卒業する信吾 18 
                  清水景允

 年が開、1981年3月に、信吾は39歳になっていた。
身分は実習助手である。
相変わらず、自動現像装置の研究に取組んでいた。
しかし、信吾の子ども達の学齢期にかかり学費のこと等を考えると、40歳当たりから教諭と実習助手との間で給料に差が出て来る。
そろそろ、慶応を卒業し、教諭への任用替えを考えなければならない時期に来ていた。

 慶応の通信教育課程には、年に春期と秋期の二回卒業期がある。
そこで、夏休みから秋期卒業を目標に卒業論文の作成にとりかかった。
卒業論文のテーマは「写真について」と決まっている。
草稿を大学ノートに書き始めたが、卒業論文用紙は200字詰めと決まっているから、その原稿用紙を慶応共済より取り寄せ、直接書き始めた。
 論文は三章から構成されている。
 第一章 写真の芸術論争史
 第二章 映像の意味
 第三章 現代における映像の問題
と書き進んだ。
気がついたら、200字詰め原稿用紙225ページを一週間で書き上げていた。
慶応義塾に卒業論文を郵送した。
論文は通った。
次に、面接を受けなければならない。
東京に向かった。

 慶応三田キャンパスで面接を行なう。
卒論を通った通信学生が控え室に待機している。
信吾もその中に居た。
「富山信吾君」とコールがかかった。
面接室のドアーをノックした。
「どうぞ・・・」と中から懐かしい声が聞こえて来た。
二人の面接教授が机の向こうに席に着いている。
「富山信吾です。」と自己紹介した。
「良く書き上げたね・・・。」
と沢田先生が唇を切った。
もう一人の教授は存在論を研究している哲学科の中山教授である。
中山先生とは、沢田先生を知る前から、教養の哲学の講義を受けていたので顔は知っている。
 論文の中身に付いての質問はなかった。
もっぱら、信吾が取組んでいるカラー写真の自動現像装置に対する質問に答えるだけであった。
 信吾はカラー写真の現像に付いて、白黒写真を現像する様に現像の進捗状態を見ながら写真を作ることは出来ない事を話す。
現像環境が一定であれば、機械的に現像処理するしかない。従って、カラー写真を現像するのに自動化の対象として、技術教育を司る者にとって、最高の教材であると話した。
 沢田先生は「作っていて、印象に残っていることがある・・・。」と聞いて来た。
信吾は、パーツを組み立てていて0.01mm誤差が生じていたため、そのパーツを金属パンマーで打ち壊し、それから1週間何もする事ができなかったことを話した。面接の会場に笑いが生じた。
ハンマーで打ち壊した1週間後に、また旋盤に向かうのであるが、その時の心境を話すのである。
「哲学をやっている者が、この位の事でしょげていてどうする・・・。」と・・・。再度、旋盤に向かった時の心境を素直に話すのであった・・・。
 
 東京での宿は、芦名の沢田先生宅である。
先生が帰宅後、先生は「信吾君、なかなか良い文章で書けていたね・・・。中山君もAを付けてくれたよ・・・。」と言ってくれた。
 慶応義塾では「先生」と呼ばれる人は福沢諭吉先生のみで、塾生(学生)、塾員(卒業生)、事務職員、教員の全ての人々は「君」呼びが慣習であった。