へなちょこ ユテコ の Don't Worry, Be Happy -40ページ目

へなちょこ ユテコ の Don't Worry, Be Happy

僕らは地上では「旅人」
                                          ここでは 感じるまま、気ままに、思ったままを「音楽」と共に・・・。

。。。。。。。。。。

【詩篇119篇】o19a(アレフ)


psm119:1  幸いなことよ。全き道を行く人々、主のみおしえによって歩む人々。

psm119:2 幸いなことよ。主のさとしを守り 、心を尽くして主を尋ね求める人々

psm119:3  まことに、彼らは不正を行なわず、主の道を歩む。

psm119:4  あなたは堅く守るべき戒めを仰せつけられた。

psm119:5  どうか、私の道を堅くしてください。あなたのおきてを守るように。

psm119:6  そうすれば、私はあなたのすべての仰せを見ても恥じることがないでしょう。

psm119:7  あなたの義のさばきを学ぶとき、私は直ぐな心であなたに感謝します。

psm119:8  私は、あなたのおきてを守ります。どうか私を、見捨てないでください。


。。。。。。。。。。


おはようございます。

今朝は少し肌寒い?かな。皆さん体調には十二分に気をつけましょうね。



では、今日も早速詩篇を共に。

僕の心に留まった言葉はコレ。

幸いなことよ。主のさとしを守り 、心を尽くして主を尋ね求める人々






何が幸いだと記されているかあ?

さとしを守り、心を尽くして主(神様)を尋ね求める人々。


え・・・なんか正直真面目なのはちょっと。。



僕なんかはそう思ってしまう。。

でも

何故そのように規律を守るっていうような事が幸いなのだろうか?




それは、この箇所からみてみよう。

psm119:4  あなたは堅く守るべき戒めを仰せつけられた。




この説明下記に記されているが、

人は神様の仰せよりも、サタンの囁きを信じて自分自身で善悪を判断するような愚かな状態になった。

サタンはその判断により神に背くようにいつも囁き続けている。


人が選んで背いたにも拘らず、神様はいつでも堅く守るべき戒めを仰せつけられた。



神様は人がどれ程背いてもいつも僕らの傍にいて

どれ程背いても僕らに正しい判断が出来るよう語り続けてくださる。





幸いな事は、その事情を知って

愛して守ろうとされる神様の心を知っている事。



僕らは知ってるだろうか?




知らなくても、今 それを知ることが出来た。

僕らは今日この言葉と出会い、この神様の愛の中に入る事が出来る。




今日も詩篇を共に口づさんでみましょうね。

初めは訳わからなくて大丈夫。

サタンが煙幕を貼ってるから解らないのは当たり前なのかもよ。



今日も神様が備えられた素敵な一日。

隠された素敵を捜しに今日も一緒にでかけましょうね。

・・・・・・・・・・

http://meigata-bokushin.secret.jp/index.php?%E3%80%8C%E4%BB%B0%E3%81%9B%E3%81%A4%E3%81%91%E3%82%8B%E3%80%8D

4節「あなたは堅く守るべき戒めを仰せつけられた。」 (新改訳)

Keyword;「仰せつける、命じる、定める」 command, direct, order,  lay down,
119:4, 138/7:6/33:9/42:8/44:4/68:28/71:3/78:5, 23/91:11/105:8/111:9/148:5

