昨夜につづき、ワクチンが開始された2021年2月にアップした記事の再掲になります。時間がたってやっと気がついてきたようですね。「反ワク」だとか言って「しりぞ(斥)け」、「陰謀論」扱いと同レベルに「事実無根」であるかのように「レッテル貼り」をしてきた人々も含めて、今まさに始まろうとしているレプリコンワクチンへとさらにエスカレートしようとしている状況下にあって、もはや軽んじることができなくなりつつありますね。最近では、およそ百年前に他界したオーストリア出身の神秘主義思想家ルドルフ・シュタイナー(1925年歿)の発していた警告「ワクチンは人の霊性を奪う」ということが、注目されるとともに、シュタイナー自体が注目されている感じが(シュタイナーを紹介した動画がよく観られていることなどから)しています。

 

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 日本でもいよいよ医療従事者から、新型コロナにたいするワクチンの施行が開始になりました。

 政府が購入を決定した新型コロナにたいするワクチンは、二社(アストラゼネカ社とファイザー社)とも作成法が、従来の鶏卵法と異なる遺伝子法だといいます。

 

 しかも、この遺伝子ワクチンは遺伝子自体の代謝経路がわかっていない上に、これまでサケや馬や犬や鶏などにしか施したことがなく、人間に施行するのは初めてであるため、生体内に入ってから何が起きるのかはまったく未知であるというのです。

 つまり、「人体実験」である点が、従来の『鶏卵法』すなわち鶏の卵の中で培養され、ほとんど無毒化ないし弱毒化された抗原を体内に植えつける方法と、今回のコロナウィルスワクチンに用いた『遺伝子法』との大きな違いになります。

 

 以下に紹介する医師の高橋徳先生のお話(インタビュアーはジャーナリストの堤未加さん)を聴くと、現場の医師(とくに開業医)からして、今回のコロナワクチンをインフルエンザワクチンの延長上としか考えていなくて、しかも政府からは、医療従事者へのメリット・デメリットの説明はなされていないそうです。このことがどんなに恐ろしいことか。よくわかります。これまで政府というのは、国民の生命の安全と幸せを第一に考え、公共機関としての仕事をするところだと思ってきた古い人間にとっては、今や利潤追求を第一とする企業と癒着することでますます公共性や無償性や使命といった質とは似ても似つかない性質へと変貌してしまっている変わり果てた姿に茫然自失するばかりでしょう。

 

【ここに、高橋 徳先生の動画が元記事のほうにはありましたが、現在は再生できなくなっています】

 

 やってみないとわからない……なんて、ふざけるな❗️と、怒る国民大衆、庶民の草の根パワーも戦後75年のあいだにいつしか弱体化させられてきたんでしょうか。何しろ従来の鶏卵法が、ニワトリの卵を培養の場として、何ヶ月もかけて体外で作られた抗原をもとに人体の内部に抗体を作るという、安全性を重んじたやり方で様々なワクチンを開発してきたのにたいし、新型コロナにたいするワクチンのほうは、トゲトゲした形状のコロナの一部の細胞を用いていきなり人間の体内で数週間という短時日で抗原と抗体を作ってしまう、しかも人間の生体がどんな反応や被影響性を示すのか過去のデータもなくまったく未知数であるという、無謀な計画になっています。普通なら、長い時をかけ、臨床試験を行い、たくさんの医学論文が出て、安全性が保証されることなしに人体にたいするワクチンの接種を行うことはないのに、今回は人類史上初の遺伝子法によるワクチンがもう打たれ始めている、人の健康と生命を守るはずの医学が決して行うはずのない、まさに驚天動地のことが堂々と世界中で行われているのです。

 作成される抗原であるコロナの遺伝子が生殖細胞に侵入しないという保証もないとのことです。生まれてくる赤ちゃんは大丈夫なのでしょうか。

 被害が現れるとしても、それが10年後、20年後という可能性もあるとなれば、親の責任はきわめて大きいことになります。

 

