過去の経緯

 

 従来の終身雇用や年功序列が崩れはじめてから久しい(20年前くらいか)ですが…

 

 「日本的(家族主義)」経営」。これは、こうした処遇に頼れた時代にまだ活きていたビジネス用語です。いまや完全に死語になっているとおもいますが。

 

 上に書いた2つの要素にさらに企業別労働組合というのが加わって日本的経営の「三種の神器」となり、これが優秀な人材を育てて戦後日本のめざましい経済成長をもたらす勝因ともなったという見方があります。

 

 以上の論議は、「雇用重視型社会」を前提としています。

 

 「企業と個人」が「協力して」「雇用を重視してゆく社会」といってもいいでしょう。

 

 前回の記事でも企業内教育ということに触れましたが、要は人事管理。つまりどうやって企業側が必要とする人材を育てつつ、同時に従業員側も持てる能力が伸ばせて一生をハッピーに送れるか、ということになります。

 

 20年程前、「個人の人生」における「企業の存在意義」が真面目に問われていました。

 

 そこでは個人が会社に勤めながら、いかに自分にふさわしい仕事をして自己肯定感を高められるかに関心が向かいます。キャリアを積んで仕事人生を充実させてゆけるかどうか。

 

 仮にこれに成功したとすると、個人と企業が良好な関係を保つ条件の一つとなれるでしょう。

 

 会社側からすると、「企業が従業員に求める能力」と、「従業員の持てる能力」とが、「合致する理想的状態」となっているかどうかが重要になってきます。

 

 至極当然の話として、「企業-個人間のマッチング」が「最適化」できれば、「どちらも幸福」なわけです。

 

 でもそのためには、「従業員の持っている能力特性」を「雇用側の企業がワカッテイル」ことが「不可欠」でしょう。

 

 けれども、たとえ企業側が「わかっていますとも」と思っていても、それだけじゃしょうがないわけですよね。

 

 実際に仕事の現場で働いている従業員が「自分の能力特性が活かされている」と明確に実感できてはじめて「企業側の理解が的を得ていた」ことが「検証」されるのですから。

 

 

現状の把握

 

 ところがです。今の時代は、「企業-従業員」の二者間のみで、こうしたマッチングの適正化が行われただけでは、全然不十分なのだ、というところを見ないといけません。

 

 というのも、前回の記事に書いたように「お客が満足しない」「サービスやモノを提供している会社」だとしたら、それは「企業としてはダメ(色んな意味で)」なんですからね。そのダメな理由のひとつとして、利潤追求だけして、劣悪なサービスやモノを消費者に提供している「情けない」ことになりますから。

 

 ところで近頃、よく聞かれるビジネス用語があります。

CSR(Corporate Social Responsibility)」あるいは企業の社会的貢献」。

 

 これはいったい誰のためなのか、という問いがなされる必要があります。もともとは、食品の成分表示の偽装やブラック企業の問題から生まれたコンセプトだったはずなんですけどね。それがいつのまにやら……。

 

 

 【謳(うた)われている貢献先】は「地域社会」だったりしますが。本当にそうなんですか?

  

 また、「地球🌎環境」や「健康・医学💉」「社会福祉」「教育」「文化・芸術」だったりします。

 

 そして、メリットとしては、「企業価値やブランド・イメージを高める」とか、「投資家へのアピール」とか、「顧客やファンをつくれる」とか、「採用面で求職者にアピール」や「社員が自分の仕事に誇りがもてる」といったことも考えているようです。

 

 これらがどんな時代の流れに乗って起こってきたのかですが、大いに参考になるのが、あるサイト(企業の社会貢献とは?中小・大企業の事例やメリットも解説本記事末尾にリンクします)の指摘です。簡単に要約します。

 

◎日本は古来から「三方(売り手、買い手、世間)よし」の精神がある。

 

◎アメリカで企業のモラルが問われる不祥事が相次いで出来した結果、企業は社会的責任を果たすべきという考えが1990年頃に日本に影響しはじめた。


◎国連で採択されたSDGs(持続可能な開発目標)が大きく影響して日本でも企業の社会貢献活動に注目が集まるとともに、一部上場企業の7割が加盟している経団連がSDGsに取り組むことを宣言した経緯もあって、多くの企業が2015年以降に社会貢献活動に力を入れるようになった。

 

 しかし、これら3つが、有機的に連関している感じがしません。本当に上のサイトで謳われた、顧客や地域住民との交流、従業員が自分の仕事に誇りがもてる等の理想目標は、実現しているのか?「羊頭狗肉」とはなっていないか?