  • 「仰せつける」と訳されるツァーワーצָוָה(tsawah)は、旧約で502回、詩篇では15回。その15回のうち詩119篇2回使われています。この動詞が聖書の最初に出てくるのは、創世記2章16節です。「神である主は人に命じて仰せられた。『あなたは園のどの木からも思いのまま食べてよい。しかし、善悪の知識の木からは取って食べてならない。それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ。』の「命じて」がツァーワーצָוָהです。これは大切な命令として神が人のもとに置かれた教えでした。そこには人として生きる大切な教えを導くものでした。しかし、人はその神である主の教えを守ることなく、それを食べたのでした。
  • 善悪の知識とは、自分で善悪の基準を決めることであり、それはまさに神のように生きることを意味します。神を信頼して従順に生きことの大切さが、神の命じる仰せの中に込められていましたが、それがないがしろにされてしまうことが起こりました。これが原罪と言われるものです。
  • 神が私たち人間に仰せられる命令―そこには最も大切な事柄が含まれているのですが、私たちの方がそれを理解できないのです。アダムは神が「食べてならない」と命じておいた木から食べたことで、土地は呪われ、一生、苦しんで食を得なければならなくなり、その行く末は、ちり帰らなければならなくなってしまいました。
  • 詩119篇4節の「あなたは堅く守るべき戒めを仰せられた」とあるのは、まさに神の恩寵なのです。人間の高慢は人からも神からもなんら指図されたくない、自分の思いのままに生きたい、それが自由だと錯覚していますが、神からの「堅く守るべき戒め」を知らずして、真の自由は得られないのです。ですから、詩119篇の作者は、このことを正しく受留め、感謝しているのです。同119篇138節には「あなたの仰せられる(צָוָה)さとしは、なんと正しく、なんと真実なことでしょう。」と告白しています。
  • モーセは神と人とが会見できる幕屋(あかしの幕屋とも呼ばれます)を造るように命じられました。幕屋には神が私たちとかかわりをもたれるためのありとあらゆる知識がそこに隠されています。それゆえ、モーセは神が命じられたとおりに造らなければなりませんでした。
  • ツァーワーצָוָה(tsawah)のギリシャ語訳はディアタッソー(διατασσω)です。使徒パウロはこのことばを使って、「主も、福音を宣べ伝える者が、福音の働きから生活を得るように定められておられます(διατασσω)」(Ⅰ コリント9:14)と述べています。

・・・・・・・・・・

。。。。。。。。。。

 

