御先祖様の機関短銃 | 黄昏オヤジの暴発日記

黄昏オヤジの暴発日記

退職後の第二の人生を手探りで進むオヤジのモデルガン+独り言。黄昏に染まりながら気まぐれに発火しつつ、この世の由無し事に毒を吐く(令和4年5月20日・タイトル一部修正)

 ちょっと風変わりな銃が好きである。それも少々旧式なものであったり、試作的なものであったりすると、なおよろしい。

 そんなオヤジが古い「Gun誌」とネットから拾ってきた情報を合せての「とりびあの種」。本年一発目は「純和風機関短銃」。(純国産短機関銃) 

 なお、ベルグマンMP18などがあるがそれらは外国製なので対象外とした。いつもどおり、ネットからの情報の切り貼りなので真贋のほどは不明。決して信じ込まないように!写真も勝手に収集^^;怒られたらどうしよう・・・。

 

○メジャーな「百式機関短銃」

 第二次大戦までの純国産の短機関銃というと一番有名なのは「百式機関短銃」。タナカからモデルガンとしても発売されていたくらいなのでまずほとんどの人が知っているはず。反面、正式採用されたか否かを問わず、旧軍の短機関銃はこれしか知らないという方がいらっしゃっても不思議ではない。

 「百式」そのものの詳細に関しては、ウイッキペディアに日本語で掲載されているのでそちらを読んでいただいた方が絶対に間違い無い。「百式」のみならず太平洋戦争前の機関短銃の開発の歴史に関して大変詳細に語られており実に興味深い。

 なお、若い方は知らないかもしれないが、あの国本圭一氏がアメリカの旧日本軍兵器コレクターの協力の下でこの実銃を実射し、そのレポートが「Gun誌」1976年1月号に掲載されている。当時、これはなかなかに貴重なレポートだった。

 国本氏が実射したのは落下傘部隊用の折りたたみ銃床モデル。ほかに後期の量産タイプ(銃剣装着用着剣棒の無いタイプ)もあったが、マガジンが折りたたみ銃床モデル用の1本しかなく射撃できなかった。信じられないことだが折りたたみ銃床モデルと後期量産タイプではマガジンキャッチのシステムが異なり、マガジンが流用できなかった。マガジン本体はほぼ同じにかかわらずマガジンキャッチだけが違うという兵站を無視した設計に、国本氏も唖然とした様子であった。

 使用可能なオリジナルの8ミリ南部カートリッジは入手不可能なため、38SPをネックダウンしハンドロードした特製のカートリッジを使用している。氏は実射した印象を反動が軽く、近距離では非常に有効と思われると語っている。なお、この際、国本氏は旧軍の軍服を着用していたが、実射場所がハワイの米軍基地であったため、並み居る米兵から好奇の眼で見られいささか閉口したようだ。

 さて、メジャーな「百式」に関してはこの程度でよろしいだろう。次はちょっとレア。ちなみにまた国本氏が登場するよ。

*折りたたみ銃床モデル。国本氏が実射した銃にはリアサイトが欠落しており狙いを付けるのに戸惑ったらしい。

 

○そこそこレアな「試製二型機関短銃」

 ついで名を知られているというと「試製二型機関短銃」かな。こちらは少しレアだけど、こちらも1976年8月の「Gun誌」で国本圭一氏が実射レポートをしており、古手の読者にはおなじみ。この銃についてもウイッキペディアに日本語でページがあるので、詳細はそちらを参照いただきたい。

 国本氏が実射したのは、「百式」と同じくウォーレン・セスラーという有名な旧日本軍兵器コレクターが所有するモデル。シリアルナンバーは「12」で、国本氏によるとハンドメイドといっても良いくらいの素晴らしい仕上げの銃であったらしい。氏曰く「これまで見てきた旧軍兵器の中ではおそらく一番の出来映え」。また、実射しての印象についても 重さが約3キロと軽く、全長も70センチ未満なため取り回しも良く、大変扱い易い短機関銃と語っている。

*きれいな試製二型。コッキングポジションにある。スライド後部にボルトが取り付けられ一体となって動く。レシーバー末端が一段と太く後方に突き出しているが、この部分がエアバッファーとなっている。銃身下から飛び出しているパイプ状の突起に銃剣を装着する(一見こちらが銃身に見える)。

*左側面。ちょっと分かりづらいがレシーバー真ん中あたりから横に突き出している(影になっている)のがスライドと一体となったコッキングハンドル。

 ただし、「百式」とほぼマガジンを使用しながらマガジンキャッチの機構が異なる。それも先に述べた「百式」の2つの方法とはさらに別の方法であり、旧軍の兵站方針を疑いたくなると感想を述べていられた。また、氏は「試製二型」は「百式より後に製作されたものと思われている」と語っているが、現在では「百式」以前に製作され、「試製三型」→「改修三型」と改良されて「百式」に至ったというのが通説。このあたり、当時はどう思われていたのだろうか。

 なお、この国本氏のレポートはほとんど実態を知られていなかった「試製二型」の貴重な実射レポートだったようで、今でも海外のサイトで見かける。今回、オヤジはロシア語のサイトでこの記事をみた。

