「ばっかじゃないの!!」
突然のウンスの怒鳴り声に、チェヨンは唖然と口を開けたまま怒るウンスの姿を見ていた。
「そういう気持ちが今まであって貴方を見守っていたんじゃない!
何で少しも気付かなかった訳?親切心でしていたと思っていたの?」
乙女心をわかっていない!と声を上げ再びウンスが怒り出す。だが、チェヨンは怒られている意味がわかっていないのか、呆けた顔のまま黙って見ているだけだった。
「機械云々に興味が無いとかはもうどうでもいいわ!近くにいた女性の気持ちに気付かず、ずっと弄んでいただなんて!」
「え?!」
そこで漸くチェヨンは我に返り、そんな事はしていない!と反論して来た。
「俺はメヒを弄んだりなどしていない!」
「気持ちを利用したのだから同じだわ!」
「知らなかったんだから、そう返すしかないだろう?」
「即答する必要はないでしょう?」
「ならどう言えば良かったんだ?わからないからユウンスに聞いたというのに、何故俺が怒られなければならないんだ?」
しかも、ウンスは自分の相談出来る相手の筈なのに、何故この者はメヒの味方ばかりするんだ?
理解不能な苛立ちに徐々にヨンの熱も上がってきたのか、不機嫌な表情に変わっていく。
だが、怒るウンスはそれには構わず更に言葉を続けていた。
「長年同じ隊で過ごしていくのだから、早めにその女性に謝っておつき合いした方が良いんじゃないの?」
「は?何故ユウンスにそこまで指図されなきゃならないんだ?そんな事は自分で決める事だ」
「はぁ?わからないと言ってその話を振って来たのは貴方でしょう?私はアドバイスを言っただけよ!」
「あど?・・・、違う!
俺が言った事でメヒは納得するか?と聞いただけで・」
「する訳無いでしょうが!そこが女心がわかっていないのよ!」
「何故メヒの気持ちがわかるという?ユウンスも同じなのか?」
「そんな初恋の一つや二つあるに決まってるでしょう!」
「?!」
ウンスの言葉にチェヨンは、驚き目を丸くして固まってしまった。
喧喧囂囂と騒がしい部屋が一気に静かになり、静寂になった事でウンスも漸く我に返る。
まだ固まったままのチェヨンを見ていたウンスは、一つ咳をすると無意識に立っていたベッドに腰を下ろし息を吐き出した。
初恋の一つや二つてそんなにある訳は無いけれど、あの子が格好良いや好きな子にチョコを渡すなどはしていた思い出はあり、淡い恋心を理解出来ない訳では無い。
きっとその女性もそんな初恋なのではないかと思う。
どう発展していくのかは知らないけど、この男はその想いを刀で斬る様にすっぱりと切り捨ててしまったのだ。
はっきり言ってチェヨンはスポーツバカだわ。
少し間の後、黙っていたチェヨンがゆらりと椅子から立ち上がりウンスが其方に目を向けると、俯いていたが目は静かにウンスを見ていた。
「な、何?」
「・・・いや、俺は少し勘違いをしていた様だ」
「は?」
「そうだな、数年見なければ人は色々変わるのだから・・・そういう事だな」
「何言ってんの?」
「帰る」
「ん?そう・・・」
「ユウンス」
「?」
「邪魔したな」
「・・・?はぁ・・・」
そういうと、チェヨンの姿は何時もの様にゆっくりと消えていく。
彼はまだウンスをジッと見ていたが、そのまま何も言わず消えるまで無言のままだった。
「・・・とりあえず仲良いんだから受ければ良いんじゃないの?
何で私に聞いて来たのかも意味わからないわ・・・!」
きっとその女性は特殊部隊に入る程の優秀で諦めずにチェヨンを助けてくれるだろうし、彼もその女性の有難みに気付く筈だ。
背も高く顔も男らしいチェヨンはきっと女性にモテるのだろう。
そういう男は人気があるのはやっぱり世界の理(ことわり)なのだ。
「・・・フン」
それから、
ウンスが高校を卒業し、
大学に入学してもチェヨンは姿を現さなかった――。
ガシャーン!!