【詩篇118篇】o19

psm118:1  主に感謝せよ。主はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまで。

psm118:2  さあ。イスラエルよ、言え。「主の恵みはとこしえまで。」と。

psm118:3  さあ。アロンの家よ、言え。「主の恵みはとこしえまで。」と。

psm118:4  さあ。主を恐れる者たちよ、言え。「主の恵みはとこしえまで。」と。

psm118:5  苦しみのうちから、私は主を呼び求めた。主は、私に答えて、私を広い所に置かれた。

psm118:6  主は私の味方 。私は恐れない。人は、私に何ができよう。

psm118:7  主は、私を助けてくださる私の味方 。私は、私を憎む者をものともしない。

psm118:8  主に身を避けることは、人に信頼するよりもよい。

psm118:9  主に身を避けることは、君主たちに信頼するよりもよい。

psm118:10  すべての国々が私を取り囲んだ。確かに私は主の御名によって、彼らを断ち切ろう。

psm118:11  彼らは私を取り囲んだ。まことに、私を取り囲んだ。確かに私は主の御名によって、彼らを断ち切ろう。

psm118:12  彼らは蜂のように、私を取り囲んだ。しかし、彼らはいばらの火のように消された。確かに私は主の御名によって、彼らを断ち切ろう。

psm118:13  おまえは、私をひどく押して倒そうとしたが、主が私を助けられた。

psm118:14  主は、私の力であり、ほめ歌である。主は、私の救いとなられた。

psm118:15  喜びと救いの声は、正しい者の幕屋のうちにある。主の右の手は力ある働きをする

psm118:16  主の右の手は高く上げられ、主の右の手は力ある働きをする

psm118:17  私は死ぬことなく 、かえって生き、そして主のみわざを語り告げよう。

psm118:18  主は私をきびしく懲らしめられた。しかし、私を死に渡されなかった。

psm118:19  義の門よ。私のために開け。私はそこからはいり、主に感謝しよう。

psm118:20  これこそ主の門。正しい者たちはこれよりはいる。

psm118:21  私はあなたに感謝します。あなたが私に答えられ、私の救いとなられたからです。

psm118:22  家を建てる者たちの捨てた石 。それが礎の石になった。

psm118:23  これは主のなさったことだ。私たちの目には不思議なことである。

psm118:24  これは、主が設けられた日である。この日を楽しみ喜ぼう。

psm118:25  ああ、主よ。 どうぞ 救ってください 。ああ、主よ。どうぞ栄えさせてください。

psm118:26  主の御名によって来る人に、祝福があるように。私たちは主の家から、あなたがたを祝福した。(→マタイ21:9

psm118:27  主は神であられ、私たちに光を与えられた。枝をもって、祭りの行列を組め。祭壇の角のところまで。

psm118:28  あなたは、私の神。私はあなたに感謝します。あなたは私の神、私はあなたをあがめます。

psm118:29  主に感謝せよ。主はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまで。

。。。。。。。。。。


おはようございます。

いや~。作業をしていなくて、さっき会社から帰ってきたところ。

色んな環境の人が居てる。それも良しとされてる。

他人と比較する事が無いように。。恵みはその人一人一人に十分用意されてる筈だから。



さて今日も詩篇から、僕の心に留まった言葉を。

 

psm118:6  主は私の味方 。私は恐れない。人は、私に何ができよう。

psm118:7  主は、私を助けてくださる私の味方 。私は、私を憎む者をものともしない。

psm118:8  主に身を避けることは、人に信頼するよりもよい。

psm118:9  主に身を避けることは、君主たちに信頼するよりもよい。





僕達は大丈夫。

どんな問題の最中でも、僕らと一緒に居てくれてるのは神様自身だから。

僕らを見守り支えられるのは

全てを創られた神様だから。



 

psm118:19  義の門よ。私のために開け。私はそこからはいり、主に感謝しよう。

psm118:20  これこそ主の門。正しい者たちはこれよりはいる。




僕ら自身ではこのように義になり得ない。

でも、

ジーザスが変わりに義の衣を着せてくれるから、僕らは義の門から大胆に入れる。



神様はそれを体験できるよう導かれる。

この詩篇を口ずさむ事によって。。。




では、今日も素敵な一日が用意されている。

隠された素敵を捜しに今日も共にでかけましょう。。



・・・・・・・・・・

http://tastehebr.exblog.jp/d2010-03-30

・25b節「ああ、主よ。どうぞ栄えさせてください。」 (新改訳)
・25b節「ああ、ヤーウェ。どうか成功させてください。」(岩波訳)

Keyword;「栄えさせる、成し遂げさせる」 prosper, succeed,
1:3/37:7/45:4/118:25

◆ツァーラハצָלַח(tsalach)という動詞は、礼拝用語にも、恩寵用語にもなります。前者の礼拝用語として使われる場合には、「成し遂げる」「目的を果たす」「みごとに実現する」「勝利を得る」「繁栄する」という意味になります。恩寵用語として使われる場合には、「栄えさせる」「成功させる」「繁栄させる」「幸運な人にさせる」「成し遂げさせる」「幸いをみせる」という意味になります。

◆詩1篇3節では、主のおしえを喜びとし、昼も夜もそのそのおしえを口ずさむような人を、主は、水路のそばに植えられた木のように、「何をしても栄える」とありますが、それがツァーラハצָלַחです。ですから詩118篇25節の「主よ、どうぞ栄えさせてください」とは、「私のすることすべてを成功させてください。」ということになります。

◆ツァーラハצָלַחは旧約では55回、詩篇では4回と少ないのですが、イザヤ書ではとても重要な箇所に出てきます。特に、受難のしもべを預言する53章では、その苦難のしもべを砕いて、痛めることは主のみこころでした。イザヤ53:10には、「主のみこころは、彼(受難のしもべ)によって成し遂げられる。」とあり、そのしもべも自分のいのちの激しい苦しみのあとを見て満足する。」とあります。イザヤ55:11では、神は「わたしの口から出ることばも虚しくわたしのところに帰って来ない。必ず、わたしの望むことを成し遂げ、わたしの言い送った事を成し遂げさせる。」とあります。

◆イエス・キリストの十字架上で語った七つのことばの第五番目に、「わたしは渇く」というのがあります。確かに、キリストは一滴の水も口にすることができなかったため、そうした肉体的な渇きはあったものの、ここでいう「わたしは渇く」とはそのような意味合いではありません。イエスのいう「わたしは渇く」とは、換言するならば「わたしは神のみこころを実現したい。それを成功させたい。」ということです。これがイエスの言う「渇き」です。