 高橋徳先生が名古屋の街頭でおこなった演説の録画からわかったことですが、 現に、アメリカではすでに全人口の一割にあたる3500万人の人々がワクチンを受けていて、それによる死亡者は500人を超え、アナフィラキシーが1700人、スウェーデンでは、ワクチン接種者が3,000人以上にのぼり、うち死亡数が150人超え、スペインでは老人施設の入居者70数人のうち死者が7人も出ているそうです。さらに、インドでは賢明にもこうした現状に鑑み、国民にワクチンは接種させないという政府方針を固め、ファイザー社からのワクチン提供を拒否する決定に踏み切ったということでした。(記憶に頼っているため、数等のデータが正確ではないかもしれません。詳しくは、以下の動画をご覧ください)

 

なかのひとのアンテナ!【名古屋から日本を救う!!】vol.2 | ショーン007aの日記 - 楽天ブログ (rakuten.co.jp)

 ↑ 残念ながら、これも再生できなくなっています。

 

   さて、こうした情報を知ってもなお国が無料で提供しようとしているワクチンを受けるというのでしょうか。

   どこまで人を馬鹿にした話なんでしょうか。

 けれども、嘘とわかっていても、危険とわかっていても、怪しいとわかっていても、拒否できずにやってしまうことって、ないでしょうか。いや、それってあるある、という声が聞こえてきそうです。自分の人生を振り返ってみて、あるいは周囲を見渡してみて、自分の直観にしたがうよりも、あらゆる周辺的な事柄に配慮し、また他人の思惑を忖度して、意にそぐわない決定をしてしまうことは、案外と少なくないかもしれません。

 

 問題は、それが果たして後悔のない選択であったかどうか。その検証は、そうした自分への裏切り行為がもたらした結果を受け取った自分自身がいちばんよく承知しているはずです。

 

 亡くなった父が語った言葉で何度も想い起こす言葉があります。それは、「自分がいちばん信じられる。自分は自分を裏切らないからな」という言葉です。

   ところが、わたしは一つだけ悔いを残しました。去年から今年にかけてのことです。

 

 

 

 

  これまで妻と意見の一致のもとに、施設に入所している母にたいし、インフルエンザワクチンを拒否してきました。それがある年のお正月に母との外出時にわたしが無茶をさせたことにより本人に風邪を引かせてしまったことから、施設での風当たりが強くなり、それからというもの外出届を出すたびに強制隔離を必要以上に通告してくるなど、強硬になる施設側に妥協して受け入れることになりました。すると、明らかに認知症の進行スピードがはやまったこともあって、去年ばかりは、年内退所を決めた以上は受けさせないつもりでいました。最も悔やまれたのは、計画が頓挫したことによって、再び施設側の望むワクチン接種に協力してしまったことでした。その代わり、インフルエンザワクチンの申込書を記入する際には、細心の注意を払い、担当医にも本人にも手紙を添えることにしました。

 たとえば、予想される副反応の危険性に関する情報提供が、申込書の裏面にあります。一方、医師から同じ内容の説明を受けました、という点に同意を求める欄があります。もちろん、医師から直接説明するから、聞いてください、とは向こうは言ってきません。それなのに、説明を受けました、ということにして、サインさせ、押印させる行為は、まったくのデタラメであり、事実に反します。いったいどうしてこうした嘘の手続きが行われる必要性があるのか。まやかしの安心のためか。しかし、だれのために❓厚労省か。

 そういった思考が自然とわたしの中に生まれてくるので、そこはちゃんと正直に、医師からの説明は受けてはおりませんが、代わりに、裏面の説明文を読み理解しました(とくに危険性をともなう副反応の記述箇所には赤いボールペンで下線を施しました)という趣旨の添え書きを自筆で書いて提出すると、施設側から電話があり、「これじゃあ到底ワクチン接種は受けられませんよ」と、血相変えて言ってきました。いつもは冷静で、明るさをよそおい事勿れ主義を貫く役目の施設職員の声がいつになくうわずっているのに、こちらのほうが驚きました。しかし、これまで感じてきたことの正しさが、一挙に証明された気にもなり、(やっぱりこんなものか……)と思いました。

