へなちょこ ユテコ の Don't Worry, Be Happy -29ページ目

へなちょこ ユテコ の Don't Worry, Be Happy

僕らは地上では「旅人」
                                          ここでは 感じるまま、気ままに、思ったままを「音楽」と共に・・・。

。。。。。。。。。。

 

【詩篇8篇】o19  指揮者のために。ギテトの調べに合わせて。ダビデの賛歌


psm8:1  私たちの主 、主よ。あなたの御名は全地にわたり、なんと力強いことでしょう。あなたはご威光を天に置かれました。

psm8:2  あなたは幼子と乳飲み子たちの口によって、力を打ち建てられました。それは、あなたに敵対する者のため、敵と復讐する者とをしずめるためでした。

psm8:3  あなたの指のわざである天を見、あなたが整えられた月や星を見ますのに、

psm8:4  人とは、何者 なのでしょう。あなたがこれを心に留められるとは。人の子とは 、何者なのでしょう。あなたがこれを顧みられる とは。

psm8:5  あなたは、人を、神より いくらか劣るものとし、これに栄光と誉れの冠 をかぶらせました。

psm8:6  あなたの御手の多くのわざを人に治めさせ、万物を 彼の足の下 に置かれました。

psm8:7  すべて、羊も牛も、また、野の獣も、

psm8:8  空の鳥、海の魚、海路を通うものも。

psm8:9  私たちの主、主よ。あなたの御名は全地にわたり、なんと力強いことでしょう。

。。。。。。。。。。


おはようございます。

今日はお休み。

作業は山積み。

もう少ししてまた出かけます。



少し遅れましたが、今日も共に詩篇を。

僕の心に留まったのはこんな言葉。

psm8:3  あなたの指のわざである天を見、あなたが整えられた月や星を見ますのに、

psm8:4  人とは、何者 なのでしょう。あなたがこれを心に留められるとは。人の子とは 、何者なのでしょう。あなたがこれを顧みられる とは。






凄くないですか?

神様は指のわざで天地を創造された。




当たり前にあることを日々喜べれば、どんな大きな問題が目の前に見えても

・・・なんか、大丈夫!!


なんて思えてくる。






だって、

スッゲー 神様が僕らを創ってくれ、僕の将来の計画をささえてくれてるんだから。。





問題が問題でなくなってくる。


アラアラ・・・不思議。





僕らは特別!!

今日もお仕事の方居られると思いますが、

ひと踏ん張り!今日も与えられた当たり前を喜ばせて過ごせますように。






今日も神様の素晴らしさを体感できますように。

隠された神様の恵みを数えに今日も一緒に出かけましょう~。


神様・・

eps1:17  どうか、私たちの主イエス・キリストの神 、すなわち栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を、に与えてくださいますように。

eps1:18  また、心の目 がはっきり見えるようになって、神の召しによって与えられる望みがどのようなものか、聖徒の受け継ぐものがどのように栄光に富んだものか、

eps1:19  また、神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを、が知ることができますように。


a-men.




・・・・・・・・・・

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詩8篇(2) 「〔冠を〕かぶらせる」 עָטַר アータル

〔カテゴリー愛顧〕  

8:5「あなたは、人を、神よりいくらか劣るものとし、これに栄光と誉れの冠をかぶらせました。」(新改訳)
8:5「あなたは人を天使たちよりも少し低くつくり、光栄と尊きとを人にこうむらせ」(関根訳)

Keyword; 「(冠を)かぶせられる」 crowned,

  • 8:5の「冠をかぶらせる」と訳された「アータル」עָטַר は、5:12に「囲む」と訳されたアータルとは同音異義です。Ps5の恩寵用語 を参照。「冠をかぶらせる」(crowned)の「アータル」は旧約で5回、詩篇では3回使われています。8:5を除くあと二つの箇所は以下の通り。

65:11「あなたは、その年に、御恵みの冠をかぶらせ、
あなたの通られた跡にはあぶらがしたたっています。」

103:4「あなたのいのちを穴から贖い、あなたに、恵みとあわれみの冠をかぶらせ、
あなたの一生を良いもので満たされる。あなたの若さは、わしのように、新しくなる。」

