先日、ロッシーニの序曲集を聴きました。アバド指揮ヨーロッパ室内管によるもので、いずれもオペラへの期待感高まる曲ばかりでしたが、アバドの指揮は、まあいつもの通り、巷間で「温度の低い」「血が通ってない」と言われるいつものアバドでした。
確かに巷間の意見は外れてはいないと思いますが、しかし、アバドの指揮には、彼なりの良さがあります。楽器の一つ一つの音のおいしいところを精一杯引き出すため、残響音を残りにくくしたり、弱音はそのままに打楽器の強音を抑え目にしたり、ミュートを効かせて固めの音にしたりと、隅々にまで気を配って組み立て直しています。
こうして仕上がった音はまるで贅肉をそぎ落としたギリシャ彫刻のようです。確かな造形美ゆえ抒情性には欠けていますが、それが指揮者の熱というものを覆い隠してしまうのかも知れませんね。
ピアニストのポリーニと相通じるものを感じます。
しかしながら、このアバドらしさは、

1989年録音のブラームスの交響曲第2番に小川の照り返しのような流れのある美しさをもたらしますし、 1993年録音のマーラー交響曲第5番の切れ味にも見事にいきているのです。

14番の面白い点は、第一楽章から始まって、帰結へと向かって楽章を展開していくのではなく、各楽章が有機的に結びつき 、時間的には横の流れを持ちつつも、 一楽章から七楽章までが空間的に縦方向に連なって、互いに折り重なっているところです。

それはまるで、瞬間瞬間で変化し続ける魂の移ろいを、ベートーヴェンは7つの精神世界にたて分けたかのようで、ラサール四重奏団が、演奏で実現しようとしたことを、ベートーヴェンは2次元空間の上に既に構築していたということではないでしょうか。




久しぶりに弦楽四重奏曲を聴いております。
振り返ってみれば、この一年間ほどピアノ曲ばかり聴いていました。
しかし、こうして久しぶりに聴いてみると、やはり弦楽四重奏の魅力はつきることがありません。

今回はバリリ四重奏団のものを聴いていますが、14番のような後期の作品にはバリリの演奏は厳しさに欠けるような意見が見受けられますし、私もかつてはバリリは12番までというような線引きをして聴いていたこともあります。
しかし、改めて聴いてみると、煌びやかなの装束をまとったかのような音があってこそ映える表現というものもあることに気付きました。
特に、この14番などは、その最たるものだと思われます。
出だしの不安定な3つの音を聴いた瞬間、真っ暗な空間に放り出されたかのような浮遊感に続いて徐々に寂寥感が芽生えて来、やがて浮遊する魂は精神の奥底へと沈んでいきますが、バリリの音は華やかであるが故に、こうした中で、ふと狂気じみて聞こえることがあるのです。
追い詰められた精神がたまに顔をのぞかせる瞬間には思わず背筋がゾクッとします。

そういう意味においては、ラサール四重奏団による演奏も気に入っています。
純音楽的というよりは、全ての演奏者がお互いに競い合うようにして弾くことで、あちこちで葛藤や協調が生じる、正に精神性をそのまま写し取ったかのような3次元的な演奏であり、絵画のキュビズムの精神に通じるものかもしれません。

こうした精神性の表現は芸術の一つのあり方であり、好き嫌いがあって当然だと思います。
しかし、今の私にとってバリリの後期四重奏曲群は、「意外といける」ものなのです。