 余談だけれど、第一回「全日本BLK化大会」で、このモデルを完全フルスクラッチで製作された方がいらっしゃった。それも発火モデルとしてだったように記憶している。凄い人がいたもんだ・・・。

 試製ということで正式採用には至らなかったようだが、後に述べる「試製一型」とともに上海の陸戦隊で使用されたともいわれているし、大戦末期旧日本軍の軍備が絶望的になったころには南方にも投入され戦場で使われたらしい。シンガポールやビルマでイギリス軍に捕獲され、後日研究レポートが作成されている。

 なお、英軍兵士らは、その短く特異な形状から「ブルパップ」(ブルドッグの仔犬という意味)と呼んでいたという話が伝わっている。これに関して、国本氏もハワイの米軍基地で米兵らが、この銃を「ブルパップ」というあだ名で呼んでいたと述べている。本来の「ブルパップ」方式(マガジンを含む主要な機関部がグリップ後方にある)とは異なるが、それを連想させたのだろうか。

 そのレポートによれば、捕獲されたのは末期に製造された車両搭乗兵士用に製造されたもので、やや全長が短いタイプ。実射評価では重量、反動とも軽く制御しやすく優秀であるが、バレルの周囲にメインスプリングがあり汚れや熱の影響を受け劣化しやすいとの評価だったという。

*大戦後、本銃に関しイギリスで行われた研究結果のレポート。

*ガンブルーが美しい「試製二型」。放熱ジャケットの放熱孔の数に注目。一番上のモデルでは左右に4つ上部に5つだが、このモデルでは左右には7つ上部には6つ確認できる。しかし、銃剣を取り付けるパイプ状の突起がない。そうなると、後期モデルかなと思うが出来栄えが良すぎる。個性的なスタイルだが、見慣れるととても魅力的に思えてくる。オヤジはこのモデルガンがほしい!

*分解された状態。これは国本氏が実射した銃である。一番上の向かって左側がスライドで、その下にあるのが取り外されたボルト。銃床の上にあるのがレシーバーだが、かなり加工が面倒そうな形をしている。また、銃床中央のトリガーガードも同じく加工に手がかかりそうだ。

*これも国本氏が実射した銃。氏は全長が短いので着剣の意味が無いと語っている。

*上と比べると右側面の構造に違いがあるし、銃剣も装着できない。また放熱孔の数も違う。こちらが後期型の可能性がある。

 

○ちょっと寄り道、謎なシナ銃

 驚くのが他の国が「試製二型」をコピーして使用していたということ。どこが?中国(国民党時代の)である。一般には奉天二型(ムクデンタイプ2)と呼ばれている。

 戦時中か大戦終結後、旧日本軍から捕獲した「試製二型」のリバースエンジニアリングによるコピーといわれている。

 「中国人民革命軍事博物館」(1959年完成、2015年以降全館改修)に実物が保存されているというので公式サイトで確認したところ、確かにこの銃がきれいなショーケースに入って展示されていた。それも2挺も。ただし、説明は「法国造MMF11毫米冲鋒○」となっている。「フランス製11ミリサブマシンガン」という表記。こんなレベルまで日本の真似をしたということを否定したいのか、はたまた通説とは異なり本当にフランス製であったのか、謎だね。

*中国でコピーされたというムクデンタイプ2。おそらく中国人民革命軍事博物館の2015年改修前の展示状況を撮影したのものと思われる。口径は45ACPに変更されマガジン挿入口は下に移動し、トンプソン短機関銃のマガジンを利用するようになっている。「試製二型」の特徴であったエアバッファーは省略。全体に作りは粗雑。朝鮮戦争当時、中国義勇兵が同銃を使用し、それが米軍に捕獲されたといわれる。

*↓これも改修前の展示状況を撮影したものと思われる。よく見ると下の表示札には「徳國伯格旻11.43mm」と記載されているように見える。それであれば「ドイツ製ベルグマン」という意味か。しかし、合理性や美意識を誇るドイツ人やフランス人がこんな変な形の引金をデザインするとは思えない。混迷は深まるばかりですなぁ・・・。 

 

 

○激レア「試製一型」、おそらくスタイルはある意味最強!

 まぁ、言っていることややっていることの分からんご近所と出来の悪そうなパチモンのことは放っておいて元に戻ろう。

 「試製二型」以前となると一気にレア度が高まる。「二型」があるなら「一型」もあるだろうと探したら、本当にあった(◎o◎)ノ。こんな好き者のオヤジも先日まで知らなかった。

 これがまた実に個性的というか、妙ちくりんな形でオヤジはいたくツボを刺激された。こんなである↓

*前後を間違えたのか、引金の位置を間違えたのか、何しろ不思議なスタイルである。どうやって構えれば良いのか一瞬まごつきそう。ストックには「試一型」と白くペイントされている。

*1935年に開催の「帝国陸軍軍兵展」で新しい小型火器のサンプルとして展示され、当時の昭和天皇も眼にされたという。陛下はこのスタイルにどんな印象を持たれたのだろうか・・・。