  • 人とは何者なのか。ダビデは本来、人間にのみ与えられている被造物としての栄光と誉れを啓示されていたようです。「あなたは、人を、神よりいくらか劣るものとし、これに栄光と誉れの冠をかぶらせました。あなたの御手の多くのわざを人に治めさせ、万物を彼の足の下に置かれました。」(詩8篇5節)
  • この詩篇8篇は、新約聖書ヘブル人への手紙2章に引用されていますが、若干、ことばが言い換えられています。たとえば、「神よりいくらか劣るものとし」が、ヘブル書では「御使いよりも、しばらくの間、低いものとし」(2:7)となっています。詩8篇によれば、神は、「御手の多くのわざを人に治めさせ、万物を彼の足の下に置かれました。」と語って、人間は上から与えられた地上の統治権があったことがわかります。この統治権は、神の代理としての統治権であり、支配権、管理権でした。ところが、ヘブル書2:8によれば、「それなのに、今でもなお、私たちはすべてのものが人間に従わせられているのを見てはいません。」と語り、続いて9節では「ただ、御使いよりも、しばらくの間、低くされた方であるイエスのことは見ています。イエスは、死の苦しみのゆえに、栄光と誉れの冠をお受けになりました。その死は、神の恵みによって、すべての人のために味わわれたものです。神が多くの子たちを栄光に導くのに、彼らの救いの創始者を、多くの苦しみを通して全うされたということは、万物の存在の目的であり、また原因でもある方として、ふさわしいことであったのです。」(2:9~10)と述べています。
  • ヘブル書の著者は、詩8篇を引用しながら、御子イエスの苦しみと死が、本来、神から人間に与えられていた栄光と誉れを回復してくださった創始者(先導者、パイオニア、先駆者)として記しています。私たちがこの創始者である主イエスに信仰によってつながるとき、私たちも、本来、神から人間に与えられていた栄光と誉れを回復することができるのです。

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。。。。。。。。。。

 

詩篇7篇】o19  ベニヤミン人クシュのことについてダビデが主に歌ったシガヨンの歌


psm7:1  私の神、主よ。 私はあなたのもとに身を避けました。どうか、追い迫るすべての者から私を救ってください 。私を救い出してください。

psm7:2  救い出す者がいない間に彼らが獅子のように、私のたましいを引き裂き、さらって行くことがないように。

psm7:3  私の神、主よ。もし私がこのことをしたのなら、もし私の手に不正がある のなら、

psm7:4  もし私が親しい友に悪い仕打ちをしたのなら、また、私に敵対する者から、ゆえなく奪ったのなら、

psm7:5  敵に私を追わせ、追いつかせ、私のいのちを地に踏みにじらせてください。私のたましいをちりの中にとどまらせてください。セラ

psm7:6  主よ。御怒りをもって立ち上がってください。私の敵の激しい怒りに向かって立ち、私のために目をさましてください 。あなたはさばきを定められました。

psm7:7  国民のつどいをあなたの回りに集め、その上の高いみくらにお帰りください。

psm7:8  主は諸国の民をさばかれる。主よ。私の義と、私にある誠実とにしたがって、私を弁護してください。

psm7:9  どうか、悪者の悪があとを絶ち、あなたが正しい者を堅く立てられますように。正しい神は、心と思いを調べられます。

psm7:10  私の盾 神にあり 、神は心の直ぐな人を救われる。

psm7:11  神は正しい審判者、日々、怒る神。

psm7:12  悔い改めない者には剣をとぎ、弓を張って、ねらいを定め、

psm7:13  その者に向かって、死の武器を構え、矢を燃える矢とされる。

psm7:14  見よ。彼は悪意を宿し、害毒をはらみ、偽りを生む。

psm7:15  彼は を掘って、それを深くし、おのれの作った 穴に落ち込む。

psm7:16  その害毒は、おのれのかしらに戻り、その暴虐は 、おのれの脳天に下る。

psm7:17  その義にふさわしく、主を、私はほめたたえよう。いと高き方、主の御名をほめ歌おう。

。。。。。。。。。。


おはようございます。

月末での作業満載・・。大忙しの中問題炸裂。

ま~そんなモン。

問題はあっても、大丈夫。


では早速共に詩篇を。

今日僕の心に届いた言葉はコレ。

psm7:10  私の盾 神にあり 、神は心の直ぐな人を救われる。





僕らを攻撃から守る者は盾だ。

そして盾は誰が持っているのか。。。



神さまだ。





神様自身が僕らの盾となられる。

誰がその盾を超えて僕らを攻撃するだろうか?


誰も居ない。







だって、神様なんだもん。





単純でOK!!

だって大丈夫なんだもんね。





今日も神様の素晴らしさを体感できますように。

隠された神様の恵みを数えに今日も一緒に出かけましょう~。


神様・・

eps1:17  どうか、私たちの主イエス・キリストの神 、すなわち栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を、に与えてくださいますように。

eps1:18  また、心の目 がはっきり見えるようになって、神の召しによって与えられる望みがどのようなものか、聖徒の受け継ぐものがどのように栄光に富んだものか、

eps1:19  また、神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを、が知ることができますように。


a-men.


