※ 特別機動捜査隊 まえがき

捜査担当班の詳細については、wiki特捜隊-キャストを参照、また、(本放送)とはNETでの放送、(再放送)とは東映chでの放送を指します。出演者については配役名を略していますが、本文で書くこともあります。なお、出演者をもっと知りたいときは、リスト特捜隊で検索。

また、(出演者)は、エンディングで、一列~三列で表示された男優・女優に限定しました。

1963年公開の、映画版・特別機動捜査隊全2作とは趣が異なることに注意。

 

☆・・・#683  拝啓沖田総司さま

 

 

 

(本放送)・・・1974年12月4日

(再放送)・・・2019年7月4日

(脚本)・・・西沢治

(監督)・・・島崎喜美男

協力)・・・無し

(協賛)・・・無し

(捜査担当・オープニング表記)・・・矢崎班

谷山部長刑事(和崎俊哉)、田中係長(山田禅二)、岩下刑事(岩下健)、

保田刑事(船水進)、桂刑事(佐竹一男)、田坂刑事(倉石功)、

矢崎主任(亀石征一郎)

 

(出演者)・・・

須藤リカ、石丸博也、そかべなおみ、今村昭信、椎谷建治、吉田多永子、

金井真喜子、滝めぐみ、力石民穂、吉沢信子、木村修、菅沼赫、片山滉、

簡野典子、細川俊夫

 

 

(あらすじ・予告篇から)

・・・ ※当時のナレーションをそのまま聞き写しています。

 

沖田総司は私を助けてくれたんです・・・、

決して人殺しなんかではありません!!

ふせ建司殺人事件の、唯一の目撃者、江川ナオミ!

彼女は貝のように口を閉じ、その真相を語ろうとしない・・・。

吐血の中、命の限りを見、

大義のため己(オノレ)を全うした男、沖田総司。

憧れが、夢が、現実となって現われる。

だが、その裏に、恐るべき罠が待ち受けていたのであった!

次回、特捜隊、「拝啓沖田総司さま」、御期待ください。

 

 

(備考)・・・

・江川ナオミを演じた須藤リカは、後年、ウイークエンダーのリポーター・すどうかづみとして活躍。wikiは項目が少ないので、ブログ・暇人吉之助清話-ワセスポ、昭和、世相、時事-(2007年9月10日)に詳しい。

・サングラス男を演じた石丸博也は、後年、ジャッキー・チェン吹替の声優として著名。

・かつて、#506 銭に生きる女 で三船班・荒木部長刑事を演じた細川俊夫が、江川ナオミの父を演じている。

・エンディング表記で、平松=そかべなおみ、トシエ=長谷川誠とあるが、双方とも誤植の可能性が高いので、以下本文では未詳として表記する。

・沖田総司の墓は実在するが、劇中のときのような墓参は、現在では一切禁止されている。

・新選組に関連するものとして、亀石征一郎はテレビ版「燃えよ剣」(1970年、NET)で七里研之助を、和崎俊哉は映画版「燃えよ剣」(1966年、松竹)で近藤勇を、それぞれ演じている。

・下記本文の「面黒い」とは、「面白い」を若者風に表現した言葉と考えた方がわかりやすい。

・沖田総司は、本来は「そうじ」であるが、当作では「そうし」と発声される。同局で放送された「新選組血風録」(1965年)、「俺は用心棒」(1967年)、「燃えよ剣」(1970年)で沖田総司を演じた男優・島田順司の読みが「しまだ じゅんし」であり、「そうじ」より「そうし」のほうが読みが良いと評価・採用されたことで、以後の新選組関連作品では「そうし」と読まれることが多い(テレビ映画「新選組血風録」の世界・黒須洋子著、2000年10月1日発行参照)。

 

 

(視聴録)

・・・開始約19分過ぎまで

 

江川ナオミ(須藤リカ)は六本木の菱倉商事に勤め、幕末に活躍した新選組・沖田総司に憧れるOLである。これには母(簡野典子)もあきれ顔だが、そんなナオミに矢崎班・谷山、岩下が訪れる。自宅近くで、ふせ建司(椎谷建治)の刺殺死体が発見され、傍にナオミの定期券が落ちていたからである。しかし、ナオミからは事件とは無関係で、帰路に死体は見なかったと言われ、母からはナオミが午後9時ごろ帰宅したことを聞き出すことしかできず、引き上げるしかなかった。その江川家では警察の来訪に、父(細川俊夫)は会社の持ち帰り仕事で、兄・高弘(今村昭信)は男ながら編み物で、共に忙しくナオミに何が起こったかも無関心であった。

 

翌日、特捜隊本部では、矢崎主任、田中係長、谷山が事件について、死亡時刻は午後9時ごろ、ナイフを握ったまま刺殺されたこと、凶器は別のナイフ、とまとめていた。さらに、田坂、桂から、ふせは現場から500mのアパート・風月荘に、バーテン・もり欽一(力石民穂)と一緒に住んでおり、ふせはパチンコプロで生活を凌いでいた報告を受ける。そして、パチンコ店・女店員(未詳)を聞きこむと、いつも閉店まで粘るのに昨晩は午後8時に帰ったという。そして、帰り際に「何か面黒いことはないか」と話したことを聞き出すと、田坂は「面黒い」の意味がわからないようであったが、桂から若者の性・暴力に関する独特の形容詞だとレクチャーを受ける。

