卒業する信吾 20
                  清水景允

 次の日、伊豆大島に2泊するため芦名の人々に丁重にお礼を云い後にした。
東京駅から、新幹線で熱海に向かい、熱海から高速船で伊豆大島に向かうのである。その高速船の中での子ども達の無邪気に遊び回る姿の中に信吾の姿もあった。

 この年、信吾が慶応を卒業した時と同じ3月に沢田先生は、慶応義塾大学を定年退職し、同じく慶応義塾大学文学部名誉教授に就任するのであった。後日、退職と名誉教授就任祝いの祝賀会が東京で行なわれるのであるが、もちろん信吾も参加するのである。
沢田先生は、定年退職後はさらに忙しく、日本哲学会委員長(会長)勤めた後、翌年1983年から日本科学哲学会会長を1992年まで勤めるのであった。

 家族旅行から帰った。
学校長に卒業證書を見せ報告し、長いこと信吾の我侭を許してくれたことへのお礼と、感謝の言葉を述べた。
事務長は、直ちに教諭への任用換えの手続に入った。
すると、教諭になるための単位が不足しているとのことである。
本来、実習助手から教諭への任用換えには教育委員会で定められている所定の教科10単位を大学で修得すれば良かったが、信吾の場合、教育委員会で定めている一部の教科の単位が不足しているのである。
それで、慶応の通信で、不足の単位を修得することにした。
 1983年2月21日慶応で学生時代の修得単位を含めて24単位を修得し、同じ年の4月、北海道教育委員会から辞令書が信吾のもとに届いた。
その辞令書には、

 北海道公立学校教員に任命する
 教育職2等級20号俸を給する
 北海道旭川工業高等学校教諭に補する
昭和58年4月1日

と書いてあった。
信吾は41歳であった。
実習助手の時の給料とは変わりがなかった。
しかし、以後、実習助手の給料表3等級であると年ごと給料差が生じて来ることが分る。