酒楼の店内で突然一人の男が隣客の机の上を滑る様に吹き飛ばされて行き、その騒ぎを近くの客達は慌てふためきながら机の下へと避難し、気付いていなかった客達は唖然とその様子を見ていた。
吹き飛ばされた客が元いた場所には、黒い服を着た立派な体躯の男がいてその姿を見た客達は我先にと店から逃げて行く。直ぐにその男の傍には、同じ格好をした大男達が集まったが身体を抑える事は出来なかった。
わかっている。
自分達ではこの男は抑えられないと。
「おい、もう一度言ってみろよ?」
「ひぃぃ!」
投げ飛ばされた男は落ちた地面で怯え始め、仕方ないと怯えた男の前に一人の同じ服の男が立ち塞がった。
「隊長、飲み過ぎですよ!」
「酔ってねぇ、今こいつが俺達の悪口を言っていただけだ」
「それでもです」
「はぁ?お前らはいちいち此奴らが酒の肴に俺達の笑い話をしているのを我慢しているのか?」
「全部ではありません、それに構う必要も無い話ばかりです」
「・・・はっ」
鼻で笑い舌打ちをしたヨンは、酒が不味くなったと大股で店を出て行った。
あちこちの机がひっくり返され、酒やつまみが散乱した店内を見てチュンソクはため息を吐き出し、後ろを振り返るとまだ蹲っている男の肩を叩く。
「お前!赤月隊の話は箝口令が出ているのだぞ!」
「ひぃ!ご勘弁を!どうかお上には言わないで下さい!」
「だったら、二度と言うんじゃないぞ!」
はい!と頭を下げる男を一瞥し、チュンソクは近くにいるトルベに声を掛けた。
「あの小猿は何処だ?」
「小猿?」
「この間隊長が連れて来たガキだよ、テマンか?彼奴に隊長の後を追わせろ!また何処行くかわからんからな」
「あぁ、彼奴か」
わかったと返事をしトルベが店内から出て行き、チュンソクは懐から幾つかの銀を机に置いて店主に声を掛ける。
「修理代だ、足りなかったらまた宮殿に来てくれ」
「い、いいえとんでもありません!」
置かれた銀の数に逆に店主が焦ったが、その姿を見る事もなくチュンソクと他の隊士達は店から出て行った。
遠巻きに見ていた客達も彼等が出て行くと少しずつ机に戻り、再び食事を始める者、店主の手伝いを始める者、吹き飛ばされた男に文句を言いチュンソクと同じ様に窘める者とそれぞれ動き出したのだった。
そしてトルベが見つける前にテマンが既にヨンの後を付いて行ったとのチュソクの報告に、
なら自分達は帰るだけだとチュンソクを先頭に数人の迂達赤隊も宮殿へと帰って行った。
「・・・テ、隊長、帰らないんですか?」
「先に帰れ」
「・・・」
「・・・」
誰も寄らない町外れの空き家の屋根の上で寝ているヨンに、少し離れた場所からテマンは瓦をカチャカチャと弄りながら様子を見ている。
帰れと言われても、何時もヨンの傍から離れないこの少年を拾ったのは自分かと半ば諦め、仰向けになり真正面にある大きな月を見つめた。
あの酔っ払いが自分達の話を始めたのは知っており、それでも無視すれば良いと思っていたがふと聞こえた言葉に無意識に身体が動いていた。
『あの赤月隊の生き残りかぁ。無駄死にだった奴らだな』
許せなかった。
隊長を。
兄弟子達を。
メヒを。
無駄死にだと?
お前達が俺達の何を知っているのか?
この剣に何人の遺志が託されたと思っているんだ!
未だあの暴君を崇めていた重臣等が取り仕切る宮殿内で、自分達を小間使いの様に扱い気に入らなければ処罰していく殺伐とした王宮を知らず、
酒の肴として笑う民共をどう無視しろと?自分達はこんな奴等の為に怪我をし、泥だらけになっているのか?
―――隊長は、任務をこなしながらどう考えていたのだろうか?