◆壮絶な痛みと苦しみにもかかわらず、最後まで御父のみこころを実現することが御子イエスの食物であり、渇きをいやすものでした。そしてそれがもう目前に迫った時、「完了した」と叫ばれたのです。これはイザヤ53章の苦難のしもべが「自分のいのちの激しい苦しみの後を見て満足する」ということばと同義です。イエスはみこころを成し遂げた後、て「父よ。わが霊を御手にゆだねます」と言って息を引き取りました。

◆イエスこそ信仰の創始者であり完成者です。サタンの十字架の計らいは、それすらも神によってみこころを実現する機会とされてしまったのでした。

・・・・・・・・・・

。。。。。。。。。。

 

【詩篇117篇】o19


psm117:1  すべての国々よ。主をほめたたえよ。すべての民よ。主をほめ歌え。

psm117:2  その恵みは、私たちに大きく、主のまことはとこしえに至る。ハレルヤ。


 

。。。。。。。。。。


おはようございます。

ようやく・・・日曜日。目の周りのピクピク痙攣が気になり始めてるユテコです。

さあ、今週はどんな一週間なんでしょうね。大いに期待しつつ今日も詩篇を。



メチャ短いものの、今日僕の心に留まったのはココ。

その恵みは、私たちに大きく、主のまことはとこしえに至る。ハレルヤ。






神様ってホンマに大きな方なんやね~。

改めて思わされる。


今日はこんな解説を。

・・・・・・・・・・

  • 詩117篇2節の「その恵みは、私たちに大きく」も、敵がどんな力強かったとしても、あるいは状況がどんな厳しいものであったとしても、主の恵みはそれをはるかに超えて、圧倒的に力強いことを意味します。ちなみに、この詩117篇は「エジプト・ハレル」といって、イエス・キリストとその弟子たちが最後の晩餐、ないしは、ゲッセマネの園に向かう時に歌われました。これからイエスが「引き渡され」「苦しめられ」「殺される」という十字架への道を進んで行かれる時に、この歌はどんなに励ましとなったことでしょうか。
  • ・・・・・・・・・・・



    僕が神様の力に圧倒された言葉がある。

    それは『 神の力 』だ。

    神様の力は 『 デュナミス 』 という言葉で現されて、ダイナマイト の語源になっているモノ。



    僕らは神の力 ・・・ デュナミス ・・・ によって囲まれ愛され続けている。

    僕らの思いよりも遥かに大きな力、そして愛。





    僕らは恐ろしいほどの愛に包まれている事を知らない。

    当然。知らない。

    僕も知らなかった。

    知らされていないから。

    サタンは僕らにその愛に気付かれないようにあらゆる手段を使って覆っているから。



    神様の言葉はこのバイブルに記されてるのに。

    神?なんて非現実的な・・・

    お前そんなモノ信じてるの?



    僕らはそんなサタンの支配の中に生かされている。

    僕が気付くキッカケになったのは

    僕自身の弱さ・貧しさに打ちのめされた時。


    命を絶つか

    神を見上げるかしか選択肢がなかった時

    僕は命を絶つ前に、神様を見上げる事を選んだ。





    圧倒される愛に気付かされた。

    創造を超えた力で守られている事を知った。


    それは

    弱さ・貧しさを味わった時。





    弱さ・貧しさを知らされる環境は

    実は神様の愛との出会いの時なのかもしれない。


    http://www.asahi-net.or.jp/~zm4m-ootk/mazusi.html

    「心の貧しい人は幸せである、天の国は彼らのものである」

    頼りなぐ 望みなぐ 心細い人ァ幸せだ 神様の懐に抱がさんのァ その人達だ」ケセン語訳




    今週も期待して神様をみつめて歩んで生きたいですね。

    では、今日も隠された素敵を捜しに共に出かけましょう~。


    ・・・・・・・・・・

    http://meigata-bokushinoshosai.info/index.php?%E6%81%A9%E5%AF%B5%E7%94%A8%E8%AA%9EPs117