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詩7篇 「救う、救い出す」יָשַׁע ヤーシャー נָצַל ナーツァル

〔カテゴリー救出〕  

1節「どうか追い迫るすべての者から、私を救って(יָשַׁע)ください。私を救い出して(נָצַל)
ください。
10節「私の盾は神にあり、神は心の直ぐな人を救われる(יָשַׁע)。」

Keyword; 「救う」 deliver, set free, rescue, save 

  • 詩7篇1節には二つの救出用語が登場します。一つはヤーシャーיָשַׁע(yasha`)で、旧約では184回、詩篇では57回使われています。二つ目はナーツァルנָצַל(natsal)、旧約では213回、詩篇では45回です。
  • 詩篇1節でダビデは「追い迫るすべての者」の不条理な悪意と差し迫る危険の中で、「私を救って(יָשַׁע)ください。私を救い出して(נָצַל)ください。」と求めています。前者のヤーシャーיָשַׁע(yasha`)は「捕えられそうな危険からの救出」でーNIVではほとんどsaveと訳されていますー、後者のナーツァルנָצַל(natsal)は「すでに捕えられている状況からの救出」―rescue, deliverで訳されることが多いーを意味します。いずれにしても、自分の力を超えた存在による救いを求めています。
  • 神に用いられた人々に共通する点は、自分の力でなんとかするという思いがないことです。いつでも、どこでも、どんなときにも、神のみを信頼することを第一とする生き方をした人たち、神を盾とし、神とのかかわりを第一に優先することを選び取った人たちを、詩篇では「心の直ぐな人」(the upright in heart)と表現しています。―7:10/11:2/32:11/33:1/36:10:64:10/94:15/97:11/125:4参照。しかしその実質を豊かにしたのは、なんと彼の「敵」となった存在でした。神は、ご自分を頼りとする者のためには、しばしば「敵」をも利用することのできる方だと言えます。常に、追い迫る敵の存在が背景にあるということです。
  • 救出用語の類義語としては、他に、パーラトפָּלַט(palat、旧約26回、詩篇18回)があります。17:13/18:2, 43/22:4, 8/31:1/37:40, 40/40:17/43:1/56:7/70:5/71:2, 4/82:4 /91:14/144:2 「解き放つ」「助け出す」deliver, rescue, save, という意味。詩篇特愛用語の動詞と言えます。 もう一つは、ハーラツחָלַץ(chalats、旧約23回、詩篇12回)があります。新改訳では「助け出す」と訳しています。さらにもうひとつ、ヤーツァーיָצָא(yatsa'、旧約1069回、詩篇34回)があります。「連れ出す」、「導き出す」、「引き出す」、「携え出す」、「救い出す」という意味です。
  • 救いの動詞である。
    ①ヤーシャーיָשַׁע(yasha`)、
    ②ナーツァルנָצַל (natsal)、
    ③パーラトפָּלַט(palat)、
    ④ハーラツחָלַץ(chalats)
    ⑤ヤーツァーיָצָא(yatsa')
    これら五つの救出用語のすべてが登場するのは、詩篇18篇においてですが、おもしろいことに、②、③、④の動詞の語幹にはすべて〔ラメド〕ל の子音があります。

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【詩篇6篇】o19  指揮者のために。八弦の立琴に合わせて。ダビデの賛歌


psm6:1  主よ。御怒り で私を責めないでください。激しい憤り で私を懲らしめないで ください。

psm6:2  主よ。私をあわれんでください 。私は衰えております。主よ。私をいやしてください。私の骨は恐れおののいて います。

psm6:3  私のたましいはただ、恐れおののいて います。主よ。いつまでですか 。あなたは。

psm6:4  帰って来てください。主よ。私のたましいを助け出してください。あなたの恵みのゆえに、私をお救いください。

psm6:5  死にあっては、あなたを覚えることはありません。よみ にあっては、だれが、あなたをほめたたえるでしょう。

psm6:6  私は私の嘆きで疲れ果て、私の涙で、夜ごとに私の寝床を漂わせ、私のふしどを押し流します。

psm6:7  私の目は、いらだちで衰え、私のすべての敵 のために弱まりました。

psm6:8  不法を行なう者ども。みな私から離れて行け。主は私の泣く声を聞かれたのだ。

psm6:9  主は私の切なる願いを聞かれた。主は私の祈りを受け入れられる。

psm6:10  私の敵は、みな恥を見、ただ、恐れおののきますように。彼らは退き、恥を見ますように。またたくまに。


 

。。。。。。。。。。


おはようございます。

夜勤明けで少しシンドイ・・・。でも、この問題も神様はご存知。。

だから、今日も大丈夫・・な筈だ。



ってな事で今日も共に詩篇を。

今日僕の心に留まったのはこんな言葉。

psm6:9  主は私の切なる願いを聞かれた。主は私の祈りを受け入れられる。






僕らは神様の御手で受け止められ、受け入られている。


説明文の中にこんな言葉が。

  • 「私の祈りを受け入れられる」とは、私という存在を受けとめてくれるということです。その受容の中に、「泣く声、切なる願いに耳を傾けてくださる」ということも含まれているのだと思います。その意味では、主は実に偉大な牧会者(傾聴者)ということが言えます。



  • 大丈夫。

    僕らの神様へ向かう声は、空しく漂うことはない。

    必ず、聴かれている。

    神様は、耳を傾けて待ってるんだから。


    大丈夫。





    今日も問題はあっても、解決を用意されてる神様は僕らの祈りに耳を傾けられる。

    神様に祈りの言葉を今日も発していきましょうね。




    今日も神様の素晴らしさを体感できますように。

    隠された神様の恵みを数えに今日も一緒に出かけましょう~。


    神様・・

    eps1:17  どうか、私たちの主イエス・キリストの神 、すなわち栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を、に与えてくださいますように。

    eps1:18  また、心の目 がはっきり見えるようになって、神の召しによって与えられる望みがどのようなものか、聖徒の受け継ぐものがどのように栄光に富んだものか、

    eps1:19  また、神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを、が知ることができますように。


    a-men.





