しましま狼 てきとうな毎日

しましま狼 てきとうな毎日

しましま狼の日常などを書いてます

久々に少し書いてみる

 

自分が吾妻鑑で不思議というか、おかしいなと思うところ
 

治承四年十月小十三日壬辰の部分、治承・寿永の乱の戦いのひとつ「鉢田の戦い」の記載。
 

大体の書き物では『武田太郎信義。次郎忠頼。三郎兼頼。兵衛尉有義。安田三郎義定。逸見冠者光長。河内五郎義長。伊澤五郎信光等』と記載される(現代語訳されている)
 

で、「河内五郎義長」の記載
 

どこかで見た原文らしきものは、義長だけだったような気がすること
そして、実際の名は河内五郎長義が正しいこと
ちなみに光長の三男に義長がいる
 

どうなのかね~?
 

(ちょっと補足)逸見三郎義長のこと
・逸見光長の三男
・深津氏を名乗っている
・成木氏族の小原義範の母が義長の娘
・二男時義が実は頼朝の子で和賀氏に養子に入った(たぶん作文)

久々の更新となります

ネット上ですが色々と調べていると検索しきれていない情報が多くあります。

その中で逸見満清の情報について少し

 

満清を調べていくと「沙弥淳真」という法名が出てくる。

武士である限り、人の生死にかかわるため、引退後に出家して供養を行っていく人生を送ったのかもしれない。

満清は現在の岐阜辺り、美濃の高賀山信仰に関わっていたようである。

浄覚という和尚が高賀山信仰の中心となり、義清が右筆として菩薩瓔珞本業経などの写経を行い、寺社に奉納していたようである。

この辺りの資料は岐阜県史や岐阜の地方自治体の史書にある。

その中で「文和二年卯月九日令書写了 願主当別当浄覚禅師 筆者沙弥淳真 生年五十九」とあり義清(沙弥淳真)が文和二年時点で59歳とあり、逆算すると永仁二年辺りが生まれた年と推測される。

 

今回はここまで

ブログ久々に書いてみました

 

昨年の5月に山梨県の逸見神社と和歌山県の道成寺へ行ったことについて簡単に

 

その時点で調べたことをまとめて、逸見神社と道成寺へ資料を預けてきました。

2車中泊3日の強硬日程

初日は長久手の自己渋滞に合い、諏訪まで行けず伊那市の辰野PAで車中泊

2日目に清光寺と逸見神社へ

清光寺では住職さんと少しお話をして清光像を見せていただきました。

逸見神社では、資料を説明しお渡し、その足で谷戸城近くの古いお墓(清光の元の墓と言われる)へお参りしてきました。

和歌山までの行程でも、京滋バイパスの渋滞に巻き込まれながら、なんとか和歌山SAまでたどり着き車中泊

3日目に道成寺へ

こちらでも、資料を説明しお渡し、雑談で家紋の話やお寺の旅行予定で逸見神社を企画していることの情報提供をさせていただきました。

とにかく、疲れました。

どこのPAだったか忘れましたがニラレバ定食がとても美味しかったのがすごく印象に残ってます。

だいぶ間が空いてしまいましたが

その間、5月の連休に北杜市の逸見神社と清光寺、御坊市の道成寺へ行ってきました。その時のことはまた後日。

 

さて、脇差しのことについて、まとめておこうと思います

 

銘は「祐定」、長船で修業後倉敷辺りに住んで居た刀匠らしい

作者から作は1600年代前半

柄や鞘には、螺鈿の粉が撒いてあり、銅の上に金メッキを施した錨(イカリ)、千鳥、雨竜の象嵌が施してある

来歴を推定してみる

領地が毛利氏と幕府で分割され、本家を2つに別けていく際に、こちらは士族の身分を捨てる形となるため、贈られたものであると思われる。

この時期はまた毛利氏に仕えていたため、毛利氏の本拠地へ行くにはおそらく高梁川を下り倉敷から山陽道(西国街道)や瀬戸内の海路を使っていたとすれば、倉敷で作成を依頼することができる。

後に私の家が予備本家として創られた時の初代である逸見資義が、その証として渡されたか、所望したかは不明ではあるが、今に伝わることとなった。

そして、この脇差しは葬儀の時のお守り刀として使用されたため

ほぼ人目に触れず保管できたのかもしれない。

仮に本家にあった場合、保存はされてなかったかもしれない。

 

今回はここまで、次からはGWの甲斐、紀伊の旅について書いていきます。

備前長船刀剣美術館で所属されてりる研師の方を紹介してもらうために行ったのですが、ここで研師の凄さを知るとは思いませんでした。

 

事前に美術館へは連絡をいれており、受付では特別な入館証を渡され入りました。

 

ちょうど行った時は研師の方はまだ出てきていなかったので、ほかの作業場を見学しながら、少し自分の脇差しを見てもらい色々聞いて回っていました。

 

金工師と同じ部屋に金工師の方がいらっしゃったので、柄を外せないかとお願いしたところ、時間がかかったけどなんとか外せ、銘を見ることができました。

 

銘は「祐定」とあったけど、金工師の方が本物じゃないかも、でもいいものですねと言うことで、しょうがないかな~と思ってたところ、研師の方部屋に入られてきました。

 

研師の方に脇差しを見てもらったところ、本物の「祐定」で今の倉敷辺りで刀を打っていた人の作だとのこと

※うる覚えで名前は忘れた(笑)

 

自分も金工師の方も「え!」って感じでそこまでわかるのかびっくり、銘を見るだけでどこの誰かがすぐ出てくるのは凄いことだと思いましたよ。

 

なんか駄文になった(笑)、もうちょっとつづく