おとといは母の一周忌で鎌倉のお寺に行ってきました。

 お寺に到着したのが正午近く。またあの猫が出迎えてくれました。 ニャーンと一声、挨拶だけして、あとは素知らぬふりで、その場を去りました。

 

 

  法要の始まる前に二人でお墓参りをしました。いつになく丁寧にお墓を掃除することができ、心までもが清浄になれました。

 

 前夜からの強風で一時はどうなるかと危ぶんだほどだったとご住職は話しておられましたが、雨も上がり、午後1時に予定された法要のはじまるまでには風もだいぶおさまり、かえって浄められたような空とともに地上の空気もさわやかさの感じられるなかで気持ちよく一周忌を迎えることできました。

 

 

 

 参列者は前回の四十九日法要(昨年12月25日)のときと同様に3名。ちっとも寂しいなんておもいません。おそらく母も(笑)長年親交のある親友が健康上の問題があるにもかかわらず東京は練馬区から来てくれました。本当に有り難いことです。

 

 

 今のご住職は、ご尊父様(ご祖父様が住職としてまだ生きてらしたので、副住職であられましたが)が、一昨年の11月に往生の素懐を遂げられた(行年・ぎょうねん 五九歳)のにつづき、前住職(ご祖父様)がちょうど母が亡くなって八日後の昨年11月14日に往生の素懐を遂げられた(行年 九五歳)時点で、弱冠二十一歳で法嗣(ほうし・はっす 後継者)となられ、今年11月に継職法要が営まれて正式に第二十九世ご住職となられました。お寺の存続はどうなるのかと門徒衆(浄土真宗特有の呼び方)には、少なからず危ぶまれた方もおられたのではないかなどと勝手に想像しますが。余談ですが、世襲制が残っているのは、わずかに歌舞伎界と仏教寺院だけだそうです。昔ひょんなことから勤めることになった全国寺院住職向け月刊誌を出している会社の編集長から教えてもらったことやけに記憶に印象深く残っています。伝統を守ることの意義ですね。1232年の開山から、同寺がつづいてきたのも、住職を嗣ぐ人、門徒も含めてさまざまなご縁のお蔭でしょう、と法要の終りにご住職が語っておられたのが印象的でした。

 

 

 さて、法要のあいだこの方の誦経されるお経の響きがあまりにも素晴らしく、終始聞き惚れていました。音楽性があり、浄めの力も感じるほど、心が洗われ清々しくなってきます。なんと美しい声。声量の豊かさと澄み切った声で誦まれるお経はきっと母に届いて喜んでいることだろうとおもわれました。

 

 一連の誦経が終わり、最後にご法話がありました。それがまたよかったです。あらためてご縁ということに感謝しました。親子の縁なしには今の自分自身の境遇はないですし、人生のあらゆることがご縁に支えられているのだなとおもいました。わたしたちは、ともすると「あたりまえ」と考えがちですが、「おかげさま」というご縁に感謝する心、「おたがいさま」という助け合いの心そして「ありがとうございます」という心を大事にしながら日常生活を送ってまいりましょう、というお話しでしたが、改めて気づかされることもあり、これら三つの心をもっと持ちたいとおもいました。

 

 

 そのあと、ご住職と打ち解けてじゅうぶんな時間を語り合う機会が初めてもてたのも、母による計らいともおもえました。(これまでにもこのブログで母の命日にはなにがしかの贈り物がいただけていると書いていました)

 

 このお寺は三代執権北条泰時の末子である北条泰次が開基ですが、そのきっかけは親鸞聖人が鎌倉の地を去る時、聖徳太子像を直接あずけられたことからであったということを初めてうかがいました。あとで調べてみると、初代住職の泰次が親鸞に帰依し、天台宗から浄土真宗に改宗して、同寺(山号が亀甲山、院号が法得院。成福寺)を創建した1232年は貞永元年で、御成敗式目(貞永式目)の成立した年にあたります。承久の変以降、地頭の行動や収入をめぐる各地の紛争解決にあたり前例によらずに武士社会の健全な常識(道理)を確立することを意図して評定衆と呼ばれる御家人とともに幕府の基本「法典」を編集し、完成させたのがこの人の父親の泰時だったということがわかったのは、昨年暮れの母の四十九日法要のあとだったかとおもいます。 鎌倉幕府が終わり、後北条・ごほうじょう(戦国時代に小田原城を拠点とした北条氏)と呼ばれる勢力の支配が強まるとともに真宗は迫害されて鎌倉の地を離れたそうです。こちらのお寺も伊豆に逃れました。その逃れた先である伊豆の地がどこなのか気になっていたのでしたが、それがこの記事を書いているうちにこの疑問にたいする答えを知ることとなり、なんと伊豆半島の比較的上のほうに位置する韮山・ニラヤマだったのです。というのも、亡き父から聞いた話では、父の母方(江川家)の系図をたどると、先祖に江川太郎左衛門英龍がいて、この人は江戸時代に韮山の代官として、また兵学者として、韮山の反射炉を築いたことで有名で、わたしもかつてこの地を訪れ、見学したことがありました。ここでも、またご縁というものの凄さ、恐ろしさ、有り難さを感じてしまいます。さらに、このあとに行く森戸神社を創建した源頼朝が平氏に負けて、伊豆に流された先が韮山ということもわかりました。さて、いったん相模国から、武蔵や三浦に逃れた鎌倉の浄土真宗の各寺院に、ある時期を経て、再びもどってくるようにとの通達がくだったとのことですが、こちらについても、あとでネット上で知った詳しい人の情報によると、小田原北条から請われてのことだということでした。また、鎌倉を追われたのも、小田原北条氏が、平地に建つ浄土真宗各寺院本堂が挙兵の場所に使われることを恐れてのこととわかりました。歴史って、調べれば調べるほど、わかってきて、いいこともあるけれど、あんまり詳しくなってくると、伝えるにもこみいったりして困りますね(笑)

