。。。。。。。。。。。
【詩篇50篇】o19 アサフの賛歌
psm50:1 神の神、主は語り、地を呼び寄せられた。日の上る所から沈む所まで。
psm50:2 麗しさの窮み、シオンから、神は光を放たれた。
psm50:3 われらの神は来て、黙ってはおられない。御前には食い尽くす火があり、その回りには激しいあらしがある。
psm50:4 神はご自分の民をさばくため、上なる天と、地とを呼び寄せられる。
psm50:5 「わたしの聖徒たちをわたしのところに集めよ。いけにえにより、わたしの契約を結んだ者たちを。」
psm50:6 天は神の義を告げ知らせる。まことに神こそは審判者である。セラ
psm50:7 「聞け。わが民よ。わたしは語ろう。イスラエルよ。わたしはあなたを戒めよう。わたしは神、あなたの神である。
psm50:8 いけにえのことで、あなたを責めるのではない。あなたの全焼のいけにえ は、いつも、わたしの前にある。
psm50:9 わたしは、あなたの家から、若い雄牛を取り上げはしない。あなたの囲いから、雄やぎをも。
psm50:10 森のすべての獣は、わたしのもの、千の丘の家畜らも。
psm50:11 わたしは、山の鳥も残らず知っている。野に群がるものもわたしのものだ。
psm50:12 わたしはたとい飢えても、あなたに告げない。世界とそれに満ちるものはわたしのものだから。
psm50:13 わたしが雄牛の肉を食べ、雄やぎの血を飲むだろうか。
psm50:14 感謝のいけにえ を神にささげよ。あなたの誓いをいと高き方に果たせ。
psm50:15 ★ 苦難の日 にはわたしを呼び求めよ。わたしはあなたを助け出そう。あなたはわたしをあがめよう。」
psm50:16 しかし、悪者に対して神は言われる。「何事か。おまえがわたしのおきてを語り、わたしの契約を口にのせるとは。
psm50:17 おまえは戒めを憎み、わたしのことばを自分のうしろに投げ捨てた。
psm50:18 おまえは盗人に会うと、これとくみし、姦通する者 と親しくする。
psm50:19 おまえの口は悪を放ち、おまえの舌は欺きを仕組んでいる。
psm50:20 おまえは座して、おのれの兄弟の悪口を言い、おのれの母の子をそしる。
psm50:21 こういうことをおまえはしてきたが、わたしは黙っていた。わたしがおまえと等しい者だとおまえは、思っていたのだ。わたしはおまえを責める。おまえの目の前でこれを並べ立てる。
psm50:22 神を忘れる者よ。さあ、このことをよくわきまえよ。さもないと、わたしはおまえを引き裂き、救い出す者もいなくなろう。
psm50:23 感謝のいけにえをささげる人は、わたしをあがめよう。その道を正しくする人に、わたしは神の救いを見せよう。」
。。。。。。。。。。。
おはようございます。
昨日は少し、失敗。出荷すべきものを荷造りしてそのまま放置。。
今日はお昼休みにそいつを持っていかなきゃ。
あ・・・折角やったのに。
まーそんなことはあっても
今日も共に詩篇を。
今日僕の心に留まったのはこんな言葉。
psm50:15 ★ 苦難の日 にはわたしを呼び求めよ。わたしはあなたを助け出そう。あなたはわたしをあがめよう。」
苦しい時の神頼み
そんな事は申し訳ない。だって、今まで神様の事を無視してたのに
今更・・・。
苦しい時だけ求めても・・・。
そんな事を感じたことはないだろうか?
この考えは立派な考えなのだろうか?