 とにかく向こうは、相当な恐怖心に駆られていることがすぐ伝わったので、相手を安心させるため、こちらは正確に事実を記しただけで他意はないこと、ワクチンをしてもらうつもりであることには変わりはないこと、ただデリケートな超高齢の本人のために慎重を期しているわけで、施設長と相談員のあなたとケアマネジャーの三者で討議中ということなら、申込書に同封した担当医に宛てた手紙をその場で開封していただいて結構ですから、とお願いしました。施設側は直ちに言われたとおりにし、医師には電話で内容を読み上げたと、折り返し連絡がありました。向こうも安心し、事は収まったようでした。

 

 しかし、二ヶ月前には、受診に付き添うように言われて母に付き添って皮膚科を受診し、長いあいだ放置されていたことがわかった帯状疱疹につき、詳細について調査を依頼しても現場でだれ一人として把握していなかったことや、自車で追いかけようかと相談するもまったく対応できず、早く乗ってくださいと言われて同乗するも、受診後施設に戻る送迎車がなかなか来ずに、寒風に吹きさらされるまま、母と屋外で長時間過ごしたことがあり、それについてのフィードバックを翌日ケアマネにするも全然話が通じず、感情問題にまで発展した直後、その場にいないはずの母が入浴後初めて意識障害を起こしながら、看護師のほうにその後の連絡等丸投げされ、しかもさすがにこちらの訴えが、的外れでないことに気づかされておっかなくなったか、数日看護師が本人の見守りとケアと家族への報告だけはしてくれたものの、精密検査の必要性については何も言いませんでした。こちらもうかつであったと後に反省。

 因果関係は断定できないものの、その後半月を経ずして年明けに脳梗塞を発症し、一ヶ月後の退院につづき、在宅介護が開始されて以降、認知症の進行という事態が判明してきました。

 脳梗塞発症時の画像診断では多発性の梗塞の痕があるとわかり、どうやらあの時もそうだったかもしれないと、あらためて疑われたのでした。

 冠動脈の血栓が飛んで脳底動脈を一時的にせよ塞ぎ、中脳という命をつかさどる部位の細胞の一部が壊死したことにより、植物状態になるかもしれない、と脳外科の担当医から言われながら、幸い予想が大きくはずれたのでしたが、それにしても、施設のケアマネが今回のことを受けとめきれずに説明にも立ち会えず、退所するまで連絡もなく、施設の担当医とも施設長とも接触がないまま、4年と半年以上もいた施設を去ることとなりました。まるで何事もなかったかのように。部屋の荷物をまとめておいてくれ、最後は玄関で挨拶を交わし終わりました。

 

 

 

 

 

 こうした体験をつうじて、自分の思ったことや為したことを振り返って、何が真実で、何が虚偽であったか、何が自分に悔いのない選択で、何が逆に自分を裏切る行為であったか、そこを透徹した心のまなざしでよく見つめることから、自分のおかした過ちも見えてくることがあります。

 

 自分の責任を認め、反省するとともに、そこから今後は己の直観とビジョンを信じ、内側から湧いてくる創造の喜びにしたがうことへの信頼を強くする機会としてゆこうという決意も生まれてくるのだとの確信が得られたことは、今回の辛い体験から逃げずに向き合いつづけたことによる果実でした。

 

 

 たとえいかなる試練に遭おうとも、最終的には自分が宇宙の神聖なる計画に組みこまれており、無私の心でそれに奉仕するかぎり、強力な庇護と守護のもとにある。そう信じています。だから、災い転じて福となす、の古言のとおり、どんなことからも学びの機会を得ることができていると思うのです。

 

 

 

 

 さて、再び話をもとにもどします。

 米国人女性でワクチンの研究開発に従事してきた人の内部告発的呼びかけの動画をこのblogで紹介したのが、九月のことでした。

『ワクチン開発者の訴えⅢ― 悪夢から醒め理想を実現する』の記事はここをクリック

 

 

『ワクチン開発者の訴えII -シュタイナーの予言と人類の課題』の記事はここをクリック

 

 

 こうなってくると、あそこで伝えられていたほとんどSFのような話が、にわかに現実味を帯びてきます。だいたい医療現場にいる医師から見ても、いかにも無理のある、どう考えても理にかなっていないこのたびの新型コロナワクチンは、じつはワクチンとは名ばかりの偽装目的で施行されるものにすぎず、真の目的が隠されているのは明白であると、わたしの直感は言っています。