手を横に置くと指先が剣に当たり、カチャリと音が鳴る。
ふと握り部分に巻き付けた布に触れた。
―――メヒ。
やはり、自分では止めれなかったのだとあの亡骸を見て感じていた。
ちゃんとメヒの気持ちに向かい合っていたのか?と問われると、断言出来ない自分がいる。
それでもメヒは良いと言っていた。
それでも嬉しいと。
メヒの気持ちを知っているにも関わらず、自分はこの国が、王政が落ち着いたらとはぐらかしていたのかもしれない。
それでも浅はかな俺は、メヒの気持ちを受け止めたいとも思っていたのだ。
『次の春には契りを交わしたいと思う、・・・どうだろうか?』
鍛錬中に突然言ったヨンの言葉にメヒは硬直し、次には大粒の涙を零していた。あのメヒの告白から6年以上は経っていてそれでも自分の傍にいてくれていたメヒにすまないと思うと同時に感謝の気持ちもあり、漸くだが受け止めたいと言った自分を責める事なく彼女はただ嬉しそうに泣いている。
――・・・これで良かった。
祝福してくれる兄弟子達や隊長の笑顔を見てヨンはそう思う。
ただ何故か、
一瞬だけあの屋敷と、
ウンスが手を上げ笑う姿が頭を掠めた。
しかし、次の春にメヒとの婚儀等催される事は無く、赤月隊解体と全ての隊士達は処罰され、
メヒも自ら命を絶ってしまった。
輝かしい功績は抹消され、箝口令で名前さえ出してはならない。
そのうち隊長や仲間達の名も、本貫も消されていくのだろう。
辛くても充実した任務。
仲間達と笑い合ったあの日々は。
一体・・・!
喉奥に込み上げるものを耐える様に歯を食い縛り、顔の上に腕を乗せ目を閉じる。
まだ近くにテマンの気配はあるが、そのまま寝てやるのだと闇の中へと沈む様に意識を落としていった――。
「・・・・・え?」
ヨンは目を開け呆然とした。
閉鎖された建物の中に佇んでおり、四方真っ白な見た事も無い壁に驚愕し思わず壁に背を張り付いて周囲を警戒するが、誰もいない長い廊下は外の音さえ遮り、恐ろしい位に静かだった。
しかし。
見た事は無いが、この壁や窓の造りを自分は知っている。
まさか・・・?
何処かからバタンと何かが閉まる音が聞こえ、カツカツと靴音を響かせ誰かが此方に歩いて来る。
少し早めのその音は急いでいるのか、徐々にヨンの方へと近付いて来て、
離れた曲がり角に視線を向けると同時にそこから人が現れたが――。
「あ」
ヨンは思わず声が漏れていた。
長い廊下の先から歩いて来る人物は、
長い髪を緩く縛り薄そうな服装に医員服の様な白い羽織りを着て、手元の書物を険しい眼差しでガザガサと何度も見ている。
髪の色も変わり、
体型もまた少し変わった気がするが、
ヨンには直ぐにわかった。
「・・・ユウンス」
「え?」
名前を呼ばれた人物は足を止めふと顔を上げると、
直ぐ壁側にいるヨンへと視線を向けて来た。
「・・・え?!・・・チェヨンさん?」
目を広げ、持っていた紙がばさばさと手から落ちていく。
だがウンスは驚愕の表情で拾う事もせずヨンを凝視したままだった――。
「ユウンス」
名前を呼ばれ一瞬教授だと思い顔を上げたが正面には誰もいず、壁側に動く物を見つけゆっくり視線を横に移すとそこにいたのは数年経ち更に男らしい姿になったチェヨンだった。
「え?!」
手からは書きかけのレポートが落ちていく。だが、チェヨンがまさか大学内にまで現れる事実に思考が停止してしまう。
「・・・チェヨンさん?」
―――・・・私、呼んでた?
