グランドクロス②~浜岡きみ子先生~ | サイレントルーツの実

サイレントルーツの実

先住民文化と歩く毎日のつれづれ。
食・子育て・自然農・鉱物や菌類。癒し。語りべ。
民族楽器とともに語る昔話への道・先住民の方々との日々。
淡路島移住生活・母子疎開支援

グランドクロス2日目。
浜岡先生と会いました。御年94歳の、淡路島の民話、第一人者。
足が腫れていようとなんのその。(腫れていたのは左足首。なので車は運転できる)

この浜岡先生に会うまで5年かかりました。
はじめて淡路島に来た時に民話をしている人がいないかと土地の人
に聞いて浜岡先生の名前を知り。
浜岡先生の知りあいはいないか、

文献はないか、テープやビデオは残っていないか、恥もかなぐり捨
てて聞きまくりました。

先生の、市の広報に載せていた資料を集めて持っていた人に偶然出
会い。
「いつか必要とする人が来るだろうと集めていたんや。必要

だと言ってくれたんはあんたがはじめてや」と快く貸してくださっ
た、一宮の井上さん、先生の家まで教えてくれた井出里山の細川さ
ん、その他にもたくさんの方が助けてくれて、この出会いは実現しまし
た。

予想以上に凄い方だった。
詳しくはプライバシーがあるので書けないのですが、ちょっとだけ

出会って一分もたたなかったな、いきなり、「あんたは下手じゃ。
話してきかそうと思ってるやろ。それじゃああかん。子供は聞けへん。自分を捨てなかきゃあ、
あかん。まだ語り一年生じゃ」。
悩んでいたところを見抜かれました。
そこは言語治療教育家の川手鷹彦先生にも言われていたところ。
「かぁー君は下手だね」と味噌糞に毎回言われていたところでした


浜岡先生はただの話でも人を引き込みます。その存在で。すんごい
な、と思いました。
なんというのかな、目線や体の動き、表情、どれも見入ってしまう


「語りはな、最初、さぁ話しましょ、ではいかん。最初はな、子供
たちを見るのや。目線や息遣い、体の動き。そして、空を見て、た
ぬきがほーれ来とるなぁ、とか、やらな、あかん。引き込むんじゃ
あ。雰囲気づくりじゃな。子どもの心にどうしたら残るんか、いつ
も考えてなきゃ、あかん。どうやったら引き付けられるか全身でや
らなきゃああかん。」

同じことを川手先生も言っていました。浜岡先生は川手先生とは違った
方法で具体的だ。
浜岡先生は教員で毎日子供と接していたから子供の心により添えた
そうです。子供の心に寄り添えれば、大人はたやすい、とおっしゃっていました。
「毎日子供たちと接していないとわからんな」。
「そして民話は一軒一軒聞いてまわるんじゃあ。それでないとわか
らん」

これまた川手先生も同じこと言っていました。そして川手先生は障害児童の心の
ケアを、ほぼ毎日している人だ。(バリの僧侶でもあるけどね。外
国人で世界で唯一「ランダの舞」を許可され、舞っている人)

最近リハビリで理学療法の先生に言われたのだけれど、復職はでき
るが痛みは残るかもしれない、腰痛は出るだろうとのことでした。
腰の周りの筋肉、モモの筋肉up、腹筋、自転車こぎ、足をけっぱ
って戻す負荷を与えて鍛える器具、足首の可動性を増やす、歩き方
の練習と、ここはジムですか?のノリになってきている。ちょっと
動くと負担が全部腰に来る。
おぼろげながらに、もうヘルパーは無理かもと思ってきていました。

実は私は教員免許を持っています。中学美術科の。淡路島に来て教育委
員会に相談をしたら美術科はなかなか空きがないが登録だけしてお
きなさいと勧められつつも、ヘルパーに採用されてしまったので、
いまさらと登録しそびれていました。
だめもとで登録しておこう。

そして今住んでいる古民家の裏山は昔お乳の神様が祭ってあって村
の人たちの祈りの場所になっていて、この古民家は祈りに来た人を
接待していた家なのだそうなのです。
そこでこのお乳の神様のことを調べたり、大家さんに聞いてみたり
したけれどよくわからないのだそうだし、文献も見つかりませんでした。
後は80、90の高齢者に片っ端から聞くしかないのだけど、そん
な時間はないし、変人に思われたらこの地に住めないかな、と思っ
ていました。
が。ここ一年頑張ったおかげで村の人たちについ最近ようやっと我
が家は原発避難者なんですよ、と話すこともできるようになって、
いろいろできる時期が来た感があります。

尋ねてみようと思いました。一軒一軒。
今残さなかったら永遠に失われてしまう。私はそれを残したい、子
供たちに伝えたい。

また、浜岡先生から浜岡先生の民話をしてもよいと許可をもらいました
。つまり浜岡先生を継ぐことになります。その重大さに身が引き締まりました。
私は本当は淡路島の人に継いで欲しい。けれど、そういう方がいないのです。

「あんたは語れる人になる。時間がかかるやろうが。私も語れるよ
うになるまでは時間がかかったぁ。」

「またおいで」浜岡先生は最後にそうおっしゃいました。

玄関を出た後、私を迎え入れてくれた娘さん・息子さん、行政から
大いに認められることもなく、浜岡先生が生涯をかけてやってきて
くださったことに心から感謝しました。

帰りの車の中でなぜか涙が出てきて号泣してしまいました。
なんで泣いてしまったのかわからないのです。
ただ、すべてがありがたかったのです。