 

その後、矢崎主任、谷山、岩下、保田は、目撃情報で、江川家近隣の川島畳店の娘・トシエ(未詳)を訪ねる。トシエは、昨晩の午後9時過ぎ、男に門前まで送られてきたナオミを目撃、ナオミは男を沖田総司と呼び、男が何かを起こしたことを慰めていたようすだったという。そして、男の顔はわからないが、若くてパリッとした会社員風だと証言した。

 

これらから谷山は、ナオミが沖田総司と名乗る(あるいは綽名の)男と歩いていると、ナオミがふせからちょっかいをかけられ、男がふせと争った挙句の「喧嘩殺人」であると見立る。それに則り、矢崎主任、谷山、岩下は菱倉商事を訪れ、ナオミの上司(片山滉)に聞きこむ。沖田総司という綽名の社員はいないが、近所の沖田総司の墓によく女子社員は墓参する情報を得て、その墓に向かう。

墓参の女子社員3人(吉田多永子?、金井真喜子?、滝めぐみ?)から、宣伝部の平松ひでお(未詳)はナオミに沖田総司みたいと呼ばれ、剣道をたしなみ、「いつかこの日本刀を引っさげて、国のため働くときが来るかもしれない」と話していたことを聞き出す。その平松は本日欠勤、さらに田坂、桂からはふせが一時期暴力団に籍を置いていた噂がある報告を受ける。そこで矢崎主任は谷山と平松を聞きこみ、田坂、岩下には再度ナオミを聞きこみ、桂、保田にはふせの噂を再追跡するよう方針を固める。

その最中、ナオミも沖田総司の墓参に訪れていたが、それを陰から見つめているサングラス男(石丸博也)には気づいていないようだった・・・。

 

 

当作は、事件としては単純なものであり、真相追及・犯人探しという点でも、目新しいものはありません。それでは何がテーマになっているかといえば、「偶像破壊」という点でしょう。

劇中で、

・谷山の「若い娘の、若くして死んだスターへの甘い感傷」という発言、

・矢崎主任の「女の子も年頃になると、センチメンタルな幻想で理想の男性を追い求めるようになる」という発言、

そして「つくられた虚像に夢中になる」ことで、どのような結果がもたらされるのか、これを描いたのが当作といえるでしょう。

 

ですので、当作は刑事ドラマの側面よりも、人間、それも年頃の女性のドラマと位置づけられます。放送されたのは1974年、これまでの特捜隊では「過激派に身を投じる若者」を描き、中には礼賛気味の作品も有りました。しかし、数々の左翼運動での暴走事件が勃発、特に放送前の1974年8月30日の三菱重工爆破事件 では、8人死亡、400人近い重軽傷者が出ました。劇中で、女子社員が

>反体制を謳って、爆弾騒ぎを起こして、他人に迷惑をかける今のヤング

を非難して、

>滅びゆく体制のために戦って死んだ

沖田総司を称えるのは、この点を比喩したものだと解釈できます。

そして、こういった見方を女性から語らせることで、反体制活動はひとりよがりに過ぎず、世間一般の目から見たらどうか? ここいらへんを強調しているようです。

 

しかし、そういった見方も、目が曇っていたらどうしようもありません。人を見る目が無ければ、(幕末で例えると)沖田総司だろうと、坂本龍馬だろうと、吉田松陰だろうと、憧れの対象として掲げることはできないと考えます。

当作では、ナオミが、沖田総司を崇拝するあまり、ひとりの男、またひとりの男と目線が変わっていくわけですが、その結果がどういったものであったか? それをラストの競艇場(註・東映東京撮影所の利便から、たぶん戸田競艇場)での2分間、ナオミ、岩下、矢崎主任、田坂の場面に凝縮されていて、見応えはあります。矢崎主任のいうように「はしか」で終わればいいのですが、「トラウマ」になりはしないか、こう考えてしまうラストではあります。

 

監督の島崎喜美男は、特捜隊は初演出で、プレイガールでの演出を数多くこなしていたことが印象に残ります。そこでのコミカルな演出を当作でも用い、音楽もそことなく「悪ふざけ」を感じさせて、刑事ドラマという枠にこだわることなく、ストーリーを展開させています。特に、谷山演じる和崎俊哉の笑いをとる演技は、初めて観賞したこともあり新鮮に感じられます。テレビドラマデータベースによると、島崎喜美男監督は当作以後も特捜隊の演出には関わるようで、第一作としては無難な船出をしたようであります。

 

(追加)

劇中で、ナオミが読んだ新選組書籍で「新選組始末記」(子母澤寛)、「燃えよ剣」(司馬遼太郎)と紹介されます。個人的な思いですが、読んだ方ならお分かりの通り、双方とも新選組の見方(史観)については異なります。さらには、wikiにもありますが、沖田総司についても同様です。本当にナオミが2書とも読んでいたら、当作のように沖田総司に傾倒することも無いだろうにと感じたのですが。。。