 

 

 それはともかくご住職の談話だと、その時もどったのはこちらのお寺のみであったということで、前住職から鎌倉に浄土真宗は一箇寺だけと聞いていたのは、そういうわけであったかと納得したことでした。自分は、鎌倉幕府の有力御家人でもありながら、後の世に小田原の後北条によって三浦半島南端まで追い詰められ、ついに悲劇的な最期を遂げ滅亡した三浦一族(ユダヤとの関係にまつわる話を二十年ほど前に油壺に近い三浦一族滅亡の地近くで、地元の人から聞いたことがあります)とのご縁をすごく感じていました。以前、暮らしていた逗子の小坪の家の近くにも、攻めてくる小田原北条軍にたいし三浦氏が必死に応戦して惨憺たる敗北を喫し落城した住吉城の跡(城址)があり、それだけに三浦義村の娘を北条泰時が正室に(後に離縁)迎えたり、逆に泰時の娘が三浦泰村の室となったりと、両家が深い姻戚関係にあったことを知って、いよいよ不思議な奇しき縁というものを感じたことでした。

 

 聖徳太子像のそばでご住職と和やかな雰囲気で談話を交わすうちに、親鸞聖人が六角堂に参籠したときに夢に聖徳太子が現れてお告げがあったことに触れました。すっかり忘れていたとおもい、あとで調べてみますと(本記事末尾に参考資料有り)、そのメッセージの内容がそのすぐあとの法然聖人との邂逅における開眼へとつながってゆくことがわかりました。

 

 

 そういえば、わたしも聖徳太子にはなにかとご縁を感じてきました。とくに30代の頃に鎌倉に暮らして、お茶の稽古に通った花の寺の宝戒寺の境内に太子堂がありましたし、同寺と住職が兼務する杉本観音で有名な杉本寺(どちらも天台宗)も、当時の皇太子殿下(現、今上天皇)が参拝されていらっしゃったことを数々のお写真が寺院内に飾られてあることから知るとともに、浩宮様が聖徳太子に守られていると五井先生もおっしゃっていたこともあり、さらに40代に入ってすぐ本の取材の仕事でお会いし、ご縁のあった有名な実業家の親が聖徳太子の名を社名に冠するほどの篤信家だったそうで、インタビューを行った部屋に陶製の大きな聖徳太子像が置かれていたのも印象に残っているなど、人生の中盤あたりから聖徳太子がわたしの脳裏にしばしば出入し印象づけられるようになっていたなあ、とここでまた不思議な気持ちになりました。

 

 わたしもまったく知りませんでしたが、親鸞聖人の遺された鎌倉七太子のあることは一般にもほとんど知られていないそうです。なんにしても、その一つである木像聖徳太子立像(鎌倉市指定文化財)を拝観させていただき、ご住職としばし歓談したのち、聖徳太子像を背景に皆でいっしょに写真を撮らせていただくこともできたのはやはり幸運というほかなく、母の一周忌記念ともなりました。

 

 