何度も瞬きをしてもチェヨンは消えず、再び現れた事に驚きと疑問で口をぱくぱくと動かす事しか出来ない。
相変わらず彼の服装は時代劇の様で、あの地に未練を残した霊だったのだろうと安易に思ってしまったのだが、しかし成長している姿にやはり幽体離脱状態なのか?とも考えた。
「・・・今、寝てるの?」
「あ?ああ」
ジッとウンスを見ているチェヨンは、子供らしい少年さはすっかり消え、顔も身体も大人の雰囲気しかなく立派な男性になっている。
「特殊部隊?まだやってるの?」
「・・・いや、今は違う隊を指揮している」
「へぇ、隊長?凄いわね!」
ウンスがにこりと笑い、そこで漸くチェヨンは小さく頷いて笑って来た。
以前の様に口を大きく開け笑う姿ではなく、少し恥ずかしそうに笑う姿は何処と無く寂しそうにも見える。言い合いの様な状態で別れ、数年ぶりに会ったからなのかお互いの空気がぎこちないのは仕方ないのだろう。
「それよりもどうしてこんな場所に?」
ウンスが驚いた顔で尋ねて来たが、ヨンもわかる訳もなく首を振るしかない。だが、ヨンの頭の片隅にもしや?と思い付く事はある。
「ユウンス、此処はどこだ?」
「私が通っている大学だけど・・・」
「・・・ふむ、やはり。おそらく・・・」
「な、何?わかるの?」
「・・・」
あの頃の様に目をぱちぱちと瞬かせヨンを見上げるウンスの顔を見つめ、言うべきかと考えてしまう。
言ったら自分の中の何かが変化しそうで、言いたくないとも思う。
しかし、ウンスに伝えておかなければと焦る自分もいて――。
突然。
直ぐ傍で奇妙な音が鳴り響き、
二人はビクッと肩を跳ねさせたがウンスは慌ててポケットから何かを取り出し耳に当てた。
「・・・先輩?え?・・・あ、いえ、いいのよ。また空いた時間を教えて下さい・・・。
うん、あのレポートは机に置いておきますから、はい!」
忙しなく話すウンスを不思議そうに見ていたヨンだったが、ウンスの表情に何かを感じたのか僅かに眉を顰める。
――・・・相手は、男だ。
どんな仕組みか謎だが、空気を振動する音は男の低く、喉の奥から出る様な空気でよくわかる。
少し嬉しそうな、だが寂しい瞳になったウンスを見てヨンは目を細めた。
少しの会話で終わったのか、ウンスがそれをしまい顔を戻してきたがふとヨンの表情に気が付いた。
「・・・何?」
「男か?」
驚いた顔の後、視線を逸らしたウンスに何故か心臓がギリと軋んだ。
ウンスは慌てて落ちた紙を拾い始めたが、その手をヨンは上から押さえ付けると“まだ触れられるのか”と頭に浮かんだ感想を直ぐに追いやり、間近にあるウンスの顔を見つめた。
「・・・夫か?」
「夫?違うわよ!」
「慕い合う仲なのか?」
「・・・慕い?まだ、付き合っては・・・でも、この研究が終わったら付き合ってくれるって・・・」
「ユウンスは、それで良いんだな?」
「―ッ?!」
痛いところを突かれ、口篭ってしまう。
先輩が人気あり偶に女性と歩いている所を私は知っていて、それでも彼は私に声を掛けてくれたのだと嬉しかった。彼に選ばれたと浮かれ、好きな物を贈りレポートを手伝い、彼の隣りは自分がいるべきなのだと必死にしがみついている。
だが、つい最近私は見てしまった。
夜遅く大学からの帰り道横断歩道で立っていると、目の前を先輩の車が走って行き、助手席には別の若い女性が乗っており楽しそうに笑っていた。
自分は一度しか乗せて貰えなかった車。
帰り際にキスをされ綺麗だねと言われ、レポートを渡すと先輩は、ウンスは頭が良くて羨ましいと、そんな彼女がいたら良いなと何時も言ってくれた。
まだ落ちている書類に視線を落とす。
今日は先輩のレポート提出期限日で、急いでコピーし渡さなくてはと思っていた。
目の前にはチェヨンがいる。
――・・・あぁ、私は悩んでいたのだわ。
わかっていた。
誰かに助けを求めていたのかもしれない。
本当の私を知る人を・・・。
身体の力が抜けた気がした。
「・・・私を好きだって言ってくれたのよ・・・」
ぽつりと呟くウンスを見下ろし、ヨンははぁーと大きなため息を吐き呆れた声を出して来た。
「そんな女ではない筈だろう?」
「な、何よ!貴方はきっとあの女性と幸せなのかもしれないけど、私は仕事ばかりでまだ結婚だって、彼氏だって・・・!」
「俺はまだ独り身だ。メヒは・・・もういない」
「え?」
チェヨンは顔を上げ舌打ちをすると、顔をウンスに戻す。
彼の薄くなる姿に、懐かしいとさえ感じてしまった。
「必ず、また直ぐに来る――いいか?その男は駄目だ―」
それだけ言ってチェヨンは消えていった。
「直ぐって・・・何時よ?」
ウンスはまだ散らばっているレポートに目を向け小さく呟いた。
ガバッと勢い良く起きたヨンに、近くにいたテマンは驚き声を上げたが、そんな声など無視しヨンは急いで屋根から飛び降りると兵舎に向かい走り出す。
「テ、隊長?!」
「俺は暫く部屋に籠る!誰も起こすなよ!」
ドタドタと煩く帰って来たヨンに広間にいたチュンソク達は驚き、何事か?と見ていたが急いで二階に上がって行くのかと思えば、ピタリと足を止め下の階を見下ろしてきた。
「俺は暫く部屋から出ない、飯は扉の前に置いといてくれ!」
「ええ?」
「いいか?宮殿以外の用件は持って来るんじゃないぞ!」
持って来たら殴るからな!
