江戸時代のキリシタン禁制のなか、師である司祭が棄教したという噂を確かめるため、危険を承知で日本へ渡ってきた青年司祭ロドリゴ。その苦悩が書簡のかたちで綴られていく。
彼の語りは重く、読み手のわたしには心の底へ沈んでいくような感触があった。
棄教させるためのむごたらしい手段。
キリシタンに対する拷問や弾圧の場面を思い浮かべると、はじめは物語に没入できず、数か月も読む手を止めざるを得なかった。
しかし書簡の半ばを過ぎるころ、ロドリゴの揺らぎに寄り添うようにして、物語の内側へ引き込まれていった。
信仰にすがらなければ保てない者たちにとっての救い。
救いであるはずの信仰ゆえに殺されるという不条理。
迫害を受けても、神という存在は沈黙したまま。
何度問いかけても答えは返らず、ただ沈黙だけが続く。
揺るぎない信仰とは何なのか。
そして、わたしにとっての信仰とは何なのか。
日本人の宗教観とはどのようなものなのか。
読みながら、次々と問いが生まれていった。
踏み絵をあえて踏むことは、宗教を裏切ることになるのか。
形式ではなく、こころの領域まで誰かが踏み込むことはできるのか。
その問いのさなかで、あの場面が訪れる。
踏み絵の銅版のあの人は、ロドリゴ司祭に向かって静かに語りかける。
「踏むがいい。お前の足の痛さをこの私が一番よく知っている。
踏むがいい。私はお前たちに踏まれるため、この世に生れ、
お前たちの痛さを分かつため十字架を背負ったのだ。」
この言葉は、信仰の本質を根底から揺さぶる。
裏切りとは何か。救いとは何か。沈黙とは何か。
読み終えてもなお、心の奥に問いが残り続ける小説だった。
いつかまた読み返すたびに、立場や年齢が変わっても、問いが深まって生まれ出てくるだろうと。
<目次>
まえがき
セバスチャン・ロドリゴの書簡 ほか
解説 佐伯彰一