*左側面、そのメカニカルな造形に心が揺さぶられる。

 銃身の周りにリコイルスプリングがセットされ、さらにその周りにボルトと一体となったスライドが被さる。したがって射撃中は銃身の周りのスライドが前後に激しく動く。射手の手が銃身に触れそうになり危険であるという指摘があり、後に三角形の金属製ハンドグリップが銃身の下に付けられるようになった。取り外し可能であり、その状態での写真もいくつかある(もう一つ下の写真)。

*銃身が見えているので射撃位置にあると思われる。ボトルネックの8ミリ南部を50発も装填するため、マガジンは異様なほど前方にカーブしている。マガジン先端にはヒンジ付のラッチがあり車両のマウントに固定できた(写真は開いた状態)。

 しかし、グリップの傾き方向が逆に思えて仕方がない。

 なお、今では珍しくないグリップ内マガジンであるが、この時代としては先駆的である(そもそもグリップの位置が違うという意見もありか・・・)。

 

 8ミリ南部口径で装弾数は50発。オープンボルトファイアリング、セミ・フル切替え可能で、フルの毎分発射速度は500発。レシーバ末端に「試製二型」にも引き継がれた特徴的なエアバッファーを備えている。

 1936年頃にイギリスへ戦車登場兵などの防御兵器として提供されたが採用にはならなかった。旧日本軍にも正式採用されなかったが、実際には「二型」とともに上海に展開した海軍陸戦隊に少数配備され使用されたという。・・・どっちが人気あったのかな。

*設計図。下が自慢のエアバッファーの構造

 これも余談だけれど、日本語で検索すると「戦場」というゲームのアイテムとして登場していることが分かった。こんな銃よく登場させたもんだ。その変態的なディテールもしっかり再現されており感心するばかりである。

 

○東京砲兵工廠1927年モデル及び1928年モデル

 さて、もうさすがにないだろうと思ったら、まだあった^^;。凄いぞ日本(^^)/。

 軍が1923年に短機関銃の設計を指示、それに対する回答として当時小石川にあった東京砲兵工廠が製作した1927年モデルと1928年モデルの二種。いずれも8ミリ南部口径。

 1927年モデルが金属テープフィールド(?)の50発ドラムマガジンと通常の30発ボックスマガジンを装備。当初、発射速度が毎分1200発と高速であり改修されたらしいがあまりうまく機能しなかったらしい。

 一方で1928年モデルは1927年モデルとは全く違う機構で装弾数は18発なれど、セミのほか2発バースト発射機能!を持っていたという。

 しかし残念ながらトライアルの結果、いずれも海軍に採用されたSIG・MP1920(スイスでライセンス生産された「ベルグマンMP18」)に敗れた。

 なお、旧日本軍は短機関銃の有用性を理解せず開発が後手に回ったのではないかという意見を聞く。それが正しいのかどうかは分からないが、そこそこ早い時期から短機関銃に興味を持っていたのは間違いないようだ。

*1927モデル。なよっ、としたストックが面白い。

*ストックの形状が特徴的であるが、それより金属テープフィールドというものの仕組みが知りたいなぁ。1枚の金属テープ?には10発セットされ、それが5枚つながっていたというけど、よく分からない。細長いのは30発用のボックスマガジン。前後独立グリップというのは当時としては珍しいんじゃないだろうか。

 

*1928年モデルの設計図。

 引金の付け根あたりに歯車のようなパーツが見えるが、これが2発バースト機構。ボルトは前

進しているが、ボルト内に独立したファイアリングピンがあり、コッキングポジションにあるように見える。ということはクローズドボルトファイアリングだったようだ。短機関銃というよりカービン銃みたいに思える。マガジンはダブルフィードダブルカラムのように見えるが少し傾斜が急だね。まぁ18発程度なら問題なかったのかな。(このモデルの前に15発装填のダブルカラムダブルフィードマガジンを使用する南部拳銃のプロトタイプが存在した事実がある。その拳銃は6挺現存という。そのマガジンを改良し流用したのかもしれないね。

 なお、このモデルに関しては明確な写真が一つとして残っておらず全体的なスタイルは不明であり、また上記のような特徴的な機構から一番ミステリアスな銃といえるかもしれない。

 

*とあるサイトでようやく見つけることが出来た写真。赤い線で囲った銃がそれではないかという。ただし、これが確実に1928年モデルなのかどうかは、この写真を発見した方も断言していない。写真自体は、大戦終結後、捕獲された旧日本軍の銃が連合軍側の手で廃棄処分される際のもの。もう、今となっては解明は不可能なのだろうか・・・・・

 

 

○終わりにあたり

 はじめにも申し上げたが決して信じ込まないように。何分、日本語しか分からない素人が海外の正体も不明なネットを徘徊し、翻訳ソフトの奇天烈な訳文を経由し収集した情報なので話半分で願いたい。でも、「百式」以前にもいくつかの日本製短機関銃があったのは事実のようだ。それも個性が際立っているのが面白い。特に「試製一型」には惚れたなぁ^^;

   

 ということで、今回はこれまで

 あ~疲れた