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    詩6篇(1) 「いやす」 רָפָא ラーファー

    〔カテゴリー救出〕  

    2節b「主よ。私をいやしてください。私の骨はおそれおののいています。」

    Keyword; 「いやす」 heal, 6:2/30:2/41:4/60:2/103:3/107:20,

    • 「いやしてください」という嘆願は、出エジプト記15:26にある「もし、あなたがあなたの神、主の声に確かに聞き従い、主が正しいと見られることをおこない、またその命令に耳を傾け、そのおきてをことごとく守るなら、わたしはエジプトに下したような病気を何一つあなたの上に下さない。わたしは主、あなたをいやす者である。」という啓示に支えられています。
    • 「いやす」と訳される「ラーファー」רָפָא(rapha’)は旧約で67回、詩篇では7回使われています。この言葉は本来、「癒す」、「直す」「(祭壇を)立て直す」、「(水を)良くする」といった意味があります。ここ詩篇6篇では、作者が病気のゆえに存在の不安を覚えています。「私の骨」とは自分の存在そのものを表わすメタファーです。
    • 健康に対する願いはいつの時代にもありますが、今日のように医学の発達していない時代においては、病気はいつも死と隣り合わせだったと思います。それは不安を駆り立て、恐れおののかせるものであったと思います。「いやし」と「救い」はまさに同義でした。
      主に対する不信と不従順の罪は病をもたらします。モーセの姉ミリアムがモーセを非難したとき、主の怒りにふれてツァラートにされました。そのために7日間宿営の外に締め出されました。もしモーセが「どうか、彼女をいやしてください」ととりなさなかったならば、彼女は宿営の中に連れ戻されることはなかったかもしれません。
    • 預言者ホセアは背信したイスラエルの民に、主に立ち返ることを訴えました。
      「さあ、主に立ち返ろう。主は私たちを引き裂いたが、また、いやし、私たちを打ったが、また、包んでくださるからだ。」(ホセア6:1)。そして、「わたしわ彼らの背信をいやし、喜んでこれを愛する。」(ホセア14:4)と約束されています。ここでは「いやす」ことが「ゆるす」という意味で使われています。
    • 「いやし」は神の子どもたちに与えてくださる神の恩寵であり、賜物です。詩篇では、主のいやしの恩寵が多く告白されています。

      30:2 「主よ。私があなたに叫び求めると、あなたは私を、いやされました。」
      103:3 「主は、あなたのすべての病をいやし・・あなたの一生を良いもので満たされる。」
      107:20「主はみことばを送って彼らをいやし、その滅びの穴から彼らを助け出された。」
      147:3 「主は心の打ち砕かれた者をいやし、彼らの傷を包む。」

    • 主イエスはその憐れみによって、病気で苦しむ多くの者をいやされました(マタイ9:35)。

    ・・・・・・・・・・

    詩6篇(2) 「受け入れる」 לָקַח ラーカー

    〔カテゴリー愛顧〕  

    9節b「主は、私の祈りを受け入れられる。」

    Keyword; 「受け入れる」 accept,

    • 8節後半から9節は、苦しみの中にある作者の信仰の確信が表明されています。
      主は、私の泣く声を聞かれたのだ。
      主は、私の切なる願いを聞かれた。
      主は、私の祈りを受け入れられる。
    • 「聞かれた」と訳される動詞はシャーマーשָׁמַע(shama`)です。神が人の祈りを聞かれるのも、人が神の御声を聞くのも、おなじくこの動詞が使われます。しかし、圧倒的に多いのか、前者、すなわち神が私たちの声や叫びや祈りを聞かれるということです。
    • 詩6篇8b~9節に見られる「聞かれた」は完了形で、「受け入れられる」は未完了です。作者の嘆きは確かに主に聞き入れられました。その経験から、あるいは確信から、「主は、私の祈りを受け入れられる」と述べています。
    • 「受け入れられる」と訳されたラーカーלָקַח(laqach)は旧約で966回も使われています。「取る、take 受ける、受け取るreceive 受け入れるaccept めとるmarry 召し入れる、連れてくる、迎える、選ぶ、捕える」といった自らの方向へ引き入れることを表わすことばです。取得、受容、歓迎、選択、捕獲、傾聴といったイメージです。
    • 「私の祈りを受け入れられる」とは、私という存在を受けとめてくれるということです。その受容の中に、「泣く声、切なる願いに耳を傾けてくださる」ということも含まれているのだと思います。その意味では、主は実に偉大な牧会者(傾聴者)ということが言えます。
    • 私たちは自分の思いを、心の叫びを聞いてくれる耳を求めています。また、自分をありのままに受け止めてくれる存在を探し求めています。しかし、落ち込んでいる者の心の奥にあるもの、ことばの背後にある心の叫び、沈黙のことば、怒りの内側にあるもの、恨みの奥にあるものを聞くということはとても大変な務めです。
    • 福音書の中には、主イエスのもとに来た人々の叫びに耳を傾けられたイエスの姿がありますが、今や、そのイエスはもろもろの天を通られて、神の右の座に着かれた偉大な大祭司として、私たちの祈りに耳を傾けて下さるという務めをしておられます。「祈りに耳を傾け、受け入れてくれる」ーそのようなかかわりを換言するならば、「思いやる」ということばで表わすことができます。ヘブル人への手紙5章2節には「彼(私たちの大祭司)は、・・・無知な迷っている人々を思いやることができるのです。」とあります。「思いやる」と訳されたギリシャ語「メトリオパセオー」は、新約聖書でここ1箇所だけです。1回とはいえ、大祭司としての務めを表わすきわめて重要なことばだと思います。その「思いやる」務めとは、弱い者を受け入れ、注意を払い、心を配り、顧みる務めです。

