トルコ行進曲でお馴染の11番をアルフレッド・ブレンデルの演奏で聴きました。
もう10年以上も前のことになると思いますが、いい意味でも悪い意味でも、やたらとブレンデルがもてはやされたことがありました。
評論家の評価がやたらと分れるのです。
当時、自分の中に判断基軸をもっていなかった私は、そのまま通りすぎるしかありませんでした。
今回、あらためてアルフレッド・ブレンデルというピアニストについて、ぼんやりと自分なりに表現することができるようになったと思えましたので、揶揄されることを覚悟で記してみることにしました。
まず、ピアノソナタ11番を聴いて最初に気になったのは、音の長さが、他のどのピアニストとも異なり、定規で正確に測ったかのように、ミュートをかけて音をプツン・プツンと切るところでした。この音の長さが正しいかどうかは私には判断しかねるのですが、この演奏を聴いた人は、まず、ブレンデルという人のイメージを、ある種、研究者肌のような気難しさを持った人のように捕えるのではないでしょうか?
実際に、10年以上前に読んだ評論に「堅苦しくてつまらなかった」というような内容が書いてあったような記憶があります。
うーん、確かに堅苦しく聴こえるのは仕方ないにしても、それを「つまらない」と切って捨てるとは・・・きっと、その方の人生は「つまらない」ことで今後溢れてしまうことでしょう。
そう考えるのも、私自身がこの演奏を以下のように評するからです。
ブレンデル氏がミュートをかけて仕掛けた空隙には、音楽理論上の正否は別として、聴き手が想像力を膨らませる余裕があるように思えるのです。そして、それは聴く人に様々な聴き方を許容している懐の広い演奏だと言えるのです。
「つまらない」と感じることも、この演奏は許容するでしょう。
しかし、同時にそれは聴き手の想像力の限界をも丸裸にしてしまうのです。
私にとっては、ギーゼキングよりもバックハウスよりも気にいった演奏です。
もう10年以上も前のことになると思いますが、いい意味でも悪い意味でも、やたらとブレンデルがもてはやされたことがありました。
評論家の評価がやたらと分れるのです。
当時、自分の中に判断基軸をもっていなかった私は、そのまま通りすぎるしかありませんでした。
今回、あらためてアルフレッド・ブレンデルというピアニストについて、ぼんやりと自分なりに表現することができるようになったと思えましたので、揶揄されることを覚悟で記してみることにしました。
まず、ピアノソナタ11番を聴いて最初に気になったのは、音の長さが、他のどのピアニストとも異なり、定規で正確に測ったかのように、ミュートをかけて音をプツン・プツンと切るところでした。この音の長さが正しいかどうかは私には判断しかねるのですが、この演奏を聴いた人は、まず、ブレンデルという人のイメージを、ある種、研究者肌のような気難しさを持った人のように捕えるのではないでしょうか?
実際に、10年以上前に読んだ評論に「堅苦しくてつまらなかった」というような内容が書いてあったような記憶があります。
うーん、確かに堅苦しく聴こえるのは仕方ないにしても、それを「つまらない」と切って捨てるとは・・・きっと、その方の人生は「つまらない」ことで今後溢れてしまうことでしょう。
そう考えるのも、私自身がこの演奏を以下のように評するからです。
ブレンデル氏がミュートをかけて仕掛けた空隙には、音楽理論上の正否は別として、聴き手が想像力を膨らませる余裕があるように思えるのです。そして、それは聴く人に様々な聴き方を許容している懐の広い演奏だと言えるのです。
「つまらない」と感じることも、この演奏は許容するでしょう。
しかし、同時にそれは聴き手の想像力の限界をも丸裸にしてしまうのです。
私にとっては、ギーゼキングよりもバックハウスよりも気にいった演奏です。