巫(かんなぎ)紗妃です。
遅々として進まぬ、神功皇后ことオキナガタラシヒメのメッセージの課題。
進んではいる。
でも、肝心なところに目を向けられていないような?
長らく悶々としていたところ、昨日は素の自分で記事を書けたおかげで、やっとスナオな自分の気持ちが出てきました。
誰かに守られていたい。
なるほど、私は本当は「誰かに守られている自分」でいたかったのです。
道理で、「女性としての自立」どころか、自分の女性性から目を背けるわけです。
だって、正しく活かせるようになれば守ってもらえなくなるからです。
判明してもなお、向き合うことから回避しようとする自分がいました。
ふと、幼い頃に父親から頭を叩かれたときのことを思い出します。
子供用の動く遊具に乗っていました。
確か、そのとき私は立っていて、急に止まったので、一回転して落ちたのです。
途中の記憶は途切れていて、次に覚えているのは母親のママの泣きそうな顔。
それを見た私は、なぜか「ママの顔なんか見たくない!」と言い、そのときに頭を叩かれたのです。
叩かれたこと自体は、「そりゃあそうだろう」と思います。
心配してくれていたのに、なんでそんなことが出てくるんだと、当時の自分ですら思ったのです。
もともと、気持ちを伝えるのが苦手でした。
私の一言は、そんな私の精一杯の甘えだったのかもしれません。
でも、怖かった気持ちよりも、そう言ってしまった罪悪感のほうを覚えていて、今なお引きずっていました。
私は「ココロを守ってほしかった」のだと思います。
それにしても、コドモってときどき残酷です。
その罪悪感を自分で引き受けられず、甘えて「守られる」ことで、許されようとしてきたのです。
それは、「コドモでいることで自立を回避する」という、行動規範でもありました。
幼い頃の罪悪感は「守ってもらえる・肩代わりしてもらえる」という甘えを取り返すための隠れ蓑。
かつてはコドモでいる方が「ラクで安全」でもありました。
その規範が、オトナになった今、女性としての自立を阻んでいるのです。
理解すると、「女性性の受容」も「自立」も、とても遠い距離にあるように感じます。
前途多難だ…。
でも、私はオトナなのです。さすがに四十路で「コドモでいる」のはムリがありすぎます。
先ほど、その罪悪感を引き受けると決めました。
甘えを取り返すこだわりを手放す恐怖心に、甘えられない無力感、自分で引き受ける苦痛など、身体的にもさまざまな反応が出てきます。
それでも、気づいたからには自分への誠実さを「コドモの規範」に明け渡すわけにはいきません。
気持ちに寄り添いつつも「ムリなもんはムリ!不可なもんは不可!」と自分に言い聞かせながら、今夜も溜めてきた「エネルギー負債」を返すことにします。
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