 

 サイト内には「企業における社会貢献の活動事例6選」があり、「武田薬品工業」(福島のワクチン工場実現に向け中心的役割を果たした企業の母体)が2番目に挙げられ、「タケダのグローバルCSR」がその特徴の一つに数えられています。上記リンク⇒「アクセリード株式会社は、創薬ソリューションプロバイダーであるAxcelead Drug Discovery Partners 株式会社を中核企業とした、世界レベルの創薬を実現するアクセリードグループのホールディング会社です。わたしたちは日本初の創薬プラットフォーム設立を目指します。

 

 ここで、そもそも「グローバル」って、「善事」なのか、それとも「悪事」なのか、という理解の深浅が個人により様々であることでしょう。

 

 それはしかし価値観とか好みの問題じゃなく、「何が真実なのか」という問題であることだけは、はっきりと述べておくことにしましょう。

 

 なぜなら、今の社会の集合意識、集合無意識には、何が真実かより、どうするのが自分の身が安泰でいられるのか、という関心を優先するあまり、人々のサバイバルへの恐怖と欲望の想念エネルギーを吸い取って(エネルギーバンパイアと呼ぶやつです)、生命や宇宙の法則を力の供給源としない根無し草的なエレメンタルが寄生的に存続しようと躍起になっているため、そうしたわたしたちの共同幻想的な集合無意識の弱みにつけこまれ、悪に加担させられる負のループにはまり込んでいるからなのです。 

 

 ですから、CSR(その美名を借りたSDGsにしても)という概念は、もともとTwitterやインスタグラム等の SNS をつうじて先に挙げた例や産地偽装などマイナス情報が一挙拡散し、利益のみ追求してきた企業がますますネガティブ・イメージを負う結果になったことにたいする対策として手を打った結果である可能性がある、ということを疑ってみる必要があるんじゃないでしょうか、ということです。

 

 わたしたちは、お金めあての目的で鴨チンと見なされ、おだてに乗ったり、君も「善いこと」に関われるよ、なんていう甘言に乗せられ協力してしまう情けない自分から、もう脱皮して羽ばたいてゆかないことには、本来の意味での持続可能な🌎地球社会などあり得ないということを知らねばならない時機に至っているとおもいます。

 

 ただ、全部が欺瞞でまやかしということでもないとおもいます。

 

 「企業と個人」の「協力」だけは、いつの時代でもどんな経営環境でも、残りますよね、おそらく。「雇用重視」はもうないかもしれないにしても。

 

 問題は「企業が社員にどんな協力を求めてくる(TAKE)のか」です。「企業が社員に保障してくれる(GIVE)話」じゃなくて。

 

 企業にとっても、個人にとっても、相手とどう関わるか(つきあうか、或る時は、渡り合うか)は、最重要課題であることには変わりありません。

 

 そして、この問題はもはや二者間に限定されなくなってきたのも事実です。

 

 

選曲: 言海 六羽

 

 

将来の展望

 

 前回の記事でのわたしの体験を例にとれば、お客さん個人が今、なにを求めているのかをたまたま電話を受け対応した従業員が責任感をもって判断し、上の人に伝えるべきでした。

 

 もちろん社内の方針を踏まえつつも、この瞬間どうすればよいのかという適切な状況判断を行い、行動に反映させることができる能力がなくてはなりません。それがないとわかれば、その現場に配置された人材としてはふさわしくない、といった経営者側の識見というものが、どこまであるのか。

 

 本当なら、お客と現場で接触できる現場担当者こそが、企業にとっての眼であり耳であり、鼻であり舌であり、皮膚なわけで…。TOP→DOWNから、DOWN→TOPへと血液循環を転換しないことには、企業の体質は健全化できないわけで…。

 

(「疲れているんだよ、きっと。ワクチン打って。人の気持ちがわかるとか、自分から進んで仕事をさがす余裕がないんじゃないのかな」といった会話がわが家でも交わされたことですが…)

 

 こうした観点を積極的に採り入れ、社会に貢献し、地球🌎に貢献してゆく能力を有する企業を創ろうとする意欲と努力がどれだけあるか。これをこれからの優良企業の指標とすべきなんじゃないでしょうか。

 

