もう二週間も前になる4月11日に妻とともに花見をしに行った。行った先は、生まれ育った生家のあったところと目と鼻の先ほどの場所。この場所が好きで昔から何回となく訪れている。見頃を過ぎてもう葉桜になりかけていた木もあった。


根岸森林公園(横浜市中区)の桜の森 2024,4,11

 

テニスの練習をする親子、くつろぐカップル(フルート吹いてました)

 

赤と紫のチューリップ さながら天国の花園のよう?

 

 長年なじんできて、あたりに放たれている波動と容易にアチューンメントされて単に解放感にひたり癒されるというだけでなく、母の他界から一年五ヵ月が過ぎて今回ここを訪れてみると、幼い日の思い出から現在にいたるまでのこととともに亡き母のこと―母の車椅子を押して木々を眺めながら周回ロードをめぐったこともあった―がしきりと思い出された。

 

 

 

霊界の花見?「フィルム」のフィルターかけたらこうなりました
 


小高い丘の上  それぞれの花見か

 

 

桜の精を感じる 大島桜

 

 一周忌を迎えた昨年11月より度々母が来てくれて妻の発声器官をつうじて対話したり、教えてもらったりという機会を度々得たお蔭であの世とこの世の風通しがよくなって、霊界と地上界に分かれている仕組みも実感とともに想像しやすくなった。「こちらに来てはじめてわかることもあるのよ」とか、「こちらに来るときやりきったと思えるように生きなさい」といった、まだ母からのメッセージが入りはじめた当初の母の言葉からもそれはうかがえたことだった。

 

錆びた石油タンク ノスタルジック! コンビナート叙景

 

 時間はあるようでないものだと、しばしば思う。一生のうちでたとえいっときでも出会えた相手から大事なメッセージを受け取って、それが生涯の指針となることがあるのを考えると、時間や回数は関係ないとつくづく感じる。

 

運転席から目に飛びこんできた氷川丸 生前これに乗船しシアトル航路で仕事していた父の記憶が思いがけずのぼった

 

前方に出現したる斜塔?

 

ノスタルジックマリンタワー

 

 今年1月11日にかなり長時間におよぶ母との対話があって以来、交信の機会はめっきり減っているけれど、しかし交わした言葉や言ってもらったことは、いつまでも魂に沁みているし、きっと魂の滋養となり、勇気となっているにちがいない。あのときは、めずらしく口ごたえしてしまい、何度か紛糾する場面もあったが、最後にはこちらの腑に落ちて、生前伝えられなかったことまでも伝えられた。それはお詫びであり、尊敬と深い感謝の気持ちだった。思いきって言葉にでき、母は「よかった。それが聞けて。ありがとう」と、しんみりと語り、それから「風邪ひかないようにね。元気でね。じゃあ、お母さん行くからね。さよなら」という言葉を最後に去ったのだった。

 以前もしばらくは来れなくなると言っていたことがあって、果たしてつぎの修業の場に移るのか、それとも新たに任務のためにどこかへ赴くのかわからなかったが、寂しい気持ちになった。それでもややあって再び交流の機会がもてたことにより、だんだんと安心してきた。結局は、魂はいっとき離ればなれとなってもまた逢えるものなのだと。

 

 つい先日のこと、若い頃より所蔵していたぶ厚い本をたまたま手に取らされ、ページをめくっているうちにとても大事なことが目に入ってきて教えられた。それはわたしたちが大自然の愛によって生かされていることで、その根本には命の親である神の意志から発した陰と陽の働きがあってこれにより生を受け、命綱を得ているわけで、そのことの「恩愛」を忘れてはならないということ。生まれてから今日にいたるまで、人類は常に思凝神霊(しぎょうしんれいと読む。いちばんの不幸のもとは執着、執念の類いの想念、つまり思いが凝る、コリをつくることであることを考えてみるとわかりやすい。その執着とはほとんど肉体にまつわる業の想い、欲念である)と呼ばれる邪念、悪霊、悪想念、魄(肉体の波動)というものに虎視眈々と狙われ、隙を見ては襲いかかってこられつづけていて、ここに良心のひらめきを可能にする魂が激越な防衛戦を繰り広げることで、魄と魂とのせめぎあい、闇と光とのせめぎあいが展開されているが、幼い時代に受けたあたたかい父母の愛が力となって、道を踏み外すことなく人生を渡って行かれる(もちろん守護してくれている神霊の存在の助力はあるわけだが)という事実だった。いくら親が地位や名誉や財産を獲得しても、根本の真理がわかっていない親の子なら、そうした攻撃に負けて、不良(古くさい語か)になり、人生の道を誤り、悪魔の手先となり、真の喜びを知らぬままたとえこの世的には成功したかに見えても辛すぎる死後の再教育の道が待っているということになりかねない。

 