    2節「その恵みは、私たちに大きく、主のまことはとこしえに至る。」 (新改訳)
    2節「主の慈しみとまことはとこしえにわたしたちを超えて力強い。」(新共同訳)
    2節「まことにかれの恵みはわれらを圧倒し、ヤーウェの真実はとこしえに」(岩波訳)

    Keyword;「大きくする、圧倒する」rose,  triumph, great, strength, 12:4/65:3/103:11/117:2

    • 「大きく」と訳されたことばは形容詞ではなくガーヴァルגָּבַר(gavar)という動詞です。旧約では25回、詩篇では4回使われています。その主な意味は「みなぎる」「増し加わる」増え続ける」という他に、「優勢になる」「圧倒する」「強くなる」「より勝る」「豊かである」という意味があります。後者の方がガーヴァルגָּבַר(gavar)の特徴をよく表わしています。似た語彙にガーダルגָּדַל(gadal)があります。これは神がアブラハムに語られたように「あなたの名を大いなるものとする」(to become great)とか、「主は王に救いを増し加える」(詩18篇50節)とあるように、数量的な成長や増加を意味します。しかしガーヴァルגָּבַרの方は、数量的ではなく、力、強さにおいて、力量的増強の意味で用いられます。
    • イスラエルの民を導くモーセは、荒野でアマレクとの戦いを余儀なくされます。そのとき、モーセの持つ杖が高く掲げられている時には、イエスラエルは優勢となり、その杖が下がると今度はアマレクが優勢となったという話があります。後に、使徒パウロは、「罪の増し加わるところには、恵みも満ちあふれました。」(ロマ5:20~21)と述べていますが、私たちの罪がどんな増し加わっても、あるいはどんな弱くても、神の恵みはそれ以上に勝って、注がれることを意味しています。
    • 詩117篇2節の「その恵みは、私たちに大きく」も、敵がどんな力強かったとしても、あるいは状況がどんな厳しいものであったとしても、主の恵みはそれをはるかに超えて、圧倒的に力強いことを意味します。ちなみに、この詩117篇は「エジプト・ハレル」といって、イエス・キリストとその弟子たちが最後の晩餐、ないしは、ゲッセマネの園に向かう時に歌われました。これからイエスが「引き渡され」「苦しめられ」「殺される」という十字架への道を進んで行かれる時に、この歌はどんなに励ましとなったことでしょうか。
    • しかも、この詩117篇には「すべての国々よ、主をほめたたえよ」(1節)とあります。すべての「国々」(ゴイームגּוֹים)は異邦人とも訳されます。ユダヤ人のみならず異邦人も含んだ語彙です。ユダヤ人にとって4百年以上にもわたって異邦人に支配され、苦しませられたことで、異邦人が神に祝福されて賛美するということは考えられない状況でした。しかし神の救いの奥義は「ユダヤ人と異邦人とが共に共同の相続者となり、ともにひとつのからだに連なり、ともに約束にあずかる」ということでした。ですから、この歌を歌っていたイエスにとって、自分がこれから果たすべき目的がしっかりと意識されていたのです。

    ・・・・・・・・・・

    。。。。。。。。。。

     

