しましま狼 てきとうな毎日

しましま狼 てきとうな毎日

しましま狼の日常などを書いてます

だいぶ間が空いてしまいましたが

その間、5月の連休に北杜市の逸見神社と清光寺、御坊市の道成寺へ行ってきました。その時のことはまた後日。

 

さて、脇差しのことについて、まとめておこうと思います

 

銘は「祐定」、長船で修業後倉敷辺りに住んで居た刀匠らしい

作者から作は1600年代前半

柄や鞘には、螺鈿の粉が撒いてあり、銅の上に金メッキを施した錨(イカリ)、千鳥、雨竜の象嵌が施してある

来歴を推定してみる

領地が毛利氏と幕府で分割され、本家を2つに別けていく際に、こちらは士族の身分を捨てる形となるため、贈られたものであると思われる。

この時期はまた毛利氏に仕えていたため、毛利氏の本拠地へ行くにはおそらく高梁川を下り倉敷から山陽道(西国街道)や瀬戸内の海路を使っていたとすれば、倉敷で作成を依頼することができる。

後に私の家が予備本家として創られた時の初代である逸見資義が、その証として渡されたか、所望したかは不明ではあるが、今に伝わることとなった。

そして、この脇差しは葬儀の時のお守り刀として使用されたため

ほぼ人目に触れず保管できたのかもしれない。

仮に本家にあった場合、保存はされてなかったかもしれない。

 

今回はここまで、次からはGWの甲斐、紀伊の旅について書いていきます。

備前長船刀剣美術館で所属されてりる研師の方を紹介してもらうために行ったのですが、ここで研師の凄さを知るとは思いませんでした。

 

事前に美術館へは連絡をいれており、受付では特別な入館証を渡され入りました。

 

ちょうど行った時は研師の方はまだ出てきていなかったので、ほかの作業場を見学しながら、少し自分の脇差しを見てもらい色々聞いて回っていました。

 

金工師と同じ部屋に金工師の方がいらっしゃったので、柄を外せないかとお願いしたところ、時間がかかったけどなんとか外せ、銘を見ることができました。

 

銘は「祐定」とあったけど、金工師の方が本物じゃないかも、でもいいものですねと言うことで、しょうがないかな~と思ってたところ、研師の方部屋に入られてきました。

 

研師の方に脇差しを見てもらったところ、本物の「祐定」で今の倉敷辺りで刀を打っていた人の作だとのこと

※うる覚えで名前は忘れた(笑)

 

自分も金工師の方も「え!」って感じでそこまでわかるのかびっくり、銘を見るだけでどこの誰かがすぐ出てくるのは凄いことだと思いましたよ。

 

なんか駄文になった(笑)、もうちょっとつづく

買い物行ってら献血車が来てたので

久々に献血でもするかな~っと献血してきた

 

何十年も前に2回ほど献血した時以来w

 

色々問診と検査されて、血を抜かれた

個人的な心配ごとは、気分が悪くならないかなと

思ったくらいかな

 

針差されるのも採血検査で慣れてるから問題ない

ただ、事前の検査で指先にプスっとさされた方が

地味に痛いな~

 

気分転換になったし、なんかいいことした気分に

なれて良かった

 

タイトルはぼかして書いてますが(笑)

文化財→日本刀です

 

2022年の7月に昔からうちの家で所有していた脇差を鉄砲刀剣登録してきた

 

この脇差はうちの家で代々、葬式の時に胸元においておくのが習わしで、今ならカミソリとかおくような意味

 

さすがに、登録はしておこうと思い文化財登録をした

 

けど、かなり昔にどっかのバカが銘を見た後目釘なくしやがって針金でぐるぐる状態で銘をみることができず、無銘で登録されてしまった。

 

その後、長船刀剣美術館で研師の方に磨いでもらおうかなと思い備前市へ行くことに

(つづく)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ブログはだいぶ間があいてますが

ほぼ近辺で調べることがなくなってきた

 

あとはこの辺かな?

①所在不明のもう1本の系譜(家系図)

②足利氏での情報

③大内氏・毛利氏内での情報

④熊野本宮大社での情報

 

①については、新見本家にあるかもしれない

一応、新見分家辺りに本家の蔵や文書を見せてくれと

言ってるけど、まだ返答なし

 

②これは、ほぼ無理、てか、つてが無い

 

③山口県文書館まで行けば何かわかるかものレベル、

郡代職や検地奉行の情報があれば裏が取れる

 

④某大学教授から熊野で祈祷権を持っていた情報が

あり何かしらあるのではないかと思ってる

今年中には一度参拝させてもらおうと思ってる

 

あと、ひとつ全然読めない古文書があって

いわれでは江戸末期に甲州へ行ったときの日記

ではないかと、ざっくり何が書いてあるかを

どっかで読んでもらおうと思ってます