長男、信康公の本陣地。

 

 

この信康さんってのも最期は悲劇的ってのがドラマでもありましたが、本当のところは徳川家の内部抗争で、浜松VS岡崎みたいな構図で最後は、岡崎城主を家康自ら誅したってことらしいです。

 

で、これからどうする?

東京帰る?

 

またまた突然のトラブルでちょっと凹んだ私でした。

2回目のパンク~せつない三河物語~(1)

いきなり、タイトルオチになっておりますw

経緯はこちら↓

 

さて、奥三河の林道を楽しんで、山を降りる私。

途中、設楽町禅殺宝雲山 福田寺に立ち寄りました。

この辺は下調べの段階で、寄ろうと思っていた所です。

 

 

武田信玄がこのお寺で没したという言い伝えがあるそうです。

 

 

元亀3年(1572年)12月、三方ヶ原の戦いで徳川家康に快勝した信玄は、その後、元亀4年=天正元年(1573年)になって野田城を落とし、その直後に病床が悪化します。そこで長篠城から伊那街道(国道273号線)から三州街道を抜け、甲府への帰途、信州駒場というところで没したというのが通説?ですが。

 

ここにもこういう言い伝えがあるそうです。

 

 

このお寺は、国道273号線(伊那街道)沿いにありますから、甲府への帰途に立ち寄ったってことは考えられますね。

 

ただ、信玄公のお墓の脇に、武田四天王の一人、馬場信房公のお墓?もありました。

ただ、馬場信房は信玄没後2年後の長篠の合戦の折に、織田・徳川連合軍の前に総崩れになった武田勢の殿を務め、討ち死にしたそうですから、二人が同じところに眠っているってのは少し考えにくいですね。

 

 

ここのお寺の方か、散歩していた地元の方かは分かりませんでしたが、このお寺に池を作った時か改修したときだか忘れましたが、多くの甲冑類が出土したそうです。昔からの言い伝えで、早朝に甲冑姿の武者たちがこの寺でドタバタしていたらしい、とのことでした。

甲府への帰途、信玄はこの寺に立ち寄って少し療養した。

その後、長篠の合戦の折に総崩れになった武田方の武者がこの寺に立ち寄り没した。馬場信房の家臣だった人かもしれせん。

みたいな話がごちゃ混ぜになって、武田信玄、馬場信房の両名の墓碑が後から建てられたってところはあり得る話ではないでしょうか?

 

福田寺をでた私は、再び伊那街道を信玄軍が引き上げた方向と逆の方向へ走らせます。

 

 

「そうだ、せっかくだから野田城に行ってみようと」

この辺からドライブの訪問地を広げ始めよう。な~んて考えて、

 

 

来ました野田城へ。

武田信玄が包囲中にこの城から聞こえてくる笛の音に聞き惚れて、近づいて聞いているうちに、場内から狙撃されたという伝説がある城です。その傷が元で亡くなったと。昔の大河ドラマ徳川家康でもそのようなシーンがあったことを覚えています。

 

   

 

城自体はあまり大きくは無いのですが、丘の上に建っていて、攻めずらいのは攻めずらかったでしょうね。

と、さあ、次は長篠の古戦場後でも行ってみようか。

この瞬間までは、すごく気分が良かった。今回の遠征は過去最高やな~んて車を見たら、

 

 

ガーン 

はい終了 笑い泣き