    【詩篇116篇】o19


    psm116:1  私は主を愛する。主は私の声、私の願いを聞いてくださるから。

    psm116:2  主は、私に耳を傾けられるので、私は生きるかぎり主を呼び求めよう。

    psm116:3  死の綱が私を取り巻き、よみの恐怖が私を襲い、私は苦しみと悲しみの中にあった。

    psm116:4  そのとき、私は主の御名を呼び求めた。「主よ。どうか私のいのちを助け出してください。」

    psm116:5  主は情け深く、正しい。まことに、私たちの神はあわれみ深い。

    psm116:6  主はわきまえのない者を守られる。私がおとしめられたとき、私をお救いになった。

    psm116:7  私のたましいよ。おまえの全きいこいに戻れ。主はおまえに、良くしてくださったからだ。

    psm116:8  まことに、あなたは私のたましいを死から、私の目を涙から、私の足をつまずきから、救い出されました。

    psm116:9  私は、生ける者の地で、主の御前を歩き進もう。

    psm116:10  「私は大いに悩んだ。」と言ったときも、私は信じた。

    psm116:11  私はあわてて 「すべての人は偽りを言う者だ。」と言った。

    psm116:12  主が、ことごとく私に良くしてくださったことについて、私は主に何をお返ししようか。

    psm116:13  私は救いの杯をかかげ、主の御名を呼び求めよう。

    psm116:14  私は、自分の誓いを主に果たそう。ああ、御民すべてのいる所で。

    psm116:15  主の聖徒たちの 死は主の目に尊い。

    psm116:16  ああ、主よ。私はまことにあなたのしもべです。私は、あなたのしもべ、あなたのはしための子です。あなたは私のかせを解かれました。

    psm116:17  私はあなたに感謝のいけにえをささげ、主の御名を呼び求めます。

    psm116:18  私は自分の誓いを主に果たそう。ああ、御民すべてのいる所で。

    psm116:19  主の家の大庭で。エルサレムよ。あなたの真中で。ハレルヤ。


     

    。。。。。。。。。。


    おはようございます。

    今日もお仕事。


    さて僕の心に留まった今日の言葉はコレ。

    主は、私に耳を傾けられるので、私は生きるかぎり主を呼び求めよう。





    私に耳を傾けられる。

    誰よりも。



    そして、動かれる。

    一番素敵なタイミングで。





    だから、その実際を知る時

    私は生きるかぎり主を呼び求めよう。


    となる。





    僕らはいつでも主を呼び求める事ができる。




    大丈夫。間違いない。

    不思議だろうけど、少しづつ解ってくる。




    今日も間違いの無い神様の実際を味わえますように。



    では、今日も隠された素敵を捜しに出かけましょう。


    。。。。。。。。。。

     

    【詩篇115篇】o19


    psm115:1  私たちにではなく、主よ、私たちにではなく、あなたの恵みとまことのために、栄光を、ただあなたの御名にのみ帰してください。

    psm115:2  なぜ、国々は言うのか。「彼らの神は、いったいどこにいるのか。」と。

    psm115:3  私たちの神は、天におられ、その望むところをことごとく行なわれる。

    psm115:4  彼らの偶像は銀や金で、人の手のわざである。

    psm115:5  口があっても語れず、目があっても見えない。

    psm115:6  耳があっても聞こえず、鼻があってもかげない。

    psm115:7  手があってもさわれず、足があっても歩けない。のどがあっても声をたてることもできない。

    psm115:8  これを造る者も、これに信頼する者もみな、これと同じである。

    psm115:9  イスラエルよ。主に信頼せよ。この方こそ、彼らの助け、また盾である。

    psm115:10  アロンの家よ。主に信頼せよ。この方こそ、彼らの助け、また盾である。

    psm115:11  主を恐れる者たちよ。主に信頼せよ。この方こそ、彼らの助け、また盾である。

    psm115:12 主はわれらを御心に留められた。主は祝福してくださる。イスラエルの家を祝福し、アロンの家を祝福し、

    psm115:13  主を恐れる者を祝福してくださる。小さな者も、大いなる者も。

    psm115:14  主があなたがたをふやしてくださるように。あなたがたと、あなたがたの子孫とを。

    psm115:15  あなたがたが主によって 祝福されるように。主は、天と地を造られた方である。

    psm115:16  天は、主の天である。しかし、地は、人の子らに与えられた。

    psm115:17  死人は主をほめたたえることがない。沈黙へ下る 者もそうだ。

    psm115:18  しかし、私たちは、今よりとこしえまで、主をほめたたえよう。ハレルヤ。


     

    。。。。。。。。。。


    おはようございます。。

    いろんな事が起こりますね。その度感情をフルに現そうとするとシンドイね。

    でも、見過ごす事が出来ない事もある。


    ・・・難しい。

    そんな時僕らは何を心に選びどう行動していくのだろうか?



