ショスタコーヴィッチの交響曲群に関しては、ごく近年なだけに分っていることが多く、なおかつ旧ソビエトの歴史と切っては切り離せないだけに、ウェキペディアなどを検索されるのが理解するうえでの最も近道だと考えます。

私が、この8番に関して感じるのは、第1楽章から3楽章まで形を変えては続く、言いようもない恐怖。それこそは、本来ショスタコーヴィッチが描こうとしたナチスや旧ソビエト共産党といった特定のものの枠を超え、人間の尊厳を容赦なく蹂躙するとてつもなく強大な悪であり、それがひたひたと忍び寄ってくる影にひたすら怯える己の姿を擬似的に感じとることができるのです。
今なお、紛争地帯で戦火に怯える方たちの心情とはまさにこのようなものかも知れません・・・あってはならないことだと思います。

第4楽章に描かれるのは一面に広がる焦土か・・・精神的に疲れ果て、途方に暮れて立ちすくんでは亡くなった仲間に鎮魂の涙を流しつつも、灰燼の中にからすくい上げようとするのは希望でありましょうか・・・ここで曲は留まることなく最終楽章へと移ります。

機会があれば聴いていただきたい曲です。



以前、スラットキン指揮N響のチャイコフスキーの素晴らしさについて走り書きしましたが、先日放送された1734回定期公演もロシアもので、しかも、あのド派手なタコ7でした。

スラットキンとN響の相性の良さはここでも十分に発揮されていて、これがいつものN響なのか、と疑ってしまうほど大きな演奏です。とはいっても、N響らしい精緻な組み立ても随所にちゃんと残っているのが本当に素晴らしい。

決して楽団をあおるだけのものではなく、N響の音を知り、さらにその音を遥か高いところまで昇華させる、スラットキンの指揮はそういう意味での質の高さを感じます。

この組み合わせで、ロシアもの以外の曲も聴いてみたいものです。

トルコ行進曲でお馴染の11番をアルフレッド・ブレンデルの演奏で聴きました。
もう10年以上も前のことになると思いますが、いい意味でも悪い意味でも、やたらとブレンデルがもてはやされたことがありました。
評論家の評価がやたらと分れるのです。

当時、自分の中に判断基軸をもっていなかった私は、そのまま通りすぎるしかありませんでした。
今回、あらためてアルフレッド・ブレンデルというピアニストについて、ぼんやりと自分なりに表現することができるようになったと思えましたので、揶揄されることを覚悟で記してみることにしました。

まず、ピアノソナタ11番を聴いて最初に気になったのは、音の長さが、他のどのピアニストとも異なり、定規で正確に測ったかのように、ミュートをかけて音をプツン・プツンと切るところでした。この音の長さが正しいかどうかは私には判断しかねるのですが、この演奏を聴いた人は、まず、ブレンデルという人のイメージを、ある種、研究者肌のような気難しさを持った人のように捕えるのではないでしょうか?
実際に、10年以上前に読んだ評論に「堅苦しくてつまらなかった」というような内容が書いてあったような記憶があります。

うーん、確かに堅苦しく聴こえるのは仕方ないにしても、それを「つまらない」と切って捨てるとは・・・きっと、その方の人生は「つまらない」ことで今後溢れてしまうことでしょう。
そう考えるのも、私自身がこの演奏を以下のように評するからです。
ブレンデル氏がミュートをかけて仕掛けた空隙には、音楽理論上の正否は別として、聴き手が想像力を膨らませる余裕があるように思えるのです。そして、それは聴く人に様々な聴き方を許容している懐の広い演奏だと言えるのです。
「つまらない」と感じることも、この演奏は許容するでしょう。
しかし、同時にそれは聴き手の想像力の限界をも丸裸にしてしまうのです。

私にとっては、ギーゼキングよりもバックハウスよりも気にいった演奏です。