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    【詩篇5篇】o19  指揮者のために。フルートに合わせて。ダビデの賛歌


    psm5:1  私の言うことを耳に入れてください。主よ。私のうめき を聞き取ってください。

    psm5:2  私の叫びの声を心に留めてください。私の王、私の神。私はあなたに祈っています。

    psm5:3  主よ。朝明けに、私の声を聞いてください。朝明けに、私はあなたのために備えをし、見張りをいたします。

    psm5:4  あなたは悪を喜ぶ神ではなく、わざわいは、あなたとともに住まないからです。

    psm5:5  誇り高ぶる者たち は御目の前に立つことはできません。あなたは不法を行なうすべての者を憎まれます。

    psm5:6  あなたは偽りを言う者どもを滅ぼされます 。主は血を流す者と欺く者 とを忌みきらわれます。

    psm5:7  しかし、私は、豊かな恵み によって、あなたの家に行き、あなたを恐れつつ、あなたの聖なる宮 に向かってひれ伏します。

    psm5:8  主よ。私を待ち伏せている者がおりますから、あなたの義によって私を導いてください。私の前に、あなたの道をまっすぐにしてください。

    psm5:9  彼らの口には真実がなく、その心には破滅があるのです。彼らののどは、開いた墓で、彼らはその舌でへつらいを言うのです。

    psm5:10  神よ。彼らを罪に定めてください。彼らがおのれのはかりごとで倒れますように。彼らのはなはだしいそむきのゆえに彼らを追い散らし てください。彼らはあなたに逆らうからです。

    psm5:11  こうして、あなたに身を避ける者がみな喜び、とこしえまでも喜び歌いますように。あなたが彼らをかばってくださり、御名を愛する者たちがあなたを誇ります ように。

    psm5:12  主よ。まことに、あなたは正しい者を祝福し、大盾で囲むように愛で彼を囲まれます。


     

    。。。。。。。。。。


    おはようございます。


    暑い日が続きますが、健康に気をつけていきましょうね。




    今日も共に詩篇を。

    僕の心に留まったのはこの言葉。

    psm5:12  主よ。まことに、あなたは正しい者を祝福し、大盾で囲むように愛で彼を囲まれます。




    凄いね。

    ホンマに凄い愛で僕らは囲まれている。

    それも力強い誰にも打ち砕かれない大盾によって。




    僕らは特別な存在だから。

    神様にとって・・・。

    バイブルにはそう書いてある。

    ダビデさんはそれを日々体験して、この詩篇を書き記した。



    今日僕らもその言葉を信じて発することが出来る。

    体験をするには信じて、言葉を発する事から始まる。


    共に発してみましょうね。

    素敵な愛を体験する為。だって、僕らは神様の前に特別だから。




    今日も神様の素晴らしさを体感できますように。

    隠された神様の恵みを数えに今日も一緒に出かけましょう~。


    神様・・

    eps1:17  どうか、私たちの主イエス・キリストの神 、すなわち栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を、に与えてくださいますように。

    eps1:18  また、心の目 がはっきり見えるようになって、神の召しによって与えられる望みがどのようなものか、聖徒の受け継ぐものがどのように栄光に富んだものか、

    eps1:19  また、神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを、が知ることができますように。


    a-men.


