先日、仲良しの住職さんとお話しをしていた時のこと。
結構、ぶっちゃけで色んなことをお話しできてとても楽しかったです。
その中で自然と宗教の話題になったのですが。
私のベースはキリスト教です。
そんなに熱心な信者でもなく、亡き両親が嘆きそうなくらいに教会からは遠ざかっておりますが。
未だに聖書は大好きですし、ふと口から出る祈りはカトリックのそれです。
間違いなく私の根底にはキリスト教の教えが流れています。
嫁いだ先が真言宗ですので、お仏壇のお世話は私がしています。(その方法が正しいかどうかは確認のしようがありませんが、お寺さんに何も言われていないので何とかなっているのかと💦)
宗教は違いますが、ご先祖様を大切に思う気持ちは同じだと思っているので何の抵抗もなく数珠を持って般若心経を唱えるカトリック信者です(笑)
外に出ると神社大好き人間なので(!)普通に柏手を打ってお参りします。
実家はカトリックに改宗する前は神道の家だったそうで、たぶんそのDNAが馴染んでいるのだと思われます。
「こんなファジーな宗教心の私です」と住職さんに宣言したところ、「いいと思います!」と意外にも同意していただけました(笑)
祀る方法や祈る作法などが違うだけで、一番大切な部分は同じだから。
逆に、子供の頃からしっかりとキリスト教の教えを刷り込まれていたからこそ、仏教も神道も違和感なく受け入れることができたのではと思っています。
実家の父は教会に足しげく通う熱心な信者でしたが、晩年は仏教の勉強をしていました。
なぜ仏教だったのかの理由を聞く前に天国に逝ってしまいましたので真相はわかりません。
でも、亡き父も「根底は一緒」と感じて学んでいたのではと推測します。
子供達が通っていたのはカトリックの幼稚園でした。
同じクラスに何人かお寺さんの子供さんがおられたのが印象的でした。
いつだったか、「お寺さんなのに、なぜこの幼稚園?」とパパさんである住職さんに尋ねたことがありました。
住職さんはニッコリ笑って「祈る心は同じですから。幼稚園で過ごす時間の中に仏教とは違っていても祈る時間がある環境を選びました」とおっしゃっていたことを思い出します。
世の中には様々な宗教が存在します。
もちろん、怪しげなことを布教している人達もいるのですが。
大方の”宗教”と言われる教えは誰かの心の支えになるものだと私は理解しています。
嬉しい時は感謝して、困った時にはそこにすがって。
自分の気持ちの拠り所になっていたら、それは十分に”信仰心”と言えるのではないでしょうか。
そこに祈り方や祀り方や拝み方が違っているだけで、手を合わす先にある気持ちは同じだと思います。
そんなことをお寺の住職さんと語り合った時間はとても楽しかったです。
何十年も前にバチカンに行った時、大聖堂の中で不思議に涙が溢れました。
「ワタシ、ホントに信者だったんだ」と自覚したのがその時でした(笑)
時を経て、お寺で声明を初めて聴いた時・・・グレゴリオ聖歌に通じる波動を感じて感激してまた涙が溢れました。
昔、昔からたくさんの人達が伝えてきた想いが今も変わらずここにあることに感動しました。
神様も仏様も色んな姿で私達のそばにおられるように思えます。
偶然ではありますが、その神様も仏様も知る機会を頂けて光栄です。
熱心な信者さん達からはお叱りを受けそうですが、私はそれぞれの宗教から学ぶことを大切に受け取っていきたいです。






