そう言うとヨンは扉を激しく閉め、部屋に閉じ篭もってしまった。
「・・・何なんだ?一体?」
慌てて帰って来たテマンに皆が聞いてもわからないとの返事に隊士達は困惑状態になる。
ヨンの命令は絶対であり、仕方なくヨンの食事だけは部屋の扉の前に置く様にしたのだが、初日は食べたが次の日には残っていた。そして三日経つとまた完食されている。
しかし、部屋からは何の物音もしない為、トルベはテマンを中に入らせ様子を伺ったのだが・・・。
「は?寝てる?」
「う、うん」
朝から晩までずっとヨンは寝台で寝ているだけで、何もしていないという。
そんな三日間も寝ているなんて出来るのだろうか?
腹が減るから偶に起き飯を食べては再び眠るという事なのか?
「凄いなぁ、隊長は!そんな事も出来るんだなぁ!」
「・・・それは褒める事か?」
目を輝かせ話すテマンの顔を見ながら、
他の面々は意味がわからん、と首を傾げるだけだった――。
「きゃあ!」
ウンスは道端で悲鳴を上げ、持っているバッグを落としてしまった。
それというのも大学からの帰宅中、近くの公園前を歩いているといきなり肩を叩かれ振り向くと、そこにはチェヨンが立っていた。叫ばれたチェヨンは手を上げたまま固まり、近くを歩いていた通行人はいきなり叫んだウンスを不思議そうに眺めている。
「・・・ハッ!や、やだもう今の蜂?!」
ばさばさとジャケットを叩き急いでバッグを拾うと足早に歩き出し、それを見ていた通行人は再び歩き出した。
だが――。
ウンスは空いている手でチェヨンの袖を掴み、一緒に歩いている。
「蜂?いたか?」
「いいから、早く!」
通行人には自分しか見えないとわかっている為、変な小芝居までしたのにチェヨンはまだ気付いていない。
「あー、恥ずかしい!」
「何がだ?いや、それよりもどうなったんだ?」
腕を掴まれウンスに引かれながらチェヨンが聞いて来た事にウンスは顔だけ振り向き、
「け、結局渡さなかった・・・」
「そうか」
チェヨンは納得したのか頷いている。
ウンスがまだ出来ていないと先輩に伝えると、あからさまに不服そうな眼差しを向けられてしまい、
・・・あぁ、やっぱりね。
何も言わず去って行った先輩の背中を見て、見ようとしなかった部分が見えた気がした。
「・・・チェヨンさん、帰るわよ」
「帰る?」
「私今上京して一人暮らしなの。小さいけどヴィラに住んでるから・・・」
「あの屋敷ではないのか・・・・ん?」
・・・今、一人暮らしと言ったか?
ユウンスだけが住まう家に行くのか?
