卒業する信吾 16
清水景允
1980年の初夏、沢田先生から電話が勤務している学校に入った。
電話の向こうで「今年の秋の旭川での科目試験に僕が行くから・・・。」と言うのである。
更に先生は「三色旗(通信教育教材の補助教材として、毎月出版され学生達に配布される冊子)に僕が『働く学生たち』と題して通信の学生達の写真を載せているのを知っているよね、旭川の働く学生を取材するから対照となる学生を紹介して欲しい。」と言うのである。
そこで、クラス例会に図ったところ、当時、慶応旭川クラブに「三色会」と言う写真研究クラブがあった。そのクラブの存在と赤十字看護専門学校で教鞭を取っている哲学科の学生を先生に紹介したところ「いいね・・・。」と言う返事が返ってきた。
慶応では地方での科目試験には、教務部の職員と学務関係から教授又は助教授が派遣されるのである。その科目試験の総責任者として沢田先生が来られるのだ。
当時、慶応旭川クラブでは、会長が中心となりクラグ活動を行なっていた。
全く利害の絡まないクラブ活動は、信吾にとって全く別の世界であった。
その中で写真研究クラブを設立したのは信吾であった。
この研究会では、旭川NHKギャラリーで写真展を行うことになっていた。その日程を、旭川市での科目試験日に調整し、写真作りに入った。
やがて、旭川での科目試験日が近づいた。
信吾は卒業に必要とする単位は修得していた。残りは卒論の4単位であったので、科目試験は受ける必要が無く、沢田先生と行動を共にすることができた。また、慶応旭川クラブの会長も後輩に譲り、顧問的存在であったので職場に休暇届けを提出し沢田先生の写真取材にお供することが出来た。
三色会も写真展の準備に入った。
当時、信吾が発明した明室現像装置を、大判(A2版)のカラー写真を現像できる様に改良していた。その装置を慶応旭川クラブの三色会の学生に信吾の管理の元で自由に使用することを学校から許可を得ていた。
三色会の会員は5名である。その5名の会員の内一人を除き慶応旭川クラブの会長経験者で、良くこの5名の呼びかけで三色会以外にクラブ活動も行なわれていた。
その中でユニークなクラブ活動は、通信教育の中の通信教育と言われる、学生の自主的な学習会方法であった。
この学習会方法は、4人から5人の学生が週に一回輪番制で一人の学生の家に集合し、テープレコダーを中心に置いて、ゼミナールを行い、そのテープを慶応義塾の関係教授に送り、それにコメントをもらうシステムを作り上げたのである。
テーマは主にマルクスの資本論が中心であった。
信吾は哲学と言う立場で、このゼミナールに参加していた。
沢田先生は試験当日の三日前に澄子夫人が運転する自動車で旭川に入った。
今度の車はパンダ自動車から大型のデボネアに変わっていた。
その頃になると、大判のカラー写真のパネルが出来上がり展示するところまできていた。
沢田先生は信吾達の写真展示会場であるNHKギャラリーに姿を見せ、写真展示の風景を写すのである。
次の日、沢田先生は信吾の仕事ぶりを写すため、信吾の職場に来た。
学校長に紹介し、信吾の机のある理科室に案内した。
興味を示したのは、やはり大型の明室現像装置であったが、撮影したのは、計量器具に向かい薬品を調合する白衣姿の信吾の風景であった。
次の写真撮影は、旭川赤十字看護専門学校で専任教師として中心的役割をしている哲学科の学生の取材であった。
沢田先生は、彼女の教壇での厳しく教育する姿、それに、生徒の看護士に囲まれ優しく対話をする一面をカメラにおさめるのである。
1980年11月号同じく12月号の補助教材「三色旗」に旭川の働く学生達の写真が載っていた。
信吾は38歳になっていた。
清水景允
1980年の初夏、沢田先生から電話が勤務している学校に入った。
電話の向こうで「今年の秋の旭川での科目試験に僕が行くから・・・。」と言うのである。
更に先生は「三色旗(通信教育教材の補助教材として、毎月出版され学生達に配布される冊子)に僕が『働く学生たち』と題して通信の学生達の写真を載せているのを知っているよね、旭川の働く学生を取材するから対照となる学生を紹介して欲しい。」と言うのである。
そこで、クラス例会に図ったところ、当時、慶応旭川クラブに「三色会」と言う写真研究クラブがあった。そのクラブの存在と赤十字看護専門学校で教鞭を取っている哲学科の学生を先生に紹介したところ「いいね・・・。」と言う返事が返ってきた。
慶応では地方での科目試験には、教務部の職員と学務関係から教授又は助教授が派遣されるのである。その科目試験の総責任者として沢田先生が来られるのだ。
当時、慶応旭川クラブでは、会長が中心となりクラグ活動を行なっていた。
全く利害の絡まないクラブ活動は、信吾にとって全く別の世界であった。
その中で写真研究クラブを設立したのは信吾であった。
この研究会では、旭川NHKギャラリーで写真展を行うことになっていた。その日程を、旭川市での科目試験日に調整し、写真作りに入った。
やがて、旭川での科目試験日が近づいた。
信吾は卒業に必要とする単位は修得していた。残りは卒論の4単位であったので、科目試験は受ける必要が無く、沢田先生と行動を共にすることができた。また、慶応旭川クラブの会長も後輩に譲り、顧問的存在であったので職場に休暇届けを提出し沢田先生の写真取材にお供することが出来た。
三色会も写真展の準備に入った。
当時、信吾が発明した明室現像装置を、大判(A2版)のカラー写真を現像できる様に改良していた。その装置を慶応旭川クラブの三色会の学生に信吾の管理の元で自由に使用することを学校から許可を得ていた。
三色会の会員は5名である。その5名の会員の内一人を除き慶応旭川クラブの会長経験者で、良くこの5名の呼びかけで三色会以外にクラブ活動も行なわれていた。
その中でユニークなクラブ活動は、通信教育の中の通信教育と言われる、学生の自主的な学習会方法であった。
この学習会方法は、4人から5人の学生が週に一回輪番制で一人の学生の家に集合し、テープレコダーを中心に置いて、ゼミナールを行い、そのテープを慶応義塾の関係教授に送り、それにコメントをもらうシステムを作り上げたのである。
テーマは主にマルクスの資本論が中心であった。
信吾は哲学と言う立場で、このゼミナールに参加していた。
沢田先生は試験当日の三日前に澄子夫人が運転する自動車で旭川に入った。
今度の車はパンダ自動車から大型のデボネアに変わっていた。
その頃になると、大判のカラー写真のパネルが出来上がり展示するところまできていた。
沢田先生は信吾達の写真展示会場であるNHKギャラリーに姿を見せ、写真展示の風景を写すのである。
次の日、沢田先生は信吾の仕事ぶりを写すため、信吾の職場に来た。
学校長に紹介し、信吾の机のある理科室に案内した。
興味を示したのは、やはり大型の明室現像装置であったが、撮影したのは、計量器具に向かい薬品を調合する白衣姿の信吾の風景であった。
次の写真撮影は、旭川赤十字看護専門学校で専任教師として中心的役割をしている哲学科の学生の取材であった。
沢田先生は、彼女の教壇での厳しく教育する姿、それに、生徒の看護士に囲まれ優しく対話をする一面をカメラにおさめるのである。
1980年11月号同じく12月号の補助教材「三色旗」に旭川の働く学生達の写真が載っていた。
信吾は38歳になっていた。