涅槃寂静について。


涅槃寂静について考えていると、ハッと思い出したのが、ヨーガ行者の成瀬雅春さんのお話。





例えば、捻挫したりとか色々して歩きづらくなるじゃない。
そうすると、普段スッスッスッと歩けてたのが、歩きづらくなる。
そうすると、「あっ、こんな風に変な歩き方になるんだな」っていうのを自分でよく、よぉく愉しみながら歩くんですよ。
そうすると、「あっ、でもこういう風に歩けばもうちょっと楽に歩けるな」とかって見つけられるじゃないですか。
だからそういう遊び道具がくるんですよ。
(動画47:41〜)

(最初から最後まで、宝石が散りばめられたような動画ですので、ぜひ全編を通して観ていただきたいです。)


※動画が表示されないようです。動画を観たい方は、YouTubeで『ヨーガの指導者が語る、人生の意味【成瀬雅春】』と検索してみてください。



「涅槃寂静」という概念を、定理26に沿って「生きたままで、かつ、この先の苦しみが0」であると定義すると、感触として近いものを感じます。


痛みや不自由さはあるけれど、「苦しみ」は0の状態。この意識状態が日常となれば、この先の苦しみも、きっと0になる…かも。


成瀬雅春さんの意識状態は、情報空間上に存在する「涅槃寂静」という情報が、象徴文化生成として降りてきたもののひとつであるように感じました。


そして、この感触は、「中観」にも共通することだと感じました。空観と仮観を行ったり来たりするという、あの中観です。


この世は空であるけれど、皆それぞれに仮の役割がある。この世は空であると知りながら、仮の役割を果たす。それぞれの抽象度を行ったり来たりできると、この「生」をエキサイトできる✌️⚡️


こうして、繋がりを感じたものを並べてみると、「涅槃寂静」に辿り着くには、高い高い抽象度へ至るアクセス能力を前提として、さらに情報空間を縦横無尽に移動する能力(I.Q.)が必要となるのだと推測しました。




----参考記事----