 しかるに、昨今の企業の態度の変化は、そういう深いところから起きてきているものとは感じにくいんですが、これはわたしだけが感じていることなのか。雇用重視型社会の変質により、新たな雇用創出の機会を模索しなくてはならないとなったときに、企業は利益ばかりを追求していられない、少なくとも建前は……となり、あわてて「社会貢献」を重視せざるをえなくなった……と、探偵さんみたいに推理してみるわけですが。

 

 いずれにしても、自社の真の意味での社会的ミッションがワカッテないと、トンチンカンなことになってしまいます。企業が従業員に迷惑をかけ、地域住民どころか、消費者や一般国民にも大迷惑をかけて、悪に加担しかねないということですね。

 

 というのも、企業の責任はますます大きくなり、わたしたちの消費生活から環境や健康、そして命の安全性の問題にまで深くかかわってきているからです。

 

 いまや大から中小まで既存の日本の各企業は、世界統一政府をめざす人々の計画を担う国連や世界経済フォーラム、ダボス会議や彼らの傘下にあるグローバル企業などが総ぐるみで行っている偽パンデミックによる営業妨害や一人一人の人間の健康破壊による労働力や士気の弱体化などをつうじた攻撃にさらされてきてしだいに「淘汰」され、また勝手な「優生思想」的価値基準にもとづき「まつろわぬ(刃向かう)者」と見なすや、抹殺するといった暴挙に脅かされ、おびえている状況を進行させている可能性があります。

 

 この流れを変え、巻き返しをはかるには、「気づき」が第一歩でしょう。巨大な流れに乗ってSDGsの旗印に従うことでしかサバイバル(生き残り)はできないという恐怖にもとづいた消極姿勢に支配された経営者は、意図的な人口削減や人々のマインドコントロールや情報の一元管理など全体主義的な監視社会を推進してゆく勢力に加担することで、自らの主権も権能も明け渡して自分を奴隷化してしまい、「三方よし」どころか、「三方悪し」を招いているのですから。

 

 悪魔に魅入られた人々が悪いのではありません。それと薄々勘づきつつも、神から来ている自己の本性を裏切り、偽りの自己像を自分だと信じこまされている(悪魔はオレはお前だと言ってくるので。「私は私だ。お前ではない」と跳ね返す必要があります)ことが間違いなのです。

 こういう偶像崇拝に陥りながら、恐怖とエゴイズムの次元から、代用的な欲望の満足のため餌をちらつかされて飛びつこうとしているかぎり、苦しみと自己卑下はつづいてしまいます。
 

 この頃、さかんに使われる「ステイクホルダー」というビジネス用語があります。「企業にたいして利害関係を持つ人」と定義されますが、株主や社員から、顧客、地域社会までも含めて使われることが多いようです。

 

 そうした時代の変化を踏まえながら、企業が生き残り、今後市民社会に受け容れられ、地域の住民とも共存してゆくビジョンを描けてはじめてより健全で創造的な個人-企業間の関係が築けるのだと考えると、「果たして既存の企業にそんなのあるか?」というくらい、少ないでしょう。

 

 だったら、既存の価値観、仕組みといったものをいったんゼロリセットし、「1」から創出するしかないのでは、とおもいます。

 

 

 きのうわたしは、見てはいけないものを見てしまいました。ワクチンを打った妊婦から生まれた子の顔写真の画像データですが、目と目があまりにも離れ顔のほぼ両端の位置にあったり、唇の上方が鼻のあたりまで裂孔し、鼻がほぼなかったりする例でした。文だけでお伝えします。

 

 放射能による影響でかつてウクライナのチェルノブイリで原発事故(わたしは直接大統領からあれは事故ではなかった、と真相を個人的にリークされた方から話を個人的に聴かされたことがあるので、福島の時と同じく事故とは呼びたくないのですが)から25年ほどたって、催奇形の被害が続々と出てしまっていることを知らせる動画を10年以上前に観ているので、その記憶までもがよみがえってきました。

 

 しかし、ここで言いたいのは、企業の社会的責任です。上に挙げた被害例も含めて、先日もここで皆さんに紹介した奈良在住の5回目のワクチン接種のあと、歩行困難と記憶障害となった看護師さん(41)の被害例に象徴されるような社会問題を、まるで責任者が誰もいないかのように(ファイザーなと製薬会社が各国政府と締結した契約書では、ワクチンを使った結果、どんな事態が起きても免責になる、という製造者責任を不問とする形を初めから条件に設定しておりました)、なかったかのようにしてしまうことでは、とても「企業の社会的貢献」なんていうスローガンを堂々と言えた立場ではなく、戯言(たわごと)か美辞麗句としてしか聞こえないし、そのうちに真相が全国民、全世界の市民に明らかになった暁には、誰からも受け容れられなくなることでしょう。

