「弟と僕は似ている 〜怒りの奥にある“わかってほしかった”心〜」




弟がやるべきことをやらずに、

何時間もお風呂に入っていたり、

確認ばかりに時間を費やしていたりする。


そんな姿を見ると、

どうしてもイライラしてしまう。

「また同じことを…」「大事なことを後回しにして…」

そう思ってしまう自分がいる。


でも最近ふと気づいた。

弟の姿は、かつての“僕自身”を映しているのかもしれない。



弟の脅迫性障害と、僕の高次脳機能障害


弟はおそらく、脅迫性障害(OCD)の傾向がある。

僕は高次脳機能障害。


表面的には違うけれど、

根っこにある“不安”や“混乱”はとてもよく似ている。


•弟は、やめたくてもやめられない確認作業に縛られている。


•僕は、記憶できない不安で、何度も確認せざるを得ない。


違うように見えて、

「安心が持てない」ことからくる行動という意味では、僕たちはとても似ている。



僕は仕事ができる。でも「完璧」ではない。


僕の場合、重要なことには集中力を総動員して、絶対に間違えないようにしている。


•優先順位は自分の中できちんとつけられる

•本当に大事なことは、何度も確認し、確実にこなす

•判断が必要な場面では、しっかり力を発揮できる


だから、周囲からも「仕事ができる」と思われているし、実際に働けている。


でも一方で――

「簡単なこと」「細かいところ」は見逃してしまうことが多い。


•それは注意が向いていないから

•自分の中で重要度が低く、意識がそこに向かない

•だから、「そんな簡単なことをどうして?」と思われるようなミスが出る


完璧はできない。

でも、要点と本質には集中して応えようとしている。

それが僕の生き方であり、僕なりの「頑張り方」なんだ。



弟の姿に、かつての自分を重ねていた


弟のこだわりや確認の多さを見ると、

僕が会社で言われてきた言葉がよみがえる。

•「こんなこともできないのか」

•「やる気がないんじゃないの?」

•「ちゃんとしてよ」


あのとき、僕は本当に必死だった。

でも、理解されなかった。

普通に見えるから、苦しさが伝わらなかった。


だから今、

弟にイライラして怒ってしまうのは、

もしかしたら――

“昔の自分”を守ろうとしているのかもしれない。



鏡の法則:弟は、僕の心の反射鏡だった


弟に対して怒りが湧いたとき、

こう問いかけてみた。


「今、弟に怒っている自分の中に、昔の自分はいないか?」

「“ちゃんとしたかったのに、できなかった”自分を、責めていないか?」

「弟の姿が、まだ癒えていない過去の僕を呼び起こしているんじゃないか?」


そう思ったとき、

すこし胸が痛くなって、でも心がほどけていった。



かつて自分がかけてほしかった言葉を、弟にかけていく


怒ってしまうことはある。

でも、そのあとに、そっと言葉をかけるようにしている。


•「それだけ確認してるってことは、不安なんだよね」

•「大丈夫、できてるよ。今のままで十分だよ」

•「間違えたっていい。少しずつでいいから」


それを弟にかけることで、

昔の自分にも、その言葉が届いている気がした。



まとめ:弟と僕は、どちらも“安心できなかった心”を持っていた


弟も僕も、

形は違えど、「安心が持てない」からこそ、必死で工夫して生きてきた。


弟を理解しようとすることは、

過去の僕をもう一度受け入れる旅でもある。


怒ってしまう日があっても、

そのあとに、「今日は少し向き合えた」と思えたら、

その一歩が、きっと誰かの癒しにもつながっていく。



今日も弟は確認作業を繰り返していた。

でも、僕の中には少しだけ優しさがあった。

その優しさを、かつての自分にも向けてあげたいと思った。