圧倒的な力を得るためには・・・ | へなちょこ ユテコ の Don't Worry, Be Happy

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僕らは地上では「旅人」
                                          ここでは 感じるまま、気ままに、思ったままを「音楽」と共に・・・。

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【詩篇117篇】o19


psm117:1  すべての国々よ。主をほめたたえよ。すべての民よ。主をほめ歌え。

psm117:2  その恵みは、私たちに大きく、主のまことはとこしえに至る。ハレルヤ。


 

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おはようございます。

ようやく・・・日曜日。目の周りのピクピク痙攣が気になり始めてるユテコです。

さあ、今週はどんな一週間なんでしょうね。大いに期待しつつ今日も詩篇を。



メチャ短いものの、今日僕の心に留まったのはココ。

その恵みは、私たちに大きく、主のまことはとこしえに至る。ハレルヤ。






神様ってホンマに大きな方なんやね~。

改めて思わされる。


今日はこんな解説を。

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  • 詩117篇2節の「その恵みは、私たちに大きく」も、敵がどんな力強かったとしても、あるいは状況がどんな厳しいものであったとしても、主の恵みはそれをはるかに超えて、圧倒的に力強いことを意味します。ちなみに、この詩117篇は「エジプト・ハレル」といって、イエス・キリストとその弟子たちが最後の晩餐、ないしは、ゲッセマネの園に向かう時に歌われました。これからイエスが「引き渡され」「苦しめられ」「殺される」という十字架への道を進んで行かれる時に、この歌はどんなに励ましとなったことでしょうか。
  • ・・・・・・・・・・・



    僕が神様の力に圧倒された言葉がある。

    それは『 神の力 』だ。

    神様の力は 『 デュナミス 』 という言葉で現されて、ダイナマイト の語源になっているモノ。



    僕らは神の力 ・・・ デュナミス ・・・ によって囲まれ愛され続けている。

    僕らの思いよりも遥かに大きな力、そして愛。





    僕らは恐ろしいほどの愛に包まれている事を知らない。

    当然。知らない。

    僕も知らなかった。

    知らされていないから。

    サタンは僕らにその愛に気付かれないようにあらゆる手段を使って覆っているから。



    神様の言葉はこのバイブルに記されてるのに。

    神?なんて非現実的な・・・

    お前そんなモノ信じてるの?



    僕らはそんなサタンの支配の中に生かされている。

    僕が気付くキッカケになったのは

    僕自身の弱さ・貧しさに打ちのめされた時。


    命を絶つか

    神を見上げるかしか選択肢がなかった時

    僕は命を絶つ前に、神様を見上げる事を選んだ。





    圧倒される愛に気付かされた。

    創造を超えた力で守られている事を知った。


    それは

    弱さ・貧しさを味わった時。





    弱さ・貧しさを知らされる環境は

    実は神様の愛との出会いの時なのかもしれない。


    http://www.asahi-net.or.jp/~zm4m-ootk/mazusi.html

    「心の貧しい人は幸せである、天の国は彼らのものである」

    頼りなぐ 望みなぐ 心細い人ァ幸せだ 神様の懐に抱がさんのァ その人達だ」ケセン語訳




    今週も期待して神様をみつめて歩んで生きたいですね。

    では、今日も隠された素敵を捜しに共に出かけましょう~。


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    http://meigata-bokushinoshosai.info/index.php?%E6%81%A9%E5%AF%B5%E7%94%A8%E8%AA%9EPs117

    2節「その恵みは、私たちに大きく、主のまことはとこしえに至る。」 (新改訳)
    2節「主の慈しみとまことはとこしえにわたしたちを超えて力強い。」(新共同訳)
    2節「まことにかれの恵みはわれらを圧倒し、ヤーウェの真実はとこしえに」(岩波訳)

    Keyword;「大きくする、圧倒する」rose,  triumph, great, strength, 12:4/65:3/103:11/117:2

    • 「大きく」と訳されたことばは形容詞ではなくガーヴァルגָּבַר(gavar)という動詞です。旧約では25回、詩篇では4回使われています。その主な意味は「みなぎる」「増し加わる」増え続ける」という他に、「優勢になる」「圧倒する」「強くなる」「より勝る」「豊かである」という意味があります。後者の方がガーヴァルגָּבַר(gavar)の特徴をよく表わしています。似た語彙にガーダルגָּדַל(gadal)があります。これは神がアブラハムに語られたように「あなたの名を大いなるものとする」(to become great)とか、「主は王に救いを増し加える」(詩18篇50節)とあるように、数量的な成長や増加を意味します。しかしガーヴァルגָּבַרの方は、数量的ではなく、力、強さにおいて、力量的増強の意味で用いられます。
    • イスラエルの民を導くモーセは、荒野でアマレクとの戦いを余儀なくされます。そのとき、モーセの持つ杖が高く掲げられている時には、イエスラエルは優勢となり、その杖が下がると今度はアマレクが優勢となったという話があります。後に、使徒パウロは、「罪の増し加わるところには、恵みも満ちあふれました。」(ロマ5:20~21)と述べていますが、私たちの罪がどんな増し加わっても、あるいはどんな弱くても、神の恵みはそれ以上に勝って、注がれることを意味しています。
    • 詩117篇2節の「その恵みは、私たちに大きく」も、敵がどんな力強かったとしても、あるいは状況がどんな厳しいものであったとしても、主の恵みはそれをはるかに超えて、圧倒的に力強いことを意味します。ちなみに、この詩117篇は「エジプト・ハレル」といって、イエス・キリストとその弟子たちが最後の晩餐、ないしは、ゲッセマネの園に向かう時に歌われました。これからイエスが「引き渡され」「苦しめられ」「殺される」という十字架への道を進んで行かれる時に、この歌はどんなに励ましとなったことでしょうか。
    • しかも、この詩117篇には「すべての国々よ、主をほめたたえよ」(1節)とあります。すべての「国々」(ゴイームגּוֹים)は異邦人とも訳されます。ユダヤ人のみならず異邦人も含んだ語彙です。ユダヤ人にとって4百年以上にもわたって異邦人に支配され、苦しませられたことで、異邦人が神に祝福されて賛美するということは考えられない状況でした。しかし神の救いの奥義は「ユダヤ人と異邦人とが共に共同の相続者となり、ともにひとつのからだに連なり、ともに約束にあずかる」ということでした。ですから、この歌を歌っていたイエスにとって、自分がこれから果たすべき目的がしっかりと意識されていたのです。

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