巫(かんなぎ)紗妃です。
ただいまオキナガタラシヒメ(神功皇后。以下「姫神」)のレッスンを連載中です。
前回の記事
ときどき、自分でも思います。
なんでオキナガタラシヒメの力を
借りているんだっけ?
渦中にいると一体どこに向かっているのか、わからなくなってくるんですよねえ。
でも、山を登っているときに山頂の景色はわからないのと同じように、神さまの後押しの「意味」もまた、自分でたどり着いて初めてわかるもの。
タフな時間が続いていたとしても、神さまの追い風を受けながら足を運び続ける限り、いつか必ず「そこ」にきます。
そもそも、「その景色を見たいのは私」であることを忘れないようにしないと、だなあ…。
(でも、忘れてもまた戻ってくるから大丈夫でもあったりする)
ふと「奉仕する役目を終える」という言葉が降りてきました。
続いて、「自分としての主導権を握る」とも。
奉仕は「人の役に立つこと」と言い換えても差し支えありません。
人の役に立つことは「いいこと」だけど、問題はその動機。
私の場合は、過去のあるできごとで抱いた無力感から、人の役に立つことで代償するというパターンに陥っていました。
「できない自分」という自己評価、ひいては「自分の存在価値」としていたのが原因だったんですね。
「過去のできごと」なのに、そのときの気持ちが消化しきれず「今」にも反映している意識・行動パターンは、沢山あるんだよなあああ…!
気づいたら、その無力感を引き受けるしかありません。
そこにも恐怖心が出てきます。
でも、ここで引っかかっては先に進めません。
本当にそれだけ?そこに希望は見えない?
そう自分に問いかけてみると、恐れの奥に潜んでいたものも見えてきました。
何も差し出さなくてもいい安堵感が少し。
自分にスナオに従える予感と喜びが少し。
これまで回避できていた無力感を引き受ける辛さは、意識・行動パターンを刷新するコスト!
そんな捉え方から、「今の自分なら無力感を解放できるのでは」という高揚感も少し出てきました。
どれも少しずつ、です。
今はまだ喜びよりも恐れが勝る状態。
でも、その「少し」が意外と侮れません。
それを足がかりにして、次へと突き進むと突破口が見えてくるのは、いつものこと。
もしかすると、女性は誰かの「妻」で、「母」で、あるいは「娘」でいることで、自分を犠牲にしたり、諦めていることが多いのかもしれません。
社会的な地位や立場、世間体や固定観念もあるのかも…
(私は「娘」の方かな…)
でも、そこに囚われなくなったとき、広がる道があることをオキナガタラシヒメは力強く、教えてくれているような気がします。
確かに、その役目を持ちながらも、自分としての主導権を握ることは両立できるんだよね。
ただ、「既に知っている・慣れているパターン」からはみ出るのが怖いだけだったりして。
「自分」としての矜持、誇りを取り戻すこと、ひいては自尊心を高めることが現状打破のカギであり、それをオキナガタラシヒメは後押しで鼓舞してくれるんですよねえ。
進むのは自分。
だけど、決して独りじゃない。独りにしない。
姫神さまの後押しは、過去の鎖を解き放ち、自分を犠牲にして役目を担うパターンから卒業するきっかけを作ってくれます。
それに「できない自分」から自分の選択も自分も諦めて、誰かに肩代わりしてもらうより、自分で自由に動いたほうが人生はきっと楽しい!
その解放感はまた、本来の「力ある自分」の役目と出会う扉にもなるはずです。
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