このごろは めっきり 気温が 下がってきましたね

 

早いもので もうすぐ 母の一周忌を 迎えます

 

生前の母は どんな時でも 平常心の人でした

 

体験したことにたいして 感想をたずねると

 

「そうね」と しばらく考えてから

 

「普通だったわね」と さらりと答えるのが 常でした

 

物に動ぜず いつも淡々としているところがあり

 

それでいながら ささやかなものへの 観察と愛を示し

 

小さな発見には 素直に 驚きや感動をあらわす

 

はじめて会う人とでも ざっくばらんに話し

 

その場を 楽しめる

 

施設に入っているときは 

 

ともに暮らす人の名前すら 覚えないのに 

 

向うのほうから 不思議なくらい 慕われ母でした

 

 

選曲: 言海 調 北の最果て小樽のアーケード街 深夜閑散とした中で歌声を響かすさまが味わい深い一曲です 

 

行きたいところはどこ との問いには

 

「別にないわ」と 答え

 

こちらから何かしようとの誘いには 

 

「若い頃さんざん楽しんだから いいわ」 

 

と すげない答えが返ってくる 

 

特別にお金を使ったり 人手をわずらわすことが嫌いで

 

とにかく 平凡で 平穏な日々が好きで 

 

感謝も深い人でした

 

今夜 妻と話していて  

 

あることに気づきました

 

それは わたしを産み 育てることだけを 使命として 

 

この世に生を享けた人であったのだ

 

ということでした

 

やりたいことは おそらく あらゆる過去生をつうじ

 

ほとんど 果している それゆえに 静かな心を

 

生涯 キープしていた人だったのだろう

 

本人は 魂に誓ってきたこと それ以外に やることもないし 

 

達成すべきこともない となれば

 

努力することができず 目的もなく 漫然と人生を過ごしてきてしまった

 

わたしの若かりし頃 友人の占い師から 

 

「風に吹かれて 揺れる瓢箪のような人」と 言われたのが

 

妙に しっくりと来てしまい 本人である母も わたしも

 

そのように 観ていたのは あながちはずれでもないと おもえる節があり・・・

 

晩年 認知症となって 持ち物への執着の想いを

 

口にすることが 一時期増えたのも 

 

じつは 大して根深いものでもなくて 手持無沙汰というのか

 

こちらがちょっと困っていたりすると すぐに助けてくれようとしたり

 

なにかの話題を提供すると とてもノリがよく 応じてくれ 

 

興味をもてるところなど つまりは 暇を持て余した 暇人よろしく

 

この世に自分をつなぎとめ グラウンディングしておく必要から

 

さほどでもないのに オーバーに 

 

持ってかれちゃった などと言っていたのだとわかりました

 

 

 

本人は 自戒をこめ 「今度 生まれ変わったら」という話もしていましたが 

 

そんな母が 子どもの頃に 憧れたのは ピアニストだったといいます

 

兄弟が多く貧しかったことや 教育をつけられなかったことなどを理由に

 

かなわぬ夢と 最初から あきらめていたそうです

 

それから 沢山の子どもたちを 預かりたい とも話していました

 

 

今夜は夫婦ふたりで 幼少の頃 母とデパートに行った思い出のある 

 

伊勢佐木町の話をしていて ふと思い出されたことがありました 

 

それは 母がまだ10代の頃 アルバイトしたという ()(らく)煎餅(せんべい)という

 

今はもうない 老舗の名店で 撮影した一葉の写真 でした

 

 

 

 

あどけない顔と 未来を見つめるような眼差しが 印象的で

 

「NHKの朝ドラに出てきそうだね」と言って

 

妻と 笑い合ったことでした 

 

写真の裏を見ると 昭和14年12月 と記されてあり

 

大正14年3月生まれの母ですから

 

14歳の頃とわかりました 

 

16歳とおもっていましたが 今夜 初めて

 

この事実を発見しました 


 

日米開戦の2年前ということになります

 

そして昭和16年 真珠湾攻撃の12月8日を境に 

 

日本は 戦争に突入します 

 

母は 昭和20年5月29日の 横浜大空襲では

 

徴用先である 三菱重工造船所(連合国側の捕虜がいました)の

 

地下防空壕(現在ランドマークタワー下に船渠・ドッグの跡地有)で

 

安全に一日過ごして 夕方になって

 

地上に出てみると 一面が焼け跡となっていて

 

川に浮いた 焼死体を見ながら 徒歩で 元町のトンネルを通り

 

本牧に近い町の自分の家にたどり着くと 跡形もなく罹災し

 

避難所となっていた大鳥小学校に行くと 

 

父母も兄弟も 家族全員無事で 喜び合ったとのことです

 

「わたしの青春は 戦時色一色だった 

 

でも 皆いつ死ぬかわからない覚悟をきめ

 

お互いに 助け合いもし 一期一会という気持ちで生きていた」

 

と 語ってくれたことを 今でも 憶えています

 

こちらの写真の母はいつ撮影されたものか 年齢不詳です

 

こうして 亡き母のことを なつかしく 偲び 

 

時代を 振り返ることができることを 

 

つくづく有り難く 幸せに 感じます 

 

とくに この3年くらいで 日本でも 沢山の方々が 他界して

 

決して 平和とは 言えないまでも

 

少なくとも 戦後78年を経た今日まで 戦火に遭うこともなく 

 

この国で 過ごせていることは 有り難いな と感じながら

 

毎日を 大切に 過ごさせてもらっています

 

 

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しじまの時間 アーカイブスより