途端チェヨンはあちこちに視線を彷徨わせると戸惑い始め、どうしたの?と尋ねたウンスをちらりと見て来た。
「・・・いいのか?」
此方を見つめる瞳は困惑気味だが、何故か微かにチェヨンの頬が染まっている様にも見える。
――・・・あぁ、随分と考え方も大人になった様で・・・でも。
「何言ってんの?前も当たり前の様に私の部屋に来ていたくせに」
「・・・・・」
――確かに。
あの時自分でもこれは大丈夫なのか?と疑問さえ浮かんだのだ。
「でも着く前に消えちゃうかもね」
「いや、そこは問題ない、暫く起きないつもりだ」
「へぇ?」
よくわかっていないウンスは目を丸くし、きょとんと見上げて来るその姿をヨンは見下ろした。
年を重ねても相変わらず豊かなその表情に、ウンスの小さい頃と10代の顔が重なっていく。
ウンスに掴まれた腕を見る。
払おうと思えば直ぐ出来るがしたくはなかった。
―――・・・ウンスが触れて来たのは初めてだな。
ヨンは腕を掴まれたまま、
ウンスのヴィラへと一緒に帰って行ったのだった――。
ウンスの住んでいるヴィラに着き、受付ポストから手紙云々を取り出しエレベーターに乗り込もうとした時、何故かチェヨンはそれには入らないと言って来た。
「先程別な男が入ったが消えていた。俺は乗らない」
「あれは・・・」
上下に移動出来るものだと説明してもチェヨンは嫌だと言い、ウンスはだったらと1階ロビー端の階段を指を差した。ウンスの部屋は3階の為どちらでも良かったが、体力の消耗を少なくしたい現代人にはやはりエレベーターを選びたかった。
「此方から行く」
「・・・別にいいけど」
大股で階段を上るヨンの後ろからウンスはヒールで上がるしかなく、自分だけでもエレベーターに乗れば良かったが、おそらくそれも止められたのだろうと肩で息をしながら歩き、建物の端にある自分のヴィラの玄関前に着くと、ボタン式のロックを外しながらチェヨンを見上げる。
「散らかっているから、そんなに綺麗な部屋では無いわよ?」
「あ、ああ」
チェヨンはどう返事して良いのかわからない様で、
もごもごと口を動かしウンスはその顔が可笑しくくすりと笑ってしまう。
「まぁ、一人暮らしの女性宅てそうなるわよね」
ウンスが笑いながら鍵を開けたが、その言葉にチェヨンは直ぐ険しい眼差しを向けて来た。
「では、ユウンスは誰かを入れたのか?」
「はい?」
「誰かを入れた事がある故、わかるのだろう?」
「・・・どうしてそういう所だけ鋭くなるの?」
嫌そうな眼差しをチェヨンに向けたが、相変わらず執拗い質問は終わらない。
ドアを開けチェヨンを中に促したが、顔はずっとウンスを向けたまま眉を顰めている。
「どうなんだ?」
――・・・“どうなんだ?”何その言い方?
確かに1度先輩を上げた事はあったが、30分もいなかった。
わかっている。
どうせ女子力が無い部屋に気持ちも萎えたのだろう、少し会話をして用事があるからとさっさと帰ってしまったのだ。
車で送ってくれたのも、先輩が家に来たのもその日だけ。
彼の好みの女性像に近付けば、少しは変わっていたのだろうか?
とはいえ、今更治す事も出来ない性格と女らしさは仕方ないと諦めていた。
「・・・1度だけ。
・・・でも、お茶だけ飲んで帰っただけ・・・」
「・・・へぇ?」
信じていないのか語尾の強い声を出し、チェヨンは漸く顔を前に向け部屋内に入って行く。
廊下に靴を履いたまま足を上げたチェヨンに、急いで脱ぐ事を教えチェヨンは素直に靴を脱ぎ中へと入ったが――。
「・・・」
廊下を少し歩きリビングに着いたチェヨンは、横の壁を見て固まっていた。
「・・・やっぱり女性としておかしいでしょう?先輩もきっとそれ見て引いてしまったんだとわかるもの」
リビングの白い壁には大学で研究している細胞関連、動物を使った実験結果のデータの書類が幾つも貼っている。昔と違い動物を使った実験は、世界の動物愛護団体からの抗議を受け徐々に減らされていた。特に化学薬品や化粧品等の実験は先に動物を使うのだが、その動物が頻繁に大学に配られる訳でも無くその結果一つ一つがとても大事なものになっている。
無くしたくないとの気持ちで壁に貼っていたのだが・・・。
「・・・クッ」
変な声にウンスがチェヨンを見ると、壁を見て笑ったのか肩を揺らしている。先程の不機嫌からいきなり笑い出したチェヨンに何なの?と不満を漏らしてしまうが、