 

 いついかなる時も、常にだれにとっても、諸々の事柄に関して、決めるのは自分だということ。そう、たとえ強制されたように見えたとしても、あるいはどんな事情により、障害に遭おうとも。最終決定は自分が下すことに変わりはないのです。

 

 ひとのカラダにたいして行うのは初めてという、結果の予想できない今度のワクチンを受けるも受けないも個人の自由。そこだけは、さすがに政府は認めてくれています。これも天の仕組みか、神計らいか。

 

 決定権は「このワタシ」にある。ただ、見極めの必要なのは、「このワタシ」が果たして本来の自分、真実の自己と一致しているのかどうか。かならずしもそうとは限らないという点です。

 

 悔いのない選択が、目覚めた意識をもってできるかどうか。今、人類はたいへんに厳しい状況設定のもとに覚醒度を高めた選択を迫られています。しかも、これが意識進化の道における岐路に立っていることを意味していると気がついている人は、現在までのところ多いとは思えません。しかし、これは今に始まったことではありません。

 福島第一原発のメルトダウンと放射能の拡散以降、この出来事の意味を正しく捉え、健全な危機感を保ちつつ、この経験から汲み取るべき叡智を汲み取り、学ぶべき本質的な事柄を学ぶという学習の機会を怠った場合は、どうなるでしょうか。当然、さらに大きな規模で、さらにアラームの音と深刻さの度合いを増して再び学びの機会はやってくることでしょう。カルマの法則が地球界にとどまるかぎりは、面倒見がよいのですから。

 

 植物にあって鉱物にないもの。それはエーテル体です。動物にあって植物にないもの。それはアストラル体です。人間にあって動物にないもの。それは自我です。人間だけが、思考の力を使って観察し、内省し、本質をつかみ取り、自己認識を深めることができる。

 

 それは何を意味するでしょうか。経験から反省し、学び、生き方を改め、魂を向上させることが可能であるということではないでしょうか。

 それとともに、感情を浄め、気高さ、清らかさ、愛、歓喜などの至高の感情体験にまでアストラル体を純化させてゆくことができる無限の可能性があるということだと思います。同様に、エーテル体も物質体(肉体)をもより浄化されその波動の精妙化された進化型バージョンへと、アップデートし、次元を高めてゆかれるということになるでしょう。

 

 アスラの手中に落ちた者は少しずつ自我の一部をもぎ取られていってしまうと、シュタイナーはいいます。自我がもぎ取られれば、意識魂による意識的な責任ある選択はできなくなります。自らの決定権と選択権を放棄してしまうことに良心のうずきを感じなくなれば、より安易な道を行かざるをえなくなることでしょう。いきおいそれはある種の自己逃避になります。

 

 周りのせい。政府のせい。だれか他人のせい。自分が自分にたいしハンディと見なすことのせい。状況のせい。あらゆる言い訳をし、複雑な思考をめぐらせて自己正当化をするか、または後悔し、自己否定に陥るか。いずれも魂の力が弱体化し、その奥の神聖なる輝きが消え入り、個人の生命力が衰弱の道をたどるのは必至です。

 

 人間のために役立つよう飼育された牛馬とA.Iとの共通性があるとすると、能率だけが重んじられる価値観に適合する目的にふさわしく、悩んだり、迷ったり、自発的に考えたりすることが全然ないという点です。もし、人類がこれらの存在に何らかの遺伝子操作を行うことにより、つくりかえられるとしたら、これらの条件は必須となることでしょう。

 

 

 

 

 アスラの時代は、人類がどんな挑戦を受けているかということをまず知ることが大事であると思います。

 つぎには、その認識をみんなで共有してゆく必要があると思います。

 

 それには二つあって、ひとつにはエゴイズムの克服という課題です。

 

 「もしゴルゴタの出来事が起こらなかったら、地上に存在するものすべてが、人間をますます荒廃したエゴイストにしたことでしょう。全世界に友愛の精神が、魂の内なる調和が生じる見込みはなくなったことでしょう。」

 

