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【詩篇13篇】o19 指揮者のために。ダビデの賛歌
psm13:1 主よ。いつまでですか 。あなたは私を永久にお忘れになるのですか。いつまで御顔を 私からお隠しになるのですか。
psm13:2 いつまで私は自分のたましいのうちで思い計らなければならないのでしょう。私の心には、一日中、悲しみがあります。いつまで敵が私の上に、勝ちおごるのでしょう。
psm13:3 私に目を注ぎ、私に答えてください。私の神、主よ。私の目を 輝かせてください。私が死の眠りにつかないように。
psm13:4 また私の敵が、「おれは彼に勝った。」と言わないように。私がよろめいた、と言って私の仇が喜ばないように。
psm13:5 私はあなたの恵みに拠り頼みました。私の心はあなたの救いを喜びます。
psm13:6 私は主に歌を歌います。主が私を豊かにあしらわれたゆえ。
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おはようございます。
ようやく中休み。少し息継ぎができている。感謝だ。
忙しいことは感謝だけれども、疲れが取れない状況が続くと
心が苦しくなり、いつもの仕事が出来なくなる。
少しの中休みが与えられ、ホンマ感謝ですわ。
では今日も共に詩篇を。
僕の心に留まった言葉はこんな言葉。
psm13:1 主よ。いつまでですか 。あなたは私を永久にお忘れになるのですか。いつまで御顔を 私からお隠しになるのですか。
こんな状況。。
誰もが感じるこの状況。
もう少し前に、「神様が居られるから助かったわ~」っていえる状況になればいいのに。。
でも、神様は此処での作者ダビデが語ったように
神様はまるで居ないかのような・・・御顔を隠してるかのような状況を過ごさせる。
ww・・・。
何故だろうね。
本当に。
早くに助けてくれれば、多くの人が神様の存在を知りえるのにと思ってならない。
でも
これは神様の知恵。
神様が共に居ない人は、弱い・貧しい存在だという事を心底知るコトが必要なのかもしれない。
こんな詩がある。何を感じれるだろうか?
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病まなければ
聞き得ない慰めのみ言葉があり
... 捧げ得ない真実な祈りがあり
感謝し得ない一杯の水があり
見得ない奉仕の天使があり
信じ得ない愛の奇跡があり
下り得ない謙遜の谷があり
登り得ない希望の山頂がある
・・・・・
病は(苦しみ)は、誰もが忌み嫌うモノだ。
でも、その病が無ければ
こんなに多くの恵みを体感することは出来なかったという詩だ。
そんな道を
通らなかったら、知りえない詩ですよね。
今、僕らに許された苦しみは
神様の恵みの深さを知る機会になるのかもしれない。
ダビデのように苦しさの中でも
神様の恵みがあるに違いないと言葉を発してみませんか?
神様は僕らをいつも見てて
どんな時でも転ばないように支えようとして下さっているに違いないから。
だから大丈夫。
感情が逆らっても、きっと!大丈夫だ!!
目に見えるもの
その時に感じる感情で判断するのは愚かなことかもしれないモンね。
だから
ホンマに大丈夫。
心が否定しても、バイブルの言葉を選んで過ごせたらいいですね。
だから、大丈夫だ!と言葉を発してみませんか?
僕らは今日も大丈夫!!
神様・・
eps1:17 どうか、私たちの主イエス・キリストの神 、すなわち栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を、私に与えてくださいますように。
eps1:18 また、私の心の目 がはっきり見えるようになって、神の召しによって与えられる望みがどのようなものか、聖徒の受け継ぐものがどのように栄光に富んだものか、
eps1:19 また、神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを、私が知ることができますように。
a-men.
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詩13篇「豊かにあしらう」 גָמַל ガーマル
〔カテゴリー愛顧〕
6節「・・私は主に歌を歌います。主が私を豊かにあしらわれたゆえ。」(新改訳)
6節「・・あなたがわたしに報いてくださいますように。」(新共同訳)
Keyword; 「豊かにあしらう」 have been good, goodness, weaned, 116:7/119:17/142:7
- この詩篇は、神の不在と沈黙の中で神を求めている部分(1~4節)と信仰の確信の部分(5~6節)の二つの部分に分かれています。5節の頭には、へブル語の接続詞である「ヴェ」(וְ)があり、「そして」「~と」(and)、「しかし」(but)、「それゆえ」(therefore)、「また」(also)という意味があり、前後のコンテキストによってどれがふさわしいかを理解します。詩13篇5節以降はその前の部分とは全く内容が異なっているので、「しかし、私は・・」と訳すと、より理解がしやすくなりますが、実際にそのように訳しているのは、口語訳、関根訳、岩波訳だけです。
- 5節の「恵みに拠り頼みます」、「救いを喜びます」、「歌を歌います」という礼拝用語は、最後の行にある「主が私を豊かにあしらわれたゆえ」という恩寵用語にささえられています。つまり、「主が私を豊かにあしらわれたゆえ」に、主に「拠り頼み」、「喜び」、「歌う」ことができるわけです。この論理を「恩寵先行、信仰後続の論理」と言います。主の恩寵だけが「私の目を輝かせる」ことができるというわけです。つまり、私全体(考えも行いもすべて)を輝かすことのできる秘訣は主の恵みです。ですから、私たちは日ごとに主の恵みを深く味わっていく必要があります。
- ところで、「主が豊かに私をあしらう」の「あしらう」と訳されたヘブル動詞は、「ガーマル」
גָּמַל(gamal)で「良くしてくださる」という意味です。他にも、乳離れさせる、熟する、成熟させる、仕返しする、報いる、という意味があります。TEVでは、because you have been good to me (主が私に良くし続けて下さったから)」と訳され、LB訳では「身にあまる祝福をいただいき」と訳しています。
- 「ガーマル」גָּמַל(gamal)は旧約で37回、詩篇では10回使われていますが、「豊かにあしらう」、「良くしてくださった」という意味で使われているのは、116篇7節、119篇17節、143篇7節の3箇所だけです。しかも、この訳は詩篇のみにみられるものです。また、「乳離れする」(wean)という意味で使われているのも、詩篇では131篇2節のみです。
- この詩13篇5, 6節に見られる賛美は、ダビデがまだ悲しみのトンネルの中にいたときに告白したものであると考えられます。ダビデは自分の嘆きの中で、自分の人生を振り返りながら、自分が主によってどんなに良くしてもらってきたか、その主の恵みに思いを巡らしたのです。その思い巡らしの中で、主の恵みに対する気づきこそ、嘆きを賛美に変えていく力であると信じます。
http://meigata-bokushin.secret.jp/index.php?%E6%81%A9%E5%AF%B5%E7%94%A8%E8%AA%9EPs13
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