今日も朝早くに目が覚めました。
同じ時間に地震が起きるはずもないのに5時46分を指す時計を見つめてしまいます。
あの日、子供達と一緒に寝ていた私の耳にそれまでに聞いたことがない音が迫ってきました。
地面の奥底の方から湧き上がってくるような”ゴゴゴゴ・・・”というような音。
なに?とぼんやり起きかけた時に激しい揺れが襲いました。
家が丸ごとミキサーになったのかと思うような縦揺れだったと記憶しています。
家のあちらこちらから、何かがぶつかる音やガラスが割れる音が聞こえました。
とにかく、怖くてまだ赤ちゃんだった末っ子君を抱きしめて、なっちゃんと長男君をかき集めて一緒に震えていました。
何が起きたのか、しばらくわかりませんでした。
ふと窓を見ると、そこにあるはずの隣の家の屋根が無い・・・?
そこで初めてスッと血の気が引きました。
それでもなお、何が起きたのかは把握できませんでした。
30年も経つのに、あの日の風の匂いや空の色を忘れることができません。
お隣の家は全壊でした。
子供達を可愛がってくれていたおばさんが亡くなりました。
少し北側の通りは火事になり、火の粉が家の方まで飛んできました。
あちらこちらで家が崩れて、道には瓦礫が溢れていました。
目の前にあることが現実なのに、夢をみているようでした。
たぶん、恐怖がキャパを越えてしまってそれ以上感じられなくなっていたのでしょう。
地震があった次の日の朝、近所のおじさんが家の前で七厘にお湯を沸かしてくれていました。
「飲んでいき」といれてくれたインスタントコーヒーの美味しかったこと。。。。
地震後、初めて飲んだ温かい飲み物でした。
”無我夢中”というのはあの頃のことを言うのでしょうね。
とにかく、子供達を守るために必死でした。
地震の前の年に新しく建て替えた家が無事だったことが幸いでした。
前の古い家だったら・・・家族全員、助かっていなかったことでしょう。
毎年、この日しかクローズアップしないメディアに腹を立てていました。
思い出したように当時の特集を組むテレビが嫌いでした。
それでも、やっぱり、体験した人間としてはこの日は忘れがたい日なのです。
私はたまたま生かされたと思っています。
たくさんの人が亡くなった日に生き残った私達です。
毎年、手を合わせて祈ります。
「おかえり」
誰にともなく空に向かって呟きます。
生き残った私達はあの日お星様になったたくさんの人達に恥ずかしくない生き方ができていますか。
毎年、自問自答しています。
”30年”が節目の年だと言う人がいます。
区切りをつけたい気持ちもわからなくはないです。
でも、私は40年経っても、50年経っても、私が生きている限り、この日は空に向かって手を合わすことでしょう。
1.17という日。
忘れない日。
忘れられない日。
忘れたらいけない日。
そして、伝えていく日。
いろんな想いが渦巻く日でもあります。
2025年1月25日(土)12時~物が無くなるまで(すぐに無くなりそうですが)
東中道公園でのフードパントリーです。
月に一度ではありますが、
いつもの笑顔に会えることを私達も楽しみにしています。
なかなか、ゆっくりとお話ができる状況ではありませんが
「こどもワクワク食堂」はみんなの居場所として活動を続けています。
相談事などありましたら、遠慮なく個人的にご連絡をください。
私の力は微々たるものですが、あらゆるところに連絡を取りまくって対処方法を探します。
自転車で走れる範囲ならばお米を積んで駆けつけますからねっ!!
ダイジョウブ!! 何とかなるから。何とかするから。一人で抱え込まないでくださいよ!
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