    ・・・・・・・・・・

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    詩5篇 「囲む」 עָטַר アータル

    〔カテゴリー防御〕

    12節「まことに、あなたは正しい者を祝福し、大盾で囲むように、愛で彼を囲まれる。」

    Keyword; 「囲む」 surround 

    • 「囲まれる」と訳されたアータルעָטַר(`atar)は防衛用語の一つです。旧約で2回、詩篇では5:12のみです。包囲する、覆う、包むようにして守るという意味です。この動詞には同音異義として「冠をかぶらせる」という意味があります(8:5/65:11/103:4)。関根訳はこの意味を採用して「盾のように彼らを囲み、恵みをもって彼らに冠らせ給う(crown)」と訳しています。
    • すでに詩3篇3節にも「私を取り囲む盾」という表現があります。しかし原文では「私のための盾」となっています。つまり、盾そのものが覆いとなって取り囲むために、「私の周りを取り囲む盾」(新改訳)と分かりやすく意訳しています。
    • ちなみに、旧約では盾をあらわす語彙が二つあります。一つは3:3のマーゲンמָגֶן(magen)、もう一つは5:12のツィンナーצִנָּה(tsinnah)です。ダビデと戦ったペリシテ人の巨人ゴリアテには盾持ちがいましたが、この盾持ちがもっていた盾が後者のツィンナーです。
    • 私たちの心、精神の中心はとても柔らかくて傷つきやすく、私たちはそれを守るためにいろいろな盾を持って生きているのです。自分はどんな盾をもっているかが、人生を大きく左右します。私たちは覆いがなければ生きることができません。生まれたばかりの赤子には親の覆いがあります。社会には自分を守ってくれる覆いがあります。しかしその覆いが無責任であったり、気まぐれであったりすると、その覆いの下にいる者たちはひどく傷つくことになります。良い確かな覆い持つ者は幸いです。この詩篇の作者は、愛をもって取り囲んで下さっている方がいることを告白しています。
    • この詩篇の作者は3節で「朝明けに、私はあなたのために備えをし、見張りをいたします」と述べています。一日のはじめに、神との交わりのために備えをし、自分の心の見張をするということで、私は「モーニング・ウォッチ」(Morning Watch)と名づけています。新約的に言うならば、「キリストのうちにとどまる」ということです。「わたしを離れては、あなたがたは何もすることができません」と言われた主のことばを深く理解し、日々、主との親しい愛の交わりの中に生きることを選び取ることです。しかし、そうした選び取りを支えているのは、主が先行的恩寵として私を愛で囲ってくれているからです。この囲いの事実を、朝ごとに確認し、日々深めていく必要があると信じます。
    • 12節の後半の諸訳は次の通りです。
      「御旨のままに、盾となってお守りくださる」(新共同訳)
      「恵みをもってこれをおおい守られます」(口語訳)、
      「大盾のように恩顧で彼を包んで下さる」(岩波訳)
      「恵みの盾で囲んでくださる」(典礼訳)

    「取り囲みの祝福」

    ◆詩篇の中には、私たちを取り囲んでほしくない勢力―「敵、中傷する者、憎しみのことばなど」が大半を占めている。そうした情勢の中で、主が私たちをかばってくださり、覆ってくださり、守ってくださることは、大いなる平安を得ます。

    ◆アータルעָטַר(`atar)の類義語としては以下のものがあります。

    (1)カーサーכָּסַה(kasah)「庇う、守る」covering,concealing 旧約152回、詩篇17回、32:1/44:19/85:2/143:9etc. 143:9は礼拝用語「身を隠す」 で取り上げています。

    (2)サーヴァヴ סָבַב(savav)「取り囲む」、旧約162回、詩篇22回。32:7「あなたは私の隠れ場。あなたは苦しみからわたしを守り、救いの歓声で、私を取り囲まれます。」32:10「主に信頼する者には、恵みがその人を取り囲む。」

    (3)ハーナーחָנַה(chanah)「陣を張る、陣を敷く」、encamp 旧約143回、詩篇3回。34:7「主の使いは、主を恐れる者の回りに陣を張る。」他に、27:3/53:5も使われているが、すべて敵の陣として使われている。

    ◆使徒パウロは他の人々から、彼は狂っていると称されました。「だとすれば、キリストの愛が私たちを取り囲んでいる(スネコーσυνεχω)からだ」(コリント第二5:14)というのがパウロの言い分でした。まさにこれが彼の存在とすべての働きを支えていたものでした。

    ◆スネコーσυνεχωは「強いる、強要する、有無を言わせない」という意味ですが、以下の訳を見る限り、強制ではなく、自分がそうしたいのだという内なる衝動と理解することができます。

    • 新共同訳「なぜなら、キリストの愛が私たちを駆り立てているから。」
    • 口語訳 「なぜなら、キリストの愛が私たちに強く迫っているから。」
    • 柳生訳 「われわれはキリストの愛によって圧倒されている。」
    • LB訳  「確かに、私たちは何をするにしても、自分の利益を求めるのではなく、キリストさまの愛に動かされてしているのです。」
    • フランシスコ会訳「なぜなら、キリストの愛がわたしたちを虜にしているからです。」
    • NIV訳  For Christ love compels us.