 

 こういうのを「偽善」と呼ぶのですが、たしかに彼らの教科書には、政治は「強権」(恐怖政治)と「偽善」をもって行うに如くはなし、ということが書いてあり、160年以上も前に彼らが決めたこうした大綱をいまだに忠実に守って実行しているのだな、と見ています。

 

 ダスカロスという人が言っています。(以下に、著作の一部を抜粋。色の強調は筆者による)

 

 

 

 エレメンタルとは何を行うためのものでしょうか? それは私たちが求めるものや、欲しいと希望するものを私たちに与えるためのものです。はっきりと言っておきますが、あらゆる欲望や希望はいつか必ず達成されるのです。

 

 私たちが望んでいるある時期に達成されない場合、その理由はそれが作用する十分な時間を私たちが与えていないからなのです。私たちはそれらを投影し、戻ってきて再度投影し、再び戻ってきて、それらを投影することを繰り返します。私たちはそのことに疲れてしまい、エレメンタルに任せてしまいます。

 

 そして、エレメンタルは創られた目的のために働き続けます。多くの人は「願望は達成されましたが、私が希望した時には起こりませんでした」と言うでしょう。

 あなたの思慮分別のある希望は、あなたが希望した時期でなくても、達成されていることに気付くと思います。時期についてはあなたに原因があります。なぜなら、それらが作用するのに必要な時間をあなたが与えていなかったからです。(引用ここまで)

 

 

 

 

 「彼ら」は、まことに想念(というかエレメンタル)の法則を熟知し、熱心で、勤勉な人々だと言わなくてはなりませんが、ただ99.9%まではわかっていても、残りの0.1%つまり九割九分九厘までわかっていても、残りの一厘がわかっていないために、遂には成就できない運命にあるのだ、ということが、すでに時空を超えた次元では、決まっています。

 

 これが世に謂う「一厘のしくみ」だと、わたしは理解しています。

 

 

 

 つまり、わたしたちが気をつけなくてはならないのは、欲望ならなんでもかなうからといって、理性が主導しない、たんなる私利私欲の低次元の欲望や感情が主導した思考をめぐらして人道にもとるような極悪非道なる計画をこねくり回し、実行に移そうとしたって、それは大調和と進化を目的とした宇宙の法則と創造神には、サポートされていない、ということだけは知っておかなくてはならないでしょう、ということです。

 それどころか早晩、朽ち果て、滅びてゆく運命にある、ということです(このことは、このあとに引用するダスカロスの真理の言葉で、「つまずきの石」と指摘していることに相当します)から、わたしたちも個人レベルで、彼らの欲望と所業を反面教師として魂を磨く精進に勤しむことはあっても、寄らば大樹の陰みたいなズルい考えを起し、おこぼれにあずかろうなんて、さもしく卑しい考えを起して、彼らの「手口」を見習うようなことがあっては、なりませぬ。(かつて麻生太郎氏は、「ヒットラーの手口を真似たらどうかね」みたいなことを言って、大いに波紋を呼びましたね)

 

 さて、もう一度、ダスカロスの『真理の言葉』の抜粋にもどります。(以下、引用)
 

 

 これを心に留めておきましょう。何かを得るために、適切な欲望や希望を送りたいと思う時、あなたは視覚化により精確にそれを創り上げなくてはなりません。目を閉じて、それを視覚化します。視覚化のスキルがなくてはなりません。それは空想や想像ではなく、創造的な思考なのです。これらを区別できなくてはなりません。あなたが欲しいものを視覚化し、求めます。そうすれば、それはあなたに与えられます。

 

 以上を心に据えて、何かを求める前に、それが理性的なものであるかどう、それがあなたのもとに来た時に、あなたの道でつまずかせる石にならないだろうかということに注意を払って視覚化に入らなくてはなりませんそうすれば、このエレメンタルを創ってしまったことに後悔しないですむからです。

 

 なぜなら、もしあなたの希望が今回の転生で達成される時間がない場合、次の転生、あるいはその次の転生で達成されることになるからです。ですから、あなたが求めている最も大切と考えているものが、未来の転生において足かせにならないように確認しなくてはなりません。欲望について学ぶと、あなたの一つの欲望が達成された時、何か他の欲望が次から次へと生まれてくることに気付きます。欲望が全てではないのです。

 

 

 