「和をもって貴しとなし」という精神が日本から世界にひろがるとよいとおもいます。しかし、ムラ社会のナーナー精神は違うとおもいます。心を開いて真実を語り合えるような日本にならないとだめです。空気を読んだり、妥協してうわべだけ調和を保とうとしたって、そんなのはまやかしであって、真の和じゃありませんから。日本の天命ということを考えたときに聖徳太子は外せない人物だとおもうんですが、現在は聖徳太子は実在しなかったという説がわりと主流になっていると、そのあたりをお勉強され、卒論のテーマにもされようとなさっているとお話しくださったご住職から聞き、びっくりするとともにさもありなんという気にもなりました。またまた余談ですが、わたしは日本の古事記以前の4大古伝(竹内太古史やウエツフミもこれに属する)といわれている古文書を偽書と断定するその底意には、意識的にせよ潜在意識的にせよ、やはり民族の精神性と霊性の基盤を取り去ろうとする非常にキケンな意図を感じます。このあたりの隠蔽がそのままつづくなら、昨今静かなブームを呼んでいる古事記の受け取り方も全然異なるものになってきます。古事記の奥義を知ると知らぬとで、まったくちがってきてしまうのですが。(これについては、今執筆中の小説でも明かされる予定。またいずれ取り上げたいとおもいます)

 

本堂前で 筆者の左肩後方に見えるのは親鸞聖人像 2023年11月7日撮影

 

 本堂を出ると、もう一度、三人そろって墓参りをしたあと、裏山に登りました。そこは古い神社がひっそりと建っています。あとでわかったのすが、厳島神社でした。主神が市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)で、ほかに応神天皇と橘姫命を合せた三柱を祀っていました。なにしろ寺社縁起の札ひとつ立っていないひっそりとしていながら、高台でさえぎるものもなくただっぴろい境内が開放的な神社でした。

 

神社への登り口の路傍に建つ江戸時代の石造庚申塔(鎌倉市指定有形民俗資料)

 

 

獅子に乗った志士 こういう乗り物を目にすると突如幼児返りする

 

 

 

 

 すっかりさびれている感じでありながら、けっして荒れているのではなく、気持ちのよいバイブレーションが一帯に流れています。高台からは、向こうに北鎌倉はまだ緑地の多い台の丘の稜線の上に空がひろがり、凄みさえ感じさせるグレイを基調とした雲が晩秋から初冬にかけての今の季節らしい日の光に縁どられて輝いています。いつも空を見て、クラウドシップや龍神雲など見つけては喜んでいる妻も夢中で写真を撮りまくっていました。

 

 

 蹲い(つくばい)の水に赤や黄に色づいた葉が浮かんでいる

 

 

 

 

 古社をあとにすると、わたしたちは、一路葉山に向かうことにしました。

 

 途中、北鎌倉から巨福呂坂(こぶくろざか)トンネルをとおって鶴岡八幡宮へとつづく若宮大路を由比ヶ浜の方向へ。

 

 

 

若宮大路に沿った鶴岡八幡宮参道である段葛(だんかづら)の桜木も葉を落とし冬の装いに

 

二の鳥居付近 向こうの空にひろがる雲 海方向に向かって若宮大路がのびます

 

 海に出ると、ゆうべからの大風で相当に時化(しけ)たらしく、いつもよりも不機嫌な表情をみせて白波が立っていました。こういう暗い海の色調も味わいぶかく好きです。毎日のように走っていた道。母を連れてよく三人で海のほうにドライブしたR134をトンネルを2つぬけて、大崎公園のしたの逗子湾沿いにゆるやかに湾曲してくコース。

 

 めざす一色のお蕎麦屋さんは、午後5時からなので、まだ間があります。そこで森戸の海に立ち寄りました。ここもよく訪れたなじみぶかい場所です。ある年、夕陽のきれいな時分に森戸神社に初詣に参拝したことも含めて、母とも何度か来ているのですが、あまり考えずに、ここへ来てしまったことも、お導きなのかなとおもわれました。

 

 おりしも日没に近く、海も凪いでいました。水平線の向こうに浮かぶ富士山は裾野までよく眺められます。

 

 

 

富士山の右手前の水平線に浮かぶ島が江ノ島になります

 

 人生でいちばん親しみ、思い出深いといってよい葉山の風景。森戸神社(ご祭神は大山祗命・おおやまつみのみこと、事代主命・ことしろぬしのみこと)は、源頼朝が父義朝とともに闘った平治の乱で敗れて伊豆に流されたおり、源氏再興を三嶋明神に祈願したのが1160年。その後、治承4年、1180年に旗揚げに成功して天下を治めると、三嶋大社から三嶋明神の御分霊を勧請したのが、この神社の起り。「森戸の夕照」は「かながわ景勝50選」に入っているくらいで、夕陽の沈む頃によくカメラを構えた人たちを見かけます。絶好のロケーションにあることは、いつのまにかリニューアルされている同社のWEBサイトのトップページを見ると、初めて知るドローンを使った全景からも改めてわかります。神社下の磯。岩礁と赤い鳥居をはるかに望む名島。沖合に小さく見える灯台。天気のよい日には水平線の向こうに横たわる箱根・金時山や中伊豆の天城山など伊豆半島の稜線がくっきりとシルエットをなして連なります。

 

 

 ここに立ち寄れたことに感謝して、ふたたび車に乗りました。

 