コんな考えは
素敵な心構えなのかもしれない。
でも、バイブルに記されている神様はそう思ってはないみたいだ。
『 わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。 』Bible
なんか・・目の中に入れても痛くない存在だって感じがする。
『苦しい時だからこそ、僕に気付いて欲しい。
僕はいつでも傍に居てあなたを助けたいんだから。』
なんだか、そんな声が聞こえてきそう。
苦しいと感じたら、直ぐに叫ぶといい。
神様は僕らが求めるのを待ってるんだから。
神様は待ってる。
僕らは神様の目の中に入れても痛くない大好きな存在なんだから。
心が否定しても、バイブル(神様)の言葉を選んで過ごせたらいいですね。
だから、大丈夫だ!と言葉を発してみませんか?
僕らは今日も大丈夫!!
神様・・
eps1:17 どうか、私たちの主イエス・キリストの神 、すなわち栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を、私に与えてくださいますように。
eps1:18 また、私の心の目 がはっきり見えるようになって、神の召しによって与えられる望みがどのようなものか、聖徒の受け継ぐものがどのように栄光に富んだものか、
eps1:19 また、神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを、私が知ることができますように。
ジーザス(イェス様)の名前で
a-men.
・・・・・・・・・・
詩50篇「戒める」 עוּד ウード
〔カテゴリー育成〕
7節「聞け、わが民よ。わたしは語ろう。イスラエルよ。わたしはあなたを戒めよう。」
Keyword; 「戒める」 testify, warn, stand firm, sustain, 20:8/50:7/81:8/119:61/146:9/147:6
- 「戒めよう」(新改訳、関根訳)と訳されたウードעוּד(`ud)は、旧約で44回、詩篇では6回使われている動詞です。他にもさまざまに訳されています。「告発する」(新共同訳)、「あかしをなす」(口語訳)、「とがめる」(フランシスコ会訳)、「警告する」(岩波訳)、「話しておきたいことがある」(LB訳)と言った具合です。
- 神がご自身の民に対して、戒めたり、とがめたり、警告したりするのは、父権的な愛のゆえです。その証拠に、原語ウードעוּד(`ud)には、「堅く立たせる」(stand firm)とか、「支える」(sustain)と言った意味合いがあることを心に留めたいと思います。
- 私たちには両親がいて、父と母がいてそれぞれ補いながら、自分たちの子どもを育てていきます。父には父なりの、母には母なりの役割があります。母性的役割は子ども包み込むことです。生後、お乳を飲ませ、常に手をかけるという基盤があって、はじめて人は独立した存在になれるようにプログラムされています。母親としての役割は、人が生きていく上で最も重要な基本的信頼という部分を担っています。主は羊飼いのように、その群れを飼い、御腕に子羊を引き寄せ、ふところに抱き、乳を飲ませる羊を優しく導く。」(イザヤ40:11節)はその典型です。そしてその基盤の上に父親的な役割が必要となってきます。
- 父権の役割とは、責任を持って、家族を統合させ、理念をかかげ、社会のルールを教えて、かじ取りをしていくことにあります。それゆえ、子どもに対してもある厳しさをもって養育します。子どもにいろいろなことを挑戦させ、冒険させ、困難なことにも立ち向かわせる訓練を与えて自立心を養います。こうした訓練がないと、子どもは自立していくことができません。詩50篇は、そうした神の父権的性格がよく表わされた詩篇です。
- 私たちの神は『父なる神』と言われます。しかしその内実は父性と母性の双方を併せ持っている神だということです。母性を深く秘めながらも、父性の権威を持った方なのです。新約のヘブル人の手紙12章にはその父性的な面が強調されています。「霊の父は、私たちの益のため、私たちをご自分の聖さにあずからせようとして懲らしめるのです。」(10節)とあります。愛すべき子たちに対してなされる父のすべての訓練は、決して喜ばしいものではなく、むしろ、かえって悲しく思え、傷つけられたと感じるものです。しかし、あとになれば、それが自分の益となり、神の聖にあずかっている自分を見出すのです。そんな慈愛に満ちた父が私たちの神であってくださることに心から感謝できるものは幸いです。
http://meigata-bokushin.secret.jp/index.php?%E6%81%A9%E5%AF%B5%E7%94%A8%E8%AA%9EPs50
・・・・・・・・・・