 ゴルゴタの出来事とは、キリストが十字架にかけられて肉体の死を迎えたことを意味します。それ以前は、霊界にいる魂たちは孤独で真っ暗な世界に取り巻かれていると感じていたといいます。キリストが現れなかったら、人々は自分の殻にこもり、他者との架け橋を見出すことなどできなくなっていたことだろうと、シュタイナーは述べています。  

 

 もうひとつは、神からの贈り物ともいえる思考を自由に使えて、一人ひとりにおいて後悔のない選択ができるようになるという課題です。

 

 シュタイナーによれば、アスラの力は「人間の自我とは、単に物質界が生み出したものにすぎない」ということを人間に信じこませようとし、霊的な存在や霊的な力にたいし人間の眼を曇らせ、「人間の最高の道徳的な理念とは、動物的な衝動がより高いレベルで形成されたものにすぎない」ということをおしえ、「人間の思考とは、動物ですら備えているものが変化したものにすぎない」ということをおしえ、また「単に人間の姿が動物に類似しているだけではなく、人間のすべての本質は動物に派生する」ということを信じこませることになるだろう、ということです。

 さらに、人間はこういう見解を実行に移し、そのように生きるようになるという予言めいた言葉をキッパリと言い放っています。

 

 たしかに、人間が動物以上の存在ではない、とする見解と、人間がよくできた精巧な機械のようなものだ、とする見解はともに人間を単なる物質と見なして、その生命の源泉である霊の世界から、人類を切り離し、魂と霊と肉体の結びつきを弱め、無力化し、支配しやすくしようとする存在にとっては都合の良い考え方です。

 こうした画策を阻止するために地球界にやってきているのが、キリスト存在であり、ルシファーも光の導き手としてやがては浄められて自己救済に至り、キリストととともに人類の意識進化に奉仕する存在になるといいます。

 

 ルシファーが人間のアストラル体に存在する情熱や欲望をとおして地上に人間を引きずり降ろし、さらにアーリマンが人間のエーテル体の中で攻撃を加えることができるようになったのにたいし、キリストが出現したことにより、人間を再び霊的な世界へと引き上げる力も現れた。それゆえ現代に生きるわたしたちがもし単に過去の地球にキリストが現れたと知ることで満足してしまい、いつの日にか無意識のうちに救済されるだろうということを信じるだけでは不十分なのだと、シュタイナーは強調します。ならば、シュタイナーはいったいどんな期待を、後世の人々に、未来の地球をになう私たちをも含む人類に託したのでしょうか。

 

 ルシファーによって、人類が手にした自由意志というもの、自己意識による選択の力というもの。それを感覚的な物事への熱中のほうに使うことなく、キリスト出現の意味は何か、という追究へと向け変えるなら、そのことによる恩恵は、ルシファーを救済して、光の導き手として人類の意識進化のために働いてくれるとともに、人類自身をも救済するだろうと、シュタイナーは教えてくれています。

 

 人間に自由を与えたルシファー的存在たちは、また、「キリストを洞察するために、いま、この自由を自由な方法で使用する可能性」を人間に与えました。

 

 死ぬ前に、霊的なものに関心を抱いて何になるのだ。死んだときに、私は霊的なものについて知るようになるだろう。私がここで霊的なものに関わろうと関わるまいと、私と霊界との関係を変えることはまったくできないのだから」、と。

しかし、実際はそうではありません。このような考え方をする人は、死んだときに暗くて陰鬱な世界と出会うことになるでしょう。このような人は、死後、私が『神智学』で霊界について記述した事柄をあまり識別することができません。というのも、この地上で準備しておくことによって、初めて人間は、死後、霊界で目が見えるようになるからです。(中略)精神科学とは、意識的に霊界に入っていくための能力を皆さんに与える力なです。もしキリストが物質界に現れなかったならば、人間は物質的な世界の中に沈み込んだ存在となり、霊界に足を踏み入れることができなくなったことでしょう。しかし、実際には、キリストが現れたことによって、人間にはキリストによって霊界まで引き上げられ、霊界で意識を保ち、目が見えるようになる可能性が与えられました。人間が霊界で目が見えるようになるかどうかは、人間が、キリストが遣わしたもの、つまり霊と自分自身を結びつけるかどうかにかかっています。そうでないと人間は、無意識の状態に留まることになります。人間はみずからの不死性を獲得しなければなりません。

