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【詩篇4篇】o19 指揮者のために。弦楽器に合わせて。ダビデの賛歌
psm4:1 私が呼ぶとき、答えてください。私の義なる神 。あなたは、私の苦しみのとき にゆとり を与えてくださいました。私をあわれみ、私の祈りを聞いてください。
psm4:2 人の子たちよ。いつまでわたしの栄光をはずかしめ、むなしいもの を愛し、まやかしもの を慕い求めるのか。セラ
psm4:3 知れ。主は、ご自分の聖徒を特別に扱われる のだ。私が呼ぶとき、主は聞いてくださる。
psm4:4 恐れおののけ。そして罪を犯すな。床の上で自分の心に語り、静まれ。セラ
psm4:6 多くの者は言っています。「だれかわれわれに良い目を 見せてくれないものか。」主よ。どうか、あなたの御顔の光 を、私たちの上に照らしてください。
psm4:7 あなたは私の心に喜びを下さいました。それは穀物と新しいぶどう酒が豊かにあるときにもまさっています。
psm4:8 平安のうちに私は身を横たえ、すぐ、眠りにつきます。主よ。あなただけが、私を安らかに住まわせてくださいます。
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おはようございます。
昨日はお休みということで、加太の海水浴場へ・・。
真っ赤に日焼けして帰ってまいりました。
子供へは特別に楽しんで貰いたい。
みんなそう思って休日を過ごされていることだろうと感じます。
今日はそんな箇所みたいですね。
そして僕の心に留まったのはこんな言葉。
psm4:3 知れ。主は、ご自分の聖徒を特別に扱われる のだ。私が呼ぶとき、主は聞いてくださる。
psm4:4 恐れおののけ。そして罪を犯すな。床の上で自分の心に語り、静まれ。セラ
特別に扱われるのだ~!!!
ご自分とは神様。聖人とは僕ら一人一人の事。
僕ら一人一人は特別な存在で、神様はいつもいつもえこひいきしたい存在なのだ~!という事。
なんか凄いよね。
でも
何故なんだろう?なんでだろう?
バイブルでは特別に選ばれたイスラエルの民がえこひいきされた。
あのエジプトの王さまパロから逃れる時も、その他いろんな場面でも・・・。
ホンマに神様はえこひいきする神様だから
誰に従うよりも、イスラエルの神様に従う事がやっぱり一番!!って伝えたかったんだと思う。
だから、イスラエルの神様こそ、ホンマの神様だ!と信じた人全てはえこひいきされた。
コレ本当の話。(ナアマン将軍他諸々)
特別なんだ。
ホンマに僕らは特別な存在なんだ。
だから、神様は僕らに続けてコウ語られている。
psm4:4 恐れおののけ。そして罪を犯すな。床の上で自分の心に語り、静まれ。セラ
罪を犯すな。
神様の声に聴いて従うときは罪を犯さないけど
サタンの声に聴いてそれを選んで従ったとき、罪を犯すことになるからだね。
人は撒いた種は必ず刈り取ることになる。とバイブルは語る。
サタンの声に聴き従って撒いた種は『 死 』 だ。
サタンは神様から特別な存在を切り離し殺すのが目的だから。
だから、其処に従って罪を犯して欲しくない。
だって、特別な存在が辛い状況におかれるのを見たくないから。
神様は真剣に特別な存在として今日も僕らを見つめられている。
今日も神様の素晴らしさを体感できますように。
隠された神様の恵みを数えに今日も一緒に出かけましょう~。
神様・・
eps1:17 どうか、私たちの主イエス・キリストの神 、すなわち栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を、私に与えてくださいますように。
eps1:18 また、私の心の目 がはっきり見えるようになって、神の召しによって与えられる望みがどのようなものか、聖徒の受け継ぐものがどのように栄光に富んだものか、
eps1:19 また、神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを、私が知ることができますように。
a-men.