    ◆詩篇瞑想の目的は、まさに、私たちの心の内がキリストの愛によって駆り立てられること、神の愛の迫りに、神の恵みの取り囲みに気づかされることでもあります。

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    【詩篇4篇】o19  指揮者のために。弦楽器に合わせて。ダビデの賛歌


    psm4:1  私が呼ぶとき、答えてください。私の義なる神 。あなたは、私の苦しみのときゆとり を与えてくださいました。私をあわれみ、私の祈りを聞いてください。

    psm4:2  人の子たちよ。いつまでわたしの栄光をはずかしめ、むなしいもの を愛し、まやかしもの を慕い求めるのか。セラ

    psm4:3  知れ。主は、ご自分の聖徒を特別に扱われる のだ。私が呼ぶとき、主は聞いてくださる。

    psm4:4  恐れおののけ。そして罪を犯すな。床の上で自分の心に語り、静まれ。セラ

    psm4:5  義のいけにえ をささげ、主に拠り頼め。

    psm4:6  多くの者は言っています。「だれかわれわれに良い目を 見せてくれないものか。」主よ。どうか、あなたの御顔の光 を、私たちの上に照らしてください。

    psm4:7  あなたは私の心に喜びを下さいました。それは穀物と新しいぶどう酒が豊かにあるときにもまさっています。

    psm4:8  平安のうちに私は身を横たえ、すぐ、眠りにつきます。主よ。あなただけが、私を安らかに住まわせてくださいます。

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    おはようございます。

    昨日はお休みということで、加太の海水浴場へ・・。

    真っ赤に日焼けして帰ってまいりました。



    子供へは特別に楽しんで貰いたい。

    みんなそう思って休日を過ごされていることだろうと感じます。



    今日はそんな箇所みたいですね。

    そして僕の心に留まったのはこんな言葉。

    psm4:3  知れ。主は、ご自分の聖徒を特別に扱われる のだ。私が呼ぶとき、主は聞いてくださる。

    psm4:4  恐れおののけ。そして罪を犯すな。床の上で自分の心に語り、静まれ。セラ





    特別に扱われるのだ~!!!

    ご自分とは神様。聖人とは僕ら一人一人の事。



    僕ら一人一人は特別な存在で、神様はいつもいつもえこひいきしたい存在なのだ~!という事。





    なんか凄いよね。

    でも

    何故なんだろう?なんでだろう?




    バイブルでは特別に選ばれたイスラエルの民がえこひいきされた。

    あのエジプトの王さまパロから逃れる時も、その他いろんな場面でも・・・。


    ホンマに神様はえこひいきする神様だから

    誰に従うよりも、イスラエルの神様に従う事がやっぱり一番!!って伝えたかったんだと思う。




    だから、イスラエルの神様こそ、ホンマの神様だ!と信じた人全てはえこひいきされた。

    コレ本当の話。(ナアマン将軍他諸々)





    特別なんだ。

    ホンマに僕らは特別な存在なんだ。



    だから、神様は僕らに続けてコウ語られている。

    psm4:4  恐れおののけ。そして罪を犯すな。床の上で自分の心に語り、静まれ。セラ




    罪を犯すな。





    神様の声に聴いて従うときは罪を犯さないけど

    サタンの声に聴いてそれを選んで従ったとき、罪を犯すことになるからだね。



    人は撒いた種は必ず刈り取ることになる。とバイブルは語る。

    サタンの声に聴き従って撒いた種は『 死 』 だ。

    サタンは神様から特別な存在を切り離し殺すのが目的だから。




    だから、其処に従って罪を犯して欲しくない。

    だって、特別な存在が辛い状況におかれるのを見たくないから。

    神様は真剣に特別な存在として今日も僕らを見つめられている。






    今日も神様の素晴らしさを体感できますように。

    隠された神様の恵みを数えに今日も一緒に出かけましょう~。


    神様・・

    eps1:17  どうか、私たちの主イエス・キリストの神 、すなわち栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を、に与えてくださいますように。

    eps1:18  また、心の目 がはっきり見えるようになって、神の召しによって与えられる望みがどのようなものか、聖徒の受け継ぐものがどのように栄光に富んだものか、

    eps1:19  また、神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを、が知ることができますように。


    a-men.




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    詩4篇 (1) 「特別に扱う」 פָלָה ファーラー

    〔カテゴリー 愛顧〕

    3節「知れ、主は、ご自分の聖徒を特別に扱われるのだ。」(新改訳)
    3節「主の慈しみに生きる人を主は見分けて、」(新共同訳)
    3節「君たちは知れ。やーウェは彼を敬う者を聖め分たれたことを。」(関根訳)
    3節「だが知れ。ヤーウェは取り分けたのだ。」(岩波訳)

