そのまんま 丸ごと包まれる経験へ | へなちょこ ユテコ の Don't Worry, Be Happy

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僕らは地上では「旅人」
                                          ここでは 感じるまま、気ままに、思ったままを「音楽」と共に・・・。

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【詩篇51篇】o19 指揮者のために。ダビデの賛歌。

ダビデがバテ・シェバのもとに通ったのちに、預言者ナタンが彼のもとに来たとき


psm51:1  神よ。御恵みによって、私に情けをかけ、あなたの豊かなあわれみによって、私のそむきの罪 をぬぐい去ってください。

psm51:2  どうか私の咎を、私から全く洗い去り、私の罪から、私をきよめてください。

psm51:3  まことに、私は自分のそむきの罪 を知っています。私の罪は、いつも私の目の前にあります。

psm51:4  私はあなたに、ただあなたに、罪を犯し、あなたの御目に悪であることを行ないました。それゆえ、あなたが宣告されるとき、あなたは正しく、さばかれるとき、あなたはきよくあられます。

psm51:5   ああ、私は咎ある者として 生まれ、罪ある者として母は私をみごもりました。

psm51:6  ああ、あなたは心のうちの真実を喜ばれます。それゆえ、私の心の奥に知恵を教えてください。

psm51:7  ヒソプ をもって私の罪を除いてきよめてください。そうすれば、私はきよくなりましょう。私を洗ってください。そうすれば、私は雪よりも白くなりましょう。

psm51:8  私に、楽しみと喜びを、聞かせてください。そうすれば、あなたがお砕きになった骨が、喜ぶことでしょう。

psm51:9  御顔を 私の罪から隠し 、私の咎をことごとく、ぬぐい去ってください。 

psm51:10  神よ。私にきよい心 を造り、ゆるがない霊を私のうちに新しくしてください。

psm51:11  私をあなたの御前から、投げ捨てず、あなたの聖霊を、私から取り去らないでください。

psm51:12  あなたの救いの喜び を、私に返し、喜んで仕える霊が、私をささえますように。

psm51:13  私は、そむく者たちに、あなたの道を教えましょう。そうすれば、罪人は、あなたのもとに帰りましょう。

psm51:14  神よ。私の救いの神よ。血の罪 から私を救い出してください。そうすれば、私の舌は、あなたの義を、高らかに歌うでしょう。

psm51:15  主よ。私のくちびるを開いてください。そうすれば、私の口は、あなたの誉れを告げるでしょう。

psm51:16  たとい私がささげても、まことに、あなたはいけにえを喜ばれません。全焼のいけにえ を、望まれません。

psm51:17  神へのいけにえ は、砕かれたたましい。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません。

psm51:18  どうか、ご恩寵により、シオンにいつくしみを施し、エルサレムの城壁を築いてください。

psm51:19  そのとき、あなたは、全焼のいけにえ と全焼のささげ物との、義のいけにえ を喜ばれるでしょう。そのとき、彼らは、雄の子牛をあなたの祭壇にささげ ましょう。

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おはようございます。

今日はお仕事。

昨日職人さんがすねて代わりに僕がその作業をする事に。


少しづつ学んだことで作業クリア。。

感謝でしたが、今日も引き続きその作業。


今日も問題はあっても楽しめますように。。




では早速共に詩篇を。

今日僕の心に留まった言葉はコレ。

psm51:1  神よ。御恵みによって、私に情けをかけ、あなたの豊かなあわれみによって、私のそむきの罪 をぬぐい去ってください。

psm51:2  どうか私の咎を、私から全く洗い去り、私の罪から、私をきよめてください。








自分自身がどうしようもない存在だと知ったとき。

自分自身に失望したとき、ありますか?

ダビデさんがそれを体験したのがこの時なんです。



綺麗な女性が見て、欲の赴くままその女性と寝て

ソレが実は自分の部下の嫁だと知ると

最前線でその部下を殺させたダビデ。


それから、預言者によってそれを暴かれた時歌ったのがこの詩。





自分がした事を

真正面からそのまま受けた時にこの言葉を発した。





僕はエグイ。

ダビデさんも相当酷いことをしたけど、僕も心の中では誰にもいえない酷いことを繰り返している。

サタンの子供だと思えるほど。。。


でも

神様は知っている。



僕らがサタンの支配下において

心も身体も占領されたら、どれ程酷い状況になるのかを。


いくら正しく歩もうとも、完全にサタンの囁きに従わない事は出来ないモノだ。







だから

神様は僕らをそのまま丸ごと愛して

救いの道を用意された。


ジーザスのみ代わりの死によって。






ジーザスが死んでも

僕らを救いたかった。



僕らはそれ程愛されている。





だから、

そのまま。


自分に失望するほどの、そのままの自分自身で

神様を呼び求めてみませんか?



