本題の前に一つ、日曜日帰還報告のときに帰路、吉備中央町にて交通事故の交互通行に出くわしたと書きました。
発生時刻を聞くと、出くわしたときはまだ1時間も経ってない時間帯でした。
軽トラと黒のトヨタミニバンの正面衝突事故、ローカルニュースで軽トラの運転手の死亡が伝えられました。
m(_ _)m
ミニバンのほうがセンターラインオーバーで衝突、運転手が逮捕されましたので報告しておきます。
さて、本命の?姫路城を建てた(というより改修してデッカクした)で有名な「池田輝政公」の陵墓です。

読んでみる・・・関ケ原以降、このときの池田家が一番石高が多かったようですね。
池田家というより『池田一族』播磨姫路に淡路島、備前岡山に因幡鳥取合わせて100万石(;゚Д゚)!

挑戦してみたが、全部漢文調で書いてあるので読めない・・・(-∧-)

「従三位」と書いてある、が、没後「従二位」の官位を貰ったってことでしょうか?

墓標の下からなにかが見切れてるのが気になりません?

寄ってみたら、墓標が亀の上に載ってて、これってどういう意味です?

さて、池田光政公ですが、これだけの石高を拝領するも関ヶ原の戦い(関ヶ原の地)では
さほど戦ってない。
家康本陣の後詰めも後詰め、南宮山に陣を張る「吉川元春」とは密約を謀ってるものの
毛利家本陣や安国寺恵瓊に長宗我部元親なども抑えきれるか?というのもあって油断はできなかったものの、
一番の働きどころは前哨戦の「岐阜城攻め」、このときの岐阜城を守るのは昔「三法師」だった「織田秀信」
1日で城を落とされ、その後生き延びたものの出家したって・・・なんだかなあ~
だとすれば「織田秀信」のピークって、『清州会議で秀吉に担がれ織田家の当主になったとき』ってのがね。
で、このとき一票差の一票を投じたのが、池田光政の父の『池田恒興』だったという巡り合わせ。
で。この三法師時代以降、どのような活躍をしたか、誰もほとんど知らないってのがね。
歴史でも清州会議以外に全く描かれることがないのでね、次に登場するのが「岐阜城攻めで負ける場面」って。
(-_-;)