    今日もこんな詩篇から聞いてみましょうね。

    では、今日僕の心に留まった言葉はコレ。

    あなたがたが主によって 祝福されるように。主は、天と地を造られた方である。






    しれっと。

    凄い事が記されてるよね。



    僕らが主に(神様に)よって祝福されるように、天と地を造られたんだって。







    不思議だね。


    神様は何にも制限されないから、形に囚われる事が無い。

    だから、

    目に見えるモノとはならないし

    当然形に治まることができない存在だ。


    にも関わらず

    僕ら人間は、どうしても見える者にしか安心が持てないよう洗脳されてて

    色んなモノによって心の隙間を満たそうとする。




    僕らの心の隙間をうめるのは

    アダムとイブの時から失った 「 永遠の命(霊) 」 なのにね。


    神様の言葉よりも、サタンの囁きを信じた為に

    神様との約束を破り、命を失うことになるという木の実を食べた。・・・サタンを信じて。





    僕らは騙され続けているのかも。

    大丈夫。大丈夫。

    そのまま自分が思うようにシチャえよ!って。

    だって、神様なんて初めから居やしない。

    だって、見えないし、こんな世の中なのは神様が居ね~からじゃないか!って。




    ね・・・。

    僕らは騙され続けている。

    今日もそして今も囁き続けるサタンの言葉によって。


    でも、もう一度思い出して欲しい。

    この言葉を。

     

    psm115:15  あなたがたが主によって 祝福されるように。主は、天と地を造られた方である。

    psm115:16  天は、主の天である。しかし、地は、人の子らに与えられた。




    神様は僕らを祝福したい。

    孤独にして密かに殺そうとするサタンから、暖かい手で包んで守りたい。

    僕らを本気で愛してる存在が居るってことを。

    僕らを祝福する為に創られた天と地を今日も感じれますように。




    キーワードは、

    主を恐れること。恐れるってのは恐怖を感じるってのじゃなくて尊敬するって事。


    少し自分が尊敬する人って考えてみれば

    その人に心や身体が触れながら、その人自身の素晴らしさを体感してる筈。


    僕らはそれを体感する事を求めていないのかも。

    僕らは神様を体感する事を求めていないのかも。



    ちょっと

    ほんの少しづつ今日も実際におられるだろう見えない神様に心をむけて

    『 あなたを体感させて下さい 』 って言ってみませんか?



    僕らを本気で愛しておられる神様は

    誰よりも僕らの傍に居てくれる事にすこしづつ気付く筈だから。



    その為の近道はこの詩篇の好きな箇所を

    自分の言葉として口から発していく事。



    今日も発していこう。発する!ハッスル!


    今日も神様が備えられた素敵な一日。

    隠されてる素敵を捜しに今日も一緒に出かけましょう。


    ・・・・・・・・・・

    http://www.bibleinfo.com/ja/topics/%E4%B8%BB%E3%82%92%E6%81%90%E3%82%8C%E3%82%8B

    主を恐れる

    神が要求されるうちのひとつは、神を恐れる(神を敬い尊ぶ)ことです。

    聖書の、申命記第10章12-13節に記されてあります。「イスラエルよ、今、あなたの神、主があなたに求められる事はなんであるか。ただこれだけである。すなわちあなたの神、主を恐れ、そのすべての道に歩んで、彼を愛し、心をつくし、精神をつくしてあなたの神、主につかえ、また、わたしがきょうあなたに命じる主の命令と定めとを守って、さいわいを得ることである」。   


    神は、神を恐れる者たちを教えられます。 聖書の、詩篇第25編12節に記されてあります。「主を恐れる人はだれか。主はその選ぶべき道をその人に教えられる」。   


    神を恐れる事は知恵をもたらします。 聖書の、箴言第9章10節に記されてあります。「主を恐れることは知恵のもとである、聖なる者を知ることは、悟りである」。   


    主を恐れることは、富みよりも、もっと価値があります。 聖書の、箴言第15章16節に記されてあります。「少しの物を所有して主を恐れるのは、多くの宝をもって苦労するのにまさる」。   


    主を恐れる事は、子供たちの為に、避け所を供給する事です。 聖書の、箴言第14章26-27節に記されてあります。「主を恐れることによって人は安心を得、その子らはのがれ場を得る。主を恐れることは命の泉である、人を死のわなからのがれさせる」。

    ・・・・・・・・・・