 

「わたしたちは、いついかなる時も、肉体を自分と錯覚するがゆえに発生する幻想から生じる恐れから、重要な選択を行うべきではない」ということに関して、少なくとも上の文章を読むかぎりで確信をあたえられます。

なぜなら、我々の本拠地は霊界だからであり、我々の本質は霊であり、魂であるからです。この真理を人類が自己意識をつうじて完全に自分のものとするのを見届けるために、キリストは地球に遣わされたのだともいえると思います。

 

 

 シュタイナーの置き土産の包み紙をひらいて今こそこの有り難い叡智を活かせる時機が到来したということは、今を生きるわたしたちだからこそ悟れることであり、人類の未来はまさにわたしたちの双肩にかかっているといえます。

 なぜなら、いよいよアスラの挑戦がはっきりと目に見える形で現れてきたからです。

 それはほかでもない昨年より始まったコロナウィルスによるパンデミックを前哨戦として、いよいよその本当の目的であるワクチンの施行がなされようとしている事実にたいし、わたしたちはこの機会をどう捉え、態度を決定してゆくかという問題につながってきます。そして、この問題の本質は、ワクチン接種を受けるか受けないか、イエスかノーかという単純な反応にあるのではありません。

 

 そうではなくて、もっと深い内面に一人一人が沈降していって、「本当の私」に出会い、じっくりと時間をかけて対話し、そこから湧いてくるクリアな思考と力強い感情を体験することをとおして、今までに経験したことのなかったレベルから、「確信をもって決める」ということにあるのです。

 

 そのレベルとは、自分のなかにいる群衆があれやこれやと相矛盾した考えを騒音のように飛び交わせ常に移ろいやすい状態であるのとは異なり、だれがなんと言おうとゆるがない、たとえ全世界を敵に回そうとも絶対の自信をもって自分がこうと信じたことを選び、実行できるだけの強さに至るレベルである、そうでなくては、とても自己を救済し、他の人々を助けることはできないのではないでしょうか。

 

 ここで思い出すのは、『最終兵器彼女』という映画を初めてみた時の感動です。

 

 

 

 今でもその時の新鮮な印象は残っています。でも、あれは切なかったですね。

 希望がもてず、暗澹とした気持ちになりましたね。いやあ、映画って、本当に罪作りな発明品ですよね……?

 

 一人の人間が自己犠牲的に人類のカルマを引き受けて宇宙の彼方に消え去るというのはねえ。今のわたしにはその手法はもう古くて。違和感おぼえます。それではあんまりにも悲しいっす。

 

 キリスト自身も、そしてシュタイナも、一人の救世主が人類全体の罪業を背負って十字架にかかるというイメージを持ってもらいたいとは思っていないと思います。

 それよりも何よりも、わたしたち全員がめいめいの内なるキリストにつながって、完全なる神性を現すことを、そのために準備されたシナリオであったことに気づいてもらうことを願ってやまないにちがいありません。

 アスラの挑戦にたいし、敢然と迎え撃つ覚悟で、いまわたしたちの一人ひとりが心すべきは、高度に意識魂を発達させ自我を霊化させる過程にある『最終兵器あたし』いや、『最終兵器私』として、あちら側のたくらみを完全無化することです。それにはなんのテクノロジーもデバイスも要りません。

 なぜなら、わたしたち自身が、〈絶対無限の存在〉の完全なる反映リフレクション〔ボールベアリングの多面体のような、あるいは田ごとの月のごとき鏡像〕なのですから。

 

※「ワクチンが人の霊性を奪うとシュタイナーが警告していた」関連の記事を参考記事として載せてまいります。過去の〝しじまの時間〟の同カテゴリーの記事にあり、探しますので、いましばらくお待ちください。と、さきほど書きましたが、だいたい今のところこんなものでしょうか。関連記事のアーカイブスも含めてねまたいいのがあれば、載せますね。(8/27 am11:25更新)

 

◇参考記事

 

 

 

 

 

 

 

◇関連記事 しじまの時間アーカイブスより