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詩4篇 (1) 「特別に扱う」 פָלָה ファーラー
〔カテゴリー 愛顧〕
3節「知れ、主は、ご自分の聖徒を特別に扱われるのだ。」(新改訳)
3節「主の慈しみに生きる人を主は見分けて、」(新共同訳)
3節「君たちは知れ。やーウェは彼を敬う者を聖め分たれたことを。」(関根訳)
3節「だが知れ。ヤーウェは取り分けたのだ。」(岩波訳)
Keyword; 「聖別する、取り分ける」 set apart, show wondrous favor, 4:3のみ
- 「特別に扱われる」と訳されたファーラーפָלָה(phalah)は旧約で5回、詩篇ではここ1回のみです。出エジプト記8:22/9:4/11:7/33:16では、ゴシェンの地で羊を飼うイスラエル人とエジプト人の家畜ははっきりと区別されていました。エジプトに下されたさばきの時にもはっきりと区別され、ゴシェンの地にはさばきは及びませんでした。なぜなら、「わたしはその日、わたしの民がとどまっているゴシェンの地を特別に扱い、そこには、あぶがないようにする、それは主であるわたしが、その地の真中にいることを、あなた(パロ)が知るためである。」(出8:22)と記されている通りです。
- 「知れ、主は、ご自分の聖徒を特別に扱われる」のです。えこひいきする神です。ご自分の「聖徒、神を敬う者、主の慈しみに生きる者、主のお気に入り」(ハシードחָסִיד)には、特別な好意をもってお引き立てくださる方です。そのことを知る者は幸いです。
- 使徒パウロはロマ書2章11節で「神にはえこひいきなどはないからです。」と断言しています。それはどういう意味においてかというならば、「栄光と誉と平和」の祝福は、ユダヤ人をはじめギリシャ人にも、例外なく「善を行うすべての者にある」という意味で、えこひいきはないという意味です。とは言いながらも、「善を行う者はいない。ひとりもいない。」(同、3章12節)」と展開し、イエスを信じる者を義とされるということにおいて、ユダヤ人もギリシャ人もえこひいきはないという論理展開になっていきます。ユダヤ人のパウロにとつて、この世界には人類はユダヤ人とギリシャ人(異邦人をすべて包括する)の区別しかありません。ですから、「ユダヤ人もギリシャ人も」という表現は「すべての人」と同義です。
- 御子イエス・キリストを信じる者に対して、神は常に特別な好意(愛顧、お引き立て、寵愛、恩恵)をもって扱われます。キリスト者はキリストにある特別待遇の身なのです。しかしそれは人前で公言することではなく、自らの心のうちに静かに秘め置くことが良いのです。なぜなら、それは妬みの霊によって苦しめられないためです。ダビデの生涯を見ると、彼は神のお気に入りで特別な愛顧を受けていることが如実に示されたとき、サウロ王がそのことを嫉み、彼を執拗に追跡し捕えて殺そうとしたほどです。確かに、主の恵みによって生きる人には神が特別に扱われます。それゆえ、決して傲慢にならないように自戒しなければならないと思います。
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詩4篇 (2) 「ゆとりを与える」 רָחַב ラーハヴ
〔カテゴリー 救出〕
1節「あなたは、私の苦しみのときにゆとりを与えてくださいました。」 (新改訳)
1節「あなたは悩みの時に、わたしに安らぎを与えられた。」(関根訳)
1節「あなたはわたしが悩んでいた時、わたしをくつろがせてくださいました。」(口語訳)
1節「苦しみからあなたは〔かつて〕私を解き放って下さった。」(岩波訳)
1節「悩みのとき、広々とした所に連れ出し、」(フランシスコ会訳)
Keyword; 「ゆとりを与える、安らぎを与える、くつろがせる、解き放つ」 give relief,
4:1/18:36/25:17/35:21/81:10/119:32
- 「ゆとりを与える」と訳されたラーハヴרָחַב(rachave)の本来の意味は、「広くする、広げる、大きくする」という意味です。119:32では「心を広くしてくださる」とあります。旧約で25回、詩篇では6回使われています。「悩みの時に」の「悩み」は「ツァル」צַר。本来、「狭い」という言葉ですが、そこから「逆境の時」、「窮地に陥った時」という意味にもなります。「苦しみのときに、ゆとりが与えられる」とは、狭いところが広くされる、窮地にゆとりがもたらされるという恩寵です。
- 「ゆとり」とは、「主が、ご自分の聖徒を特別に扱われる」(3節)ということを知ることを通して与えられるものだと信じます。それは、物質的、金銭的なゆとりではなく、「存在のゆとり」とも言うべき、神に愛されているという「特別待遇の自覚」によるものだと思います。しかも、それは逆境の中でこそ確認されるものだと信じます。苦しみの中にあっても「ゆとり」があることこそ、神との親密さのあかしと言えます。
- また「ゆとり」は、4節に「自分の心に語り、静まれ」と命じているように、「沈黙」と密接な関係があると信じます。「沈黙」とは、単に、何も話さず黙っているということではなく、自分の周囲の出来事や状況に対して、ある一定の距離(境界線)を置くことを意味しているように思います。それは周囲の出来事に支配されてしまわないためです。
- そしてもう一つ、「ゆとり」と関連することばとして、「義のいけにえ」があります。「義のいけにえ」とは神との正しいかかわりを築くことだと私はここでは理解します。ダビデの時代には、モーセの時代とは違って、「動物のいけにえ」でなく、「義のいけに」、「賛美のいけにえ」、「感謝いけにえ」、「喜びのいけにえ」、「従順のいけにえ」という、いずれも神との親密なかかわりを表わす<霊的ないけにえ>が強調されるようになりました。
- 「ゆとり」―「特別待遇の自覚」-「沈黙」-「義のいけにえ」・・・これらはみなひとつつながっているように思えます。多くの人々が「だれかわれわれに良い目をみせてくれないものか」と願っている中で、詩篇の作者は、主の「御顔の光」を求めています。これこそイエスの言われた「良い方を選んだマリア」のスタイルであり、詩篇瞑想の目的です。そして、すべてはここからはじまっていくのだと確信します。
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