「良いと思うが?典医寺の侍医は更に酷いからな」
「・・・そうなんだ?」
医者とは考え方が同じなのだな、と言うチェヨンは口角を上げたままウンスを見て来て、その顔は数年前と変わらず強気な眼差しと優しい笑顔だった。
逆にウンスの声が小さくなり返すはめになる。
昔の女性の方がもっと慎ましいのかもしれない。
だけど、チェヨンに良いと言われるとこんな自分でも良かったと思えるのはどうしてなのか・・・。
リビングのソファーにチェヨンを座らせキッチンに行こうとしたが、ふと彼が足下を見ているのに気付く。
「あー、足洗う?浴室教えるけど・・・夢の中でも洗うんだ?」
「わからん・・・が、洗う」
「あ、そう」
浴室に行ったが、また立ったままのチェヨンに仕方ないとシャワーを出し、あまり使っていなかった浴槽にお湯を入れた。
――・・・これは、やっぱり。
湯を溜めながらウンスは考えていた。
見た感じアジア人なのは間違いない。
だが、文明の利器を全て知らないのだ。
実家から送られて来たが使わず洗面台の戸棚にしまっていた手桶を取り出し、後ろのチェヨンに手渡す。
「これを使ってね」
「わかった」
頷く彼を確認し入口にタオルを置くと伝え、ウンスは浴室から出てキッチンに戻り腕を組んだ。
「・・・これは、確実そうって事?」
性格上見える物しか信じないウンスだったが、1番の不思議はやはりこのチェヨンだった。
自分は理数系女子だと言っても、彼の事はどうしても証明出来ていなかったのだ。
彼は高麗人だと言っていた。
あれから探したが、地名はあっても国はやはり無い。
――まさかのまさかだ。
バシャバシャと浴室から音がする。
なるほど、夢を見ているチェヨンでも足を洗えるのか。
・・・うーん。
そこはもうどうでも良くなっちゃったな。
はぁー、とため息を吐き、ウンスはお茶を出す為に冷蔵庫の扉を開けたのだった。
「どうぞ」
テーブルに出された飲み物を見ていたチェヨンだったが、ウンスに促されると手を伸ばし口に運び飲み始めた。
「あれ?前みたいに飲まないと思ったんだけど」
「知らない物は口に入れない様にしていた」
隊のきまりだったのか、彼の意識の問題だったのか、その時から特殊部隊の一員として心構えをしっかりと持っていたのだろう。
「今は・・・大丈夫だからな」
ちらりと見て来たチェヨンにどう反応して良いのかとウンスは一瞬視線を逸らしたが、そうだと顔を戻した。
「前の特殊部隊は辞めたの?」
「・・・」
聞かれた瞬間、
一瞬だけ彼の眼差しが寂しそうに揺れたが直ぐ小さく笑う。
そして。
「・・・ユウンスには、話したいと思っていたんだ」
チェヨンが話をしていた時間は1時間も経っていなかった。
だが、その話の内容はウンスには想像もしていなかった事ばかりで彼が入っていた特殊部隊の事、仲間の事、あのメヒという女性の最期を話す頃にはウンスは涙を流していた。
彼女がどんな女性だったかは知らないが、数年チェヨンを想っていたのは彼の話で充分わかった。
それなのに・・・。
「・・・あれから三年経ったが、間違っていたのかと思っている」
「・・・え?」
「こんな自分を待っていてくれたメヒに感謝してもしきれない。だが、始めから間違っていた」
そう言うと、
チェヨンは正面に座るウンスを見つめ――。
「・・・俺がちゃんと断れば、メヒも違う人生があった筈なんだ」
「そんな・・・」
――・・・既に自分の中には別な女人がいた。
疎ましく感じても執拗い少女の元に行っては、話をしていたじゃないか。
何故その時に、いや数年前に気付かなかったのか――。
「ユウンスに言いたい事がある」
「え?」
少し低めになったヨンの声にウンスは僅かに肩を跳ねさせ、
ジッと見つめ返して来たが
再び、
あの奇妙な音が部屋に鳴り響いた。
我に返ったウンスは急いで立ち上がり、部屋の隅に置いていた鞄からあの小さな板を取り出したが、それを見たウンスの顔が曇り始めていく。
直ぐに音は消えたが、横顔を見ていたヨンはウンスが紙を寂しそうに集めていた場面を思い出し直ぐに理解した。
「ユウンス」
「・・・」
「その男はお前に何をしてくれるんだ?」
「何も・・・でも、何時かは恋人にと・・・」
「本当にその男が良い奴だったら何も言わないが、俺にはそうは思えない」
