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詩篇14篇 o19 指揮者のために。ダビデによる
psm14:1 愚か者は心の中で、「神はいない 。」と言っている。彼らは腐っており、忌まわしい事を行なっている。善を行なう者はいない。
psm14:2 主は天から人の子らを見おろして、神を尋ね求める、悟りのある者がいるかどうかをご覧になった。
psm14:3 彼らはみな、離れて行き、だれもかれも腐り果てている。善を行なう者はいない。ひとりもいない 。
psm14:4 不法を行なう者らはだれも知らないのか。彼らはパンを食らうように、わたしの民を食らい、主を呼び求めようとはしない。
psm14:5 見よ。彼らが、いかに恐れたかを。神は、正しい者の一族とともにおられるからだ。
psm14:6 おまえたちは、悩む者のはかりごとをはずかしめようとするだろう。しかし、主が彼の避け所 である。
psm14:7 ああ、イスラエルの救いがシオンから来るように。主が、とりこになった御民を返されるとき、ヤコブは楽しめ。イスラエルは喜べ
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おはようございます。
疲れたら、集中力が散漫になりやすいものですね。
でも、与えられた今日は新しく僕らに神様が備えられた一日なはず。
だから今日も共に詩篇を。
今日僕の心に届いたのはこんな言葉。
psm14:6 おまえたちは、悩む者のはかりごとをはずかしめようとするだろう。しかし、主が彼の避け所 である。
悪巧みを考える人の働きはいつでも止むことは無いかもしれない。
でも
僕らには絶対に崩されない裂けどころがある。
シンドイ時には其処にかけこもう。
上級者は絶えず其処に居ることが出来る。
ん・・・?どうやって?
それは賛美だよね。
感謝をもって主の門に。賛美をもって大庭に入れ!だもんね。
今がどんな環境でも
与えられた一つ一つの感謝を数え、
神様の実際を言葉として発していく時に僕らはその避け処である神様の領域に入る事になる。
忘れちゃダメだ。
psm14:2 主は天から人の子らを見おろして、神を尋ね求める、悟りのある者がいるかどうかをご覧になった。
いつも心配して見守ってくださる神様は
今日も僕ら一人一人に目を注がれている。
大丈夫。
僕らには素敵な先輩の言葉があるんだから。
この詩篇を自分の心の言葉として今日も発してみませんか?
感情では解らない時も多いだろうけど、
きっと、神さまは僕達を支え守ろうとされているんだから。
心が否定しても、バイブルの言葉を選んで過ごせたらいいですね。
だから、大丈夫だ!と言葉を発してみませんか?
僕らは今日も大丈夫!!
神様・・
eps1:17 どうか、私たちの主イエス・キリストの神 、すなわち栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を、私に与えてくださいますように。
eps1:18 また、私の心の目 がはっきり見えるようになって、神の召しによって与えられる望みがどのようなものか、聖徒の受け継ぐものがどのように栄光に富んだものか、
eps1:19 また、神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを、私が知ることができますように。
a-men.
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詩14篇「(上から)見おろす」 שָׁקַף シャーカフ
〔カテゴリー愛顧〕
2節「主は天から人の子らを見おろして、神を尋ね求める、悟りのある者がいるかどうかをご覧になった。」
Keyword; 「見おろす、見渡す」 look down, 14:2/53:2/85:11/102:19
- 神が天から「見おろす」と訳されたシャーカフשָׁקַף(shaqaph)は、旧約で22回、詩篇では4回使われています。日本語で、高いところから「見おろす」というイメージは、決して良いものではなく、傲慢さを感じさせます。事実、聖書でもダビデの最初の妻となったミカル(サウル王の娘)は、ダビデが契約の箱をシオンに運び上ろうとしたとき、ダビデが主の前ではねたり、踊ったりしている姿を窓から見おろして、心の中で彼をさげすんだとあります(Ⅰ サムエル6:16)。しかし、神が天から私たちを「見おろす」ときには、人に対する真摯な心をもって目を注いでおられるというイメージの言葉です。私たち人間は神を「見上げます」が、神は天から私たちを「見おろし」、愛のまなざしを注いでくださっているのです。この呼応的なかかわりこそ重要です。
- この詩14篇では、神の「見おろし」が「神を尋ね求める、悟りのある者がいるかどうかをご覧になる」ためのものでしたが、そこにあったのは神の心を痛めるような地的現実でした。「善を行う者はいない、ひとりもいない」、これが神の人に対する評価でした。神を信じ、神のみこころを行う者はいないという現実に、おそらく神は深く心を痛められたに違いありません。また、預言者エレミヤがエルサレム陥落、捕囚、亡国の憂き目にあった神の民に対して語ったことばー「私の目は絶えず涙を流してやむことなく、主が天から見おろして顧みてくださるまで続く。」(哀歌3:50)とのことばは、神があわれみをもって、再び天から見おろして顧みてくださることを信じ希望を抱いています。まさに、神の「見おろし」は、栄光と誉の冠を与えられた人間に対する愛のまなざしなのです。
- 詩102篇19節には「主はその聖なるいと高き所から見おろしשָׁקַף、天から地の上に目を注がれました。」 その目的は、「捕らわれ人のうめきを聞き、死に定められた者を解き放つために。人々が、主の名をシオンで語り、エルサレムで主を賛美するために。また、国々の民や、王国が共に集められるとき、主に仕えるために。」(20~22節)とあります。
- 神の「見おろし」というあわれみのまなざしは、天から下ってこられた神の御子イエスを通して現わされました。御子イエスは「・・群衆を見て、羊飼いのない羊のように弱り果てて倒れている彼らをかわいそうに思われた。そのとき、弟子たちに言われた。『収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫の主に、収穫のために働き手を送ってくださるように祈りなさい。』」(マタイ9:36~38) また、こうも言われました。「なくなる食物(朽ちる食物)のためではなく、いつまでも保ち、永遠のいのちに至る食物のために働きなさい。それこそ、人の子があなたがたに与えるものです。」(ヨハネ6:27)
http://meigata-bokushin.secret.jp/index.php?%E6%81%A9%E5%AF%B5%E7%94%A8%E8%AA%9EPs14
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