 つまり、神と大自然の「恩愛」を知る近道の重要なひとつが父母の「恩愛」に気づき、目覚めるということなのだと理解した。してみると、自分の場合は、やはり九十七歳まで長生きしてくれて、さらに霊界に行って以降も、妻のお蔭で通信が入り、対話や交信ができるというのは、じつに恵まれた境遇だといわざるをえない。これを自分だけのものとせずに、人類に還元してゆきたい、という思いを新たにしている。

 

 

 そういえば、五井先生というお人は、「先生八方塞がりなんです」と言った人にたいし、「天の窓(吹き抜けになっている感じかな?)があいているよ」と言って返した、という逸話を昔読んだことがあるのをつい一昨日か昨日だったかに思い出した。今の世はもうこの日本が窮地に立たされて、人口はどんどん少なくなるし某国に入ってこられたり、いいように利用されたりとかして、滅びてしまうんじゃないかとか、ということばかり心配し、不安の想念(これこそが魄、思いの凝った思凝霊・しぎょうれい、悪霊、人-悪魔エレメンタルの正体)に取り憑かれ、増幅することに使われている人々が多くなっているけれど、沢山の情報をかき集めて現象面だけを見てこれしかないと信じる想念を増産していたら、魂が縮こまり、干からび、潰されてしまうことで奴隷状態となってしまう。そこで、物質次元、肉体次元だけで生きているのではないんだ、ということを知る必要が出てくる。知識や情報をつうじて、日本がズタズタにされてゆく様子を実況中継しているだけでは、ダメなのである。まあ、それでも真実を言わず使命を果たさないマスコミ(とくにテレビ・新聞)により、ダマされている国民にたいし、目覚めをもたらすきっかけをあたえる意味では、情報提供も大事だが、いたずらに不安に駆られ、強大な勢力の前におじけづき、無力感をつのらせるだけになるなら、拱手傍観どころか、下手をすれば、あちら側の軍門にくだることにもなりかねないのであるからして、要するに三次元的な知識・情報のみのアプローチでは、不十分だということが言いたいわけだ。だからこそ、四次元、五次元、それ以上の次元につうじるポータルに意識のベクトルを向けること、周波数を合せることがきわめて大切になってくるという話である。これが「天の窓があいているよ」の真意であり、深い意味なのである。

 

 ところで先日、天皇のことを書いたが、国民の心に寄り添うだけでは天皇の使命は終らない、ということは、そのうち書く必要があると思い直した。世界中の人類全員が天地根本祖神とも呼ばれる存在と「恩愛」の命綱でつながっているのだという真理を知らせてゆくのが、日本の天皇の重大使命であり、これを体現してゆかないといけない日本国民の重大任務でもあるのだという真理を- 天皇の役割が制限され、その本質が覆い隠されたことにより、自分のことしか考えられない人間が支配層に居座って、われわれは苦難の道を歩んでいる。ただのナショナリズムでも凡俗な愛国心でもない、もっと広大な「恩愛」の真実をひろめてゆくという積極的な行動に出てゆくことによってしか、我が国は魔手による侵略と掠奪の試練を乗り切ることはできない。「かかる偉大なる神の愛情を受けて生を得ている人間は、神の定めた自然の法則にしたがうのは当然の義務である」(『由来記』第四巻 日本民族の使命 第一章 日本民族の使命)とあり、リニアの開発を行おうとしているのは法則に真っ向から反抗する行為であるので、どんな結果を招くかは火を見るよりも明らかである。

 

 「皇国一家の和」と呼ぶ精神を他国におよぼしてゆき全世界を一家のごとく和におくようによき感化をおよぼすのがわが国民の使命である(同巻第五章 日本民族のみたまの修養 三より)ということが、先日再発掘した本には書かれてあって、最近とみに感じていた、天皇を抑え込んだのは、大間違いだった、戦前の日本のように天皇の権限を利用して軍国主義を正当化する過ちを繰り返す恐れは妄想であって、天皇の心を前面に出すことにより、日本国民の心は、政府への「絶望と嫌悪感と非難」と自己卑下から、一転して、愛とまことの道に目覚め、自信も誇りも取り戻せる、すなわち体が主で、霊が従という関係が逆転して、霊主体従の世に道をひらくことになって、五井先生の名言、「天の窓があいているよ」の実践にもなるということだ。なぜなら、日本の天皇〈スメラミコト〉にはこの世とあの世をつなぐトンネルポータルのお役目が古来あるからだ。……ということを日本の人々(日本人も日本に来ている外国の人々も)は知らなくてはならないとおもった。

 

 

 生誕地にしても今暮らしている地にしても、土地に愛着を感じ離れがたい自分がいる。肉体と魂。空間と時間。そのへんに生涯のテーマもあるのではないかという気がしている。ともあれ縁深き土地をとおして様々な波動を受け取り、記憶と思考と感情をひきだされ、生と死が交錯するとともに過去と現在の隙間より永遠を垣間見せてもらう一日となった。

 

冷たき夜の街に咲き残る夜桜 嗚呼クール!

 

◇参考記事

 

 

 

 

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