神様はソンナ状態であることを知ってるし

そんな状態であるからこそ、そんな僕らを愛で包みたいと願っておられる。






大丈夫。

そのままで。







心が否定しても、バイブル(神様)の言葉を選んで過ごせたらいいですね。
だから、大丈夫だ!と言葉を発してみませんか?




僕らは今日も大丈夫!!


神様・・

eps1:17  どうか、私たちの主イエス・キリストの神 、すなわち栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を、に与えてくださいますように。

eps1:18  また、心の目 がはっきり見えるようになって、神の召しによって与えられる望みがどのようなものか、聖徒の受け継ぐものがどのように栄光に富んだものか、

eps1:19  また、神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを、が知ることができますように。


ジーザス(イェス様)の名前で
a-men.



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詩51篇(1) 「造る」 בָּרָא バーラー

〔カテゴリー育成〕

10節「神よ。私にきよい心を造り、ゆるがない霊を私のうちに新しくしてください。」

Keyword; 「造る、創造する」 create,  52:10/89:12,47/102:18/104:30/148:5

  • 天と地が神によって創造されたという事実を知るのは、私たちの知覚に触れるだけではきわめて微弱です。それほどに私たちの知覚は罪によって弱められています。私たちが生まれながらにして罪人であるという事実も、神の霊の働きなしにはほとんど知覚できないほどです。神の人に対する能動的な働きかけはその事実を私たちに信じさせることです。
  • 天と地の創造も人間の罪性(原罪)は、私たちの知覚によるものではなく、ただ信仰によってのみとらえることができます。つまり、自分うちにある深い罪性(原罪)は、なにかの罪を犯したからわかるのではなく、罪を犯しても犯さなくても、自分が罪人だと信じるところから認識されます。また同時に、自分の力によってはその罪性(原罪)に打ち勝つことは全く不可能であることも信じなければなりません。そのような信仰はすでに神の先行的恩寵によって与えられるものです。そこから「主よ。私をあわれんでください」という祈りが生まれてきます。
  • イエスが語られたたとえの中に「パリサイ人と取税人の祈り」(ルカ18:9~14)があります。義とされて帰った取税人の祈りは「遠く離れて立ち、目を天にむけようともせず、自分の胸をたたいて『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。』」というものでした。この祈りこそ神の霊が先行的な恩寵をもって働いていたとしか言いようがありません。
  • 詩51篇の作者(ダビデ)も自分の全面的な弱さを自覚しています。その証拠は、「私のそむきの罪〔ハッタートחַטָּאַת(chatt’ath)〕をぬぐい去ってください。私のとが〔アーウォーンעָוֹן(`awon)〕を、私から全く洗い去り、私の罪〔ペシャפֶּשַׁע(pasha`)〕―から、私をきよめてください。」(1~2節)という祈りです。「ぬぐい去る」「洗い去る」「きよめる」という動詞の主語は神にあります。神の一方的な恩寵なしにはそれはあり得ないことを自覚した嘆願です。この自覚こそ「悔い改め」、あるいは「砕かれた心」と言えます。
  • しかしそれは作者の祈りの消極的な面です。10節で作者は「神よ。私にきよい心を造り、ゆるがない霊を私のうちに新しくしてください。」という積極的な祈りをしています。「造る」バーラーבָּרָא(bara’)という動詞は天地創造の「創造する」と同じ動詞です。人間はなにかの材料なしにはなにも造ることができませんが、神のバーラーはなんの材料もないところから造ることができます。つまり、「造る」バーラーבָּרָא(bara’)とは神の独占的用語です。作者は、天と地を造られた神以外に、自分を全く新しく再創造してくれる存在はいないことを確信して神に祈り求めているのです。

http://meigata-bokushin.secret.jp/index.php?%E6%81%A9%E5%AF%B5%E7%94%A8%E8%AA%9EPs51

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