    Keyword; 「聖別する、取り分ける」 set apart, show wondrous favor, 4:3のみ

    • 「特別に扱われる」と訳されたファーラーפָלָה(phalah)は旧約で5回、詩篇ではここ1回のみです。出エジプト記8:22/9:4/11:7/33:16では、ゴシェンの地で羊を飼うイスラエル人とエジプト人の家畜ははっきりと区別されていました。エジプトに下されたさばきの時にもはっきりと区別され、ゴシェンの地にはさばきは及びませんでした。なぜなら、「わたしはその日、わたしの民がとどまっているゴシェンの地を特別に扱い、そこには、あぶがないようにする、それは主であるわたしが、その地の真中にいることを、あなた(パロ)が知るためである。」(出8:22)と記されている通りです。
    • 「知れ、主は、ご自分の聖徒を特別に扱われる」のです。えこひいきする神です。ご自分の「聖徒、神を敬う者、主の慈しみに生きる者、主のお気に入り」(ハシードחָסִיד)には、特別な好意をもってお引き立てくださる方です。そのことを知る者は幸いです。
    • 使徒パウロはロマ書2章11節で「神にはえこひいきなどはないからです。」と断言しています。それはどういう意味においてかというならば、「栄光と誉と平和」の祝福は、ユダヤ人をはじめギリシャ人にも、例外なく「善を行うすべての者にある」という意味で、えこひいきはないという意味です。とは言いながらも、「善を行う者はいない。ひとりもいない。」(同、3章12節)」と展開し、イエスを信じる者を義とされるということにおいて、ユダヤ人もギリシャ人もえこひいきはないという論理展開になっていきます。ユダヤ人のパウロにとつて、この世界には人類はユダヤ人とギリシャ人(異邦人をすべて包括する)の区別しかありません。ですから、「ユダヤ人もギリシャ人も」という表現は「すべての人」と同義です。
    • 御子イエス・キリストを信じる者に対して、神は常に特別な好意(愛顧、お引き立て、寵愛、恩恵)をもって扱われます。キリスト者はキリストにある特別待遇の身なのです。しかしそれは人前で公言することではなく、自らの心のうちに静かに秘め置くことが良いのです。なぜなら、それは妬みの霊によって苦しめられないためです。ダビデの生涯を見ると、彼は神のお気に入りで特別な愛顧を受けていることが如実に示されたとき、サウロ王がそのことを嫉み、彼を執拗に追跡し捕えて殺そうとしたほどです。確かに、主の恵みによって生きる人には神が特別に扱われます。それゆえ、決して傲慢にならないように自戒しなければならないと思います。

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    詩4篇 (2) 「ゆとりを与える」 רָחַב ラーハヴ

    〔カテゴリー 救出〕

    1節「あなたは、私の苦しみのときにゆとりを与えてくださいました。」 (新改訳)
    1節「あなたは悩みの時に、わたしに安らぎを与えられた。」(関根訳)
    1節「あなたはわたしが悩んでいた時、わたしをくつろがせてくださいました。」(口語訳)
    1節「苦しみからあなたは〔かつて〕私を解き放って下さった。」(岩波訳)
    1節「悩みのとき、広々とした所に連れ出し、」(フランシスコ会訳)

    Keyword; 「ゆとりを与える、安らぎを与える、くつろがせる、解き放つ」 give relief,
    4:1/18:36/25:17/35:21/81:10/119:32

    • 「ゆとりを与える」と訳されたラーハヴרָחַב(rachave)の本来の意味は、「広くする、広げる、大きくする」という意味です。119:32では「心を広くしてくださる」とあります。旧約で25回、詩篇では6回使われています。「悩みの時に」の「悩み」は「ツァル」צַר。本来、「狭い」という言葉ですが、そこから「逆境の時」、「窮地に陥った時」という意味にもなります。「苦しみのときに、ゆとりが与えられる」とは、狭いところが広くされる、窮地にゆとりがもたらされるという恩寵です。
    • 「ゆとり」とは、「主が、ご自分の聖徒を特別に扱われる」(3節)ということを知ることを通して与えられるものだと信じます。それは、物質的、金銭的なゆとりではなく、「存在のゆとり」とも言うべき、神に愛されているという「特別待遇の自覚」によるものだと思います。しかも、それは逆境の中でこそ確認されるものだと信じます。苦しみの中にあっても「ゆとり」があることこそ、神との親密さのあかしと言えます。
    • また「ゆとり」は、4節に「自分の心に語り、静まれ」と命じているように、「沈黙」と密接な関係があると信じます。「沈黙」とは、単に、何も話さず黙っているということではなく、自分の周囲の出来事や状況に対して、ある一定の距離(境界線)を置くことを意味しているように思います。それは周囲の出来事に支配されてしまわないためです。
    • そしてもう一つ、「ゆとり」と関連することばとして、「義のいけにえ」があります。「義のいけにえ」とは神との正しいかかわりを築くことだと私はここでは理解します。ダビデの時代には、モーセの時代とは違って、「動物のいけにえ」でなく、「義のいけに」、「賛美のいけにえ」、「感謝いけにえ」、「喜びのいけにえ」、「従順のいけにえ」という、いずれも神との親密なかかわりを表わす<霊的ないけにえ>が強調されるようになりました。
    • 「ゆとり」―「特別待遇の自覚」-「沈黙」-「義のいけにえ」・・・これらはみなひとつつながっているように思えます。多くの人々が「だれかわれわれに良い目をみせてくれないものか」と願っている中で、詩篇の作者は、主の「御顔の光」を求めています。これこそイエスの言われた「良い方を選んだマリア」のスタイルであり、詩篇瞑想の目的です。そして、すべてはここからはじまっていくのだと確信します。

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