 以上、ダスカロススティリアノス・アテシュリス博士の講義録より撰集『真理の言葉』第15章 P.253~P.255より

 

 

 ところで、今回のブログ記事の標題を最初は、「自己責任」で突き放す、としたのですが、突き放すを突き落すに直しました。まさに誰かを地獄の底に突き落したい、というエレメンタルです。シュタイナーによるとカルマ形成の主たる要因として、二本の糸があり、ひとつは人類愛、もうひとつは、人類への憎悪だというんですね。ここに取り上げたのは、ワクチンで人の健康や命を破壊しようというだけでなく、地球の生物圏そのものを破壊しようとする行為ですから、まさに人類のみならず、生命憎悪であり、その根底には、創造主への叛逆の意思(意志)があるとおもいます。

 これは、結局、「俺様が一番なのだ。神よりも俺のほうが力がある。この宇宙の主宰者、王は俺様なのだ」ということを証明せずにはおれぬ、という凄まじいまでの業(カルマ)のエレメンタル、生物としての想念エネルギーです。この正体をちゃんと知る必要があるのです。わたしたちが、恐怖や心配や、偽りの自画(自我)像の虜になっていることから解放されるためには。

 

 また豆乳ヨーグルト体験にもどりますが、もし店員さんに他人事ではなく、お客の身になって感じ、自ら考えてみる能力が少しでも開かれていたなら、まったく異なる結果となったことでしょう。少なくともわたしの中に形成される印象も受け取る波動も違っていたことでしょう。その相手の方の今後の人生にとっても、わたしの投げたQは、きっと種子となってなんらか創造的なものへと成長した可能性があります。

 

 ここでしかし、悪魔的エレメンタルは、それを阻止するのです。彼女は内なる神を選ばず、悪魔を選んだのです。真の自己を信じられないばかりに、偽我のほうに従ってしまったのです。人間としての真の喜びと幸せが発見できない人は、代替物つまりニセものの幸福を売りつけられても、識別がつかずに買ってしまうことでしょう。

 

 二十代の頃でしたか、TA(交流分析)なるメソッドの1日セミナーに友人から誘われて連日、参加したことがありました。

 

・親指・・・批判的な父親

・人差し指・・・養育的な母親

・中指・・・合理的な大人

・薬指・・・適応した子ども

・小指・・・自由な子ども

 

 質問紙法によるテストによりこれら各要素の配合を調べ、グラフを作ります。

 なにが突出し、なにが未成熟なのか、などが浮き彫りとなり、自己を知るのに役立ちます。なかなか有効な方法だとそのときは感じて、いまでもこの視点はもっています。

 

 このものさしをあてはめると、今の社会では、どうも中指と薬指が活性化している人が多く、それに加え、ネットによる情報収集やICT分野の発達もあり、親指もなかなか活発な人も少なくないという印象です。

 それにたいして、人差し指つまり母親的な受容性、他人への想像力や共感力、思いやり、世話をしてあげたいという欲求などは、きわめて低く、非活性になっているという気がします。また、自由な子ども的な衝動、小指の部分、これも抑圧されている。

 

 その結果、あちらの計画は今までうまく行ってきた部分があるんじゃないかと、分析しています。

 

「ワクチンのお蔭で、父母が死にました」ショボーン

「それって、あんた自己責任でしょ」ニヤニヤ

「そうかも」もぐもぐ

 

「わたしの友達がワクチン打って歩けなくなってるんだけど」えー?

「それも自己責任。打たなきゃいいんだから」グラサン

「なるほど…そりゃそうだ」笑い泣き

 

「しかし、なんか冷たくないかい?ガキの頃がなつかしいなぁ。お母さんがなんでも聞いてくれて、いじめっ子からも守ってくれたりさ。体によくないものは食べないようにと注意してくれたり、なにかと助けてくれたよ」立ち上がる

「なに言ってんの、おまえ。ここをどこだとおもっている。ここにはお母さんなんて、存在しやしないんだよ」ムキー

「・・・・・・」ガーン

「おまえもそろそろ自立しろ。わがまま抑えて俺様の言うことよく聞いて適応していりゃいいんだから、楽じゃないか。わかったか。俺の言ってることなんか間違ってる?音譜ウシシドクロ

「い、いえいえ、めっそうもない。間違ってなんかいませんよぅ」滝汗羊

「だろビックリマークウインク ←グームキーバキっUMAくん愛飛び出すハート


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■参考記事

 

しじまの時間アーカイブスより