巫(かんなぎ)の林 紗妃です。
私が食いしん坊であるせいか、イナリヒメは「自分の中にある豊かさ」を「食」で教えてくれました。
それだけでなく、自由奔放さを解放してもくれたのでした。
たとえば、お肉とお魚があれば、私は「今日はお肉にしよう」と一方を選ぶのに、イナリヒメは「どちらも選ぶ」のです。
「同時に選んではいけない」なんて、誰が決めました?
戸惑う私に、しれっとイナリヒメは言います。
そこで初めて、私は「どちらか一方しか選べない・選んではいけない」という観念に気づいたんですね。
また、その事実にすごくショックでした。
それは自分の生活の至る所、生き方の隅々まで規範として適用されてもいました。
「自分には贅沢だ」とか「してもいけない」と決めつけて「その選択肢があること」もいつしか忘れていたのです。
それができない場合があるにせよ、最初から「なかったことにする」のとは違います。
それに、イナリヒメは冷蔵庫に食材があっても「アレがない。コレが欲しい」と、まるで遠慮することがありません。
そんなわけで、ある日の夜も普段は食べないカップ麺をすすっていました。
「いったい、私は何しているんだろう?」
そんなギモンにもイナリヒメはどこ吹く風、ただただ自分の要望が通ったことを喜んでいます。
そういえば神さま、意外とジャンクフードがお好きなのでした。
以前もマクドナルドのポテトやらナゲットやらを買いに走ったっけ・・・。
しまいに昨日は、スーパーに行くはずだったのが、予定を放り出して行きつけのバーで過ごしていました。
日付を過ぎる頃に24時間オープンのスーパーに立ち寄り、買ったのは袋麺。
夜中2時過ぎのラーメン、背徳感がハンパない・・・!
でも、よくよく考えてみると「与えられた条件だけでなく、本当に欲しいものを常に自分で選んでいける」ことを教わったような気がします。
まるで「用意されているもの【だけ】で満足しなくていい」と、言わんばかりに。
そして、イナリヒメの奔放さは、私のありようでもありました。
どうやら、私は自分が自由奔放に生きることを許していなかったようです。
参拝に行ったとき、私のありようを見たイナリヒメがそれに気づかないはずはなありません。
確かに「必要な用事」より「遊び」を優先したときに出てきた抵抗感は、なかなかに凄まじいものがありました。
それだけ私は普段から自分の「したいこと」よりも、「必要なこと・役立つもの」を優先させていたのでしょう。
それでも実行した結果、罪悪感をおぼえることはなく、むしろ清々しいと思える自分がいました。
エネルギーの循環もいつも以上によくて、疲れない。
パターンブレイクだな、と思いました。
それでブレイクスルーしていける。
ところで今日は満月です。
流れもどんどん開いていく。
いつも通りがつまらなく思えて、こんなオトナの時間を過ごしています。
イナリヒメといっしょに、いい満月の夜です。
~イナリヒメの神さまメッセージのご案内です~
あなたが欲しいモノはなんですか?
上げたい運気はありますか?
恋愛、仕事、お金、人間関係、地位や名誉。
本当に、なんでもいいのです。
本気で「欲しい」と思ったら、それは叶えられます。
だって、それはアナタだけが持つ「豊かさの価値」だから。
アナタの流れに入ってくる豊かさは、自分だけのモノじゃなく、社会や世界にも喜びや幸せをもたらすものであるはずなのです。
それを「欲しい」と思うのは、罪深い?
いいえ、そんなことはありません。
まったき欲望があるのは、人として当然のことです。
その純粋な気持ちに従うからこそ、喜びが生まれ、世界の豊かさを味わうことができるのです。
その想いを無効化するのは、なぜですか?
その想いを無価値とするのは、誰によって決められたのですか?
芸術に秀でている者は、そこに価値を見出しすでしょう。
遠い異国の文化に価値を見出そうとするなら、この国の文化との違いにもまた価値を生み出せるはずです。
自分の感性をこそ信じる者のみが、真の豊かさに目覚めていけます。
あなたは幼い頃、自分の欲しいものを疑うことなく、誰に引け目を感じることなく、曇りなき眼で手を伸ばしたではありませんか。
どうして今になっても、それができないでいられましょうか。
大人になった今だからこそ、手を伸ばしたら届いて、その先へと行けるはずなのです。
諦めに身をやつすなら、それもいいでしょう。
でも妥協なき欲に気づき、その欲望と共に願いを叶えようと一歩踏み出す者たちをこそ、私は歩みを支えましょう。
なくならない欲望こそ、あなたの一番の願いのはずです。
なくしたら、生きていけないはずなのです。
なぜならそこにこそ、あなたの感性の拠り所があり、叶えたい夢があるからです。
何度でも、いくつでも、叶えていけばいいではありませんか。
それは欲ばりでも、「自己チュー」でもありません。
愛と平和をこそ生み出し、そしてこの世の中の「喜びの総量」を増やしていけることなのです。