言葉通りだったのか、ウンスの顔が更に曇っていく。高麗でもそんな男はおり、泣き寝入りするのは何時も女ばかりだと叔母が話していたのを思い出した。
女人を拐かす(かどわかす)などしたいとも思わないが、ウンスが数年前に言った通りメヒに対して取った自分の行動は同じ事なのだろう。
・・・だが、
同じだとしても、
先にウンスを知ったのは俺だ。
「俺もろくな男では無い・・・だが、俺がウンスの傍にいる!」
「はぁ?!」
ヨンの言葉に俯いていたウンスは驚愕した顔を向け、もう1度はぁ?!と声を上げた。
「何言ってんの?!」
「今は夢の中だが何時か、ユウンスを探しに来る」
「無理だって!」
「大丈夫だ、起きたら俺は職を離れる。直ぐ動く事が出来る」
「ええ?!・・・貴方わかってないと思うけど、貴方の時代って・・・っ、あぁ!電話うるさいわね!―あ」
一旦消えた音が再び鳴り会話を遮る様に入って来たが、ウンスは怒りながらその板に何かした様で、音は止まるも唖然とその板を見ていた。
「・・・思わず切っちゃった。先輩の電話、拒否した事無かったのに・・・はは」
ヨンに視線を向けウンスは乾いた笑い声を出し、小さい声は徐々に大きくなるが、その姿をただヨンは黙って見ているだけだった。
笑っていたウンスはそれが収まると大きく息を吐き出し、その板を弄り始めヨンは眉を顰めていく。
「何をしている?」
「先輩に明日会えるかメールするのよ」
「ああ?」
“めいる”の意味は知らないが、ウンスは明日その男と会うという。
今までの話は一体何だったんだ?!
自分の想いをウンスに伝えたではないか!
「ユウンス!」
「誤解しないで、もう何も思ってないわよ」
「だったら何故会う?」
「言いたかった事を言うだけよ。・・・ねぇ、チェヨンさん?」
「何だ?」
「・・・さっき傍にいるって言ったよね?
・・・明日まで、いてくれる?」
その言葉にヨンは驚きどういう意味かとウンスの顔を覗いたが、表情を見て少し間の後ニッと笑い返した。
「・・・ほお?では今日は泊まれという事なのだな?」
薄い笑みを浮かべ揶揄う表情だがそれでも彼からウンスを励ますつもりなのも見て取れ、ウンスもにこりと笑う。
「別にいいわよ。チェヨンさんの寝る場所はここだけど」
そう言い、今座っているソファーを指差すと久しぶりに見る拗ねた表情になった彼は口を尖らせる。
「・・・男心がわかっていないな」
「どの口が言うの?」
チェヨンさんの口からそれが出るなんて・・・。
ウンスはまた笑い出しヨンも小さく声を出して笑ったが、ゆっくりと手を伸ばしウンスの髪に触れる。
「夢の中なのに、触れるのが不思議だ」
「確かにそうね」
「俺としては助かるが・・・」
「知ってる?それでも匂いはしないのよ?」
「あ」
ヨンは言われて気付いたらしく、少しウンスに顔を寄せすんと鼻を動かし確かにと呟いた。
いつの間にか近付いた距離に、どちらともなく視線を合わせ見つめ合う。
「・・・それでも良ければ・・・」
「・・・」
小さく言うウンスの言葉に、ヨンはウンスの顔を凝視していたが、
「・・・触れるだけで満足だ」
ウンスの肌の匂いが惜しいかと問われると確かにそうだが、夢の中で感触がわかるだけでも充分幸せだと思ってしまう。
――・・・途中で起きない様にしなければ。
ウンスの唇に自分のを近付けながら強く言い聞かせ、
ヨンは目を閉じたのだった――。
この話を書いたのは丁度昨年の今頃だったというのを思い出しまして、春企画🌸として半分だけ公開しました(*^^*)
長いのでお暇な時にでも読んで下さいませね(*Ü*)
『イマジナリーフレンド』とは。
通常児童期にみられる空想上の仲間をいう。イマジナリーフレンドは実際にいるような実在感をもって一緒に遊ばれ、子供の心を支える仲間として機能する。イマジナリーフレンドはほぼ打ち明けられず、やがて消失する 。
主に“長子”や“一人っ子”といった子供に見られる現象であり 、5〜6歳あるいは10歳頃に出現し、児童期の間に消失する 。子供の発達過程における正常な現象である。
姿は人間のことが多いが、人間ではない動物や妖精などの場合もある。 また、本人と対話ができるぬいぐるみなど、目に見えるモノをイマジナリーフレンドに含むのかについては研究者によって意見が異なる。
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