その人は倒れてもまっさかさまに倒されはしない。主がその手をささえておられるからだ。 | へなちょこ ユテコ の Don't Worry, Be Happy

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僕らは地上では「旅人」
                                          ここでは 感じるまま、気ままに、思ったままを「音楽」と共に・・・。

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【詩篇83篇】o19  歌。アサフの賛歌


psm83:1  神よ。沈黙を続けないでください。黙っていないでください。神よ。じっとしていないでください。

psm83:2  今、あなたの敵どもが立ち騒ぎ、あなたを憎む者どもが頭をもたげています。

psm83:3  彼らは、あなたの民に対して悪賢いはかりごとを巡らし、あなたのかくまわれる者たちに悪だくみをしています。

psm83:4  彼らは言っています。「さあ、彼らの国を消し去って、イスラエルの名がもはや覚えられないようにしよう。」

psm83:5  彼らは心を一つにして悪だくみをし、あなたに逆らって、契約を結んでいます。

psm83:6  それは、エドムの天幕の者たちとイシュマエル人、モアブとハガル人、

psm83:7  ゲバルとアモン、それにアマレク、ツロの住民といっしょにペリシテもです。

psm83:8  アッシリヤもまた、彼らにくみし、彼らはロトの子らの腕となりました。セラ

psm83:9  どうか彼らを、ミデヤンや、キション川でのシセラとヤビンのようにしてください。

psm83:10  彼らは、エン・ドルで滅ぼされ、土地の肥やしとなりました。

psm83:11  彼らの貴族らを、オレブとゼエブのように、彼らの君主らをみな、ゼバフとツァルムナのようにしてください。

psm83:12  彼らは言っています。「神の牧場をわれわれのものとしよう。」

psm83:13  わが神よ。彼らを吹きころがされる枯れあざみのように、風の前の、わらのようにしてください。

psm83:14  林を燃やす火のように、山々を焼き尽くす炎のように、

psm83:15  そのように、あなたのはやてで、彼らを追い、あなたのあらしで彼らを恐れおののかせてください。

psm83:16  彼らの顔を恥で満たしてください。主よ。彼らがあなたの御名を慕い求めるようにしてください。

psm83:17  彼らが恥を見、いつまでも恐れおののきますように。彼らがはずかしめを受け、滅びますように。

psm83:18  こうして彼らが知りますように。その吊、主であるあなただけが、全地の上にいますいと高き方であることを。

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おはようございます。

今日もダビデさんの賛美隊長アサフさんの詩篇。

僕の心に留まったのはこんな言葉。

psm83:3  彼らは、あなたの民に対して悪賢いはかりごとを巡らし、あなたのかくまわれる者たちに悪だくみをしています。

psm83:4  彼らは言っています。「さあ、彼らの国を消し去って、イスラエルの名がもはや覚えられないようにしよう。」




あなたのかくまわれる者??

悪巧みはいつの時代も変わらないね。



神様は誰をかくまわれるのだろうか?

この説明は特にわかりやすい。

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礼拝用語としてのツァーファンצָפַן(tsaphan)は、神のことばをたくわえる(隠す)と言う意味で、119:11に使われています。もう一つの用法として、敵が隠れたところで待ち伏せているという意味で、10:8/56:6で使われています。

神は神の民をかくまい、神の祝福をその人にたくわえらておられます。なぜなら、自分の秘蔵の子だからです。神の民も神に罪を犯さないために神のことばをたくわえる(心の中に隠す)、こうしたかかわりを秘めたことばがツァーファンצָפַן(tsaphan)です。

ヘブル語のコンコルダンスを引くと、この動詞が最初に登場するのは出エジプト記2章2節です。モーセの母はかわいい男の子を産んだ時、そのかわいいのを見て、三か月の間、その子を隠しておきました(צָפַן)。これは命懸けの行為でした。しかしもう隠し切れないと分かった時、パピルス製のかごを手に入れ、その中に自分の子を入れ、ナイルの岸の葦の茂みの中に置きました。ところが、神はエジプトの王女によってこの子を育てさせ、やがてエジプトで奴隷となっていた神の民を連れ出す指導者として隠されていたのです。モーセはいわば神の秘蔵の子でした。

詩83篇は今にも自分たちが敵の仕打ちに屈してしまう危機を感じながらも、この詩篇の作者は、自分たちを「あなたのかくまわれる者たち」と言っています。これは驚くべき信仰のアイデンティティです。クリスチャンも同様にこの確信が求められます。この確信があるならば、どんな状況に置かれることがあっても、信仰は「ブレること」はないと信じます。詩篇の瞑想の目的は「ブレない信仰」に立つための日々の「かかわりの修練」と言えます。

http://meigata-bokushin.secret.jp/index.php?%E6%81%A9%E5%AF%B5%E7%94%A8%E8%AA%9EPs83

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僕らは神様にかくまわれている。

でも、偉い事にあってるんだけど・・・このアサフさんも、この僕も。。

でもね、アサフさんはその中でも消えない希望が満ちているように感じる。

何故なんだろう?

 


ダビデさんの詩篇にこんな言葉がある。


psm37:24  その人は倒れてもまっさかさまに倒されはしない。主がその手をささえておられるからだ。





アサフさんの近くでダビデさんも含め、多くの人が体験してきた事なんだろうね。


倒れても、倒されはしない。


大丈夫。





僕らは理解する事は難しいかもしれないが、神様の前ではかくされ支えられている者だから。






素敵な言葉ですね。

僕らはどんな状況でも、ダビデさんのよに希望をもって「僕らは倒れても、倒れることが無い」って叫ぶ事が出来るんだから。神様が僕らを愛し支えようとしてくれてる事実は変わらない事。





今日も、神様が創られた素敵な一日。

期待を持ってその備えられた素敵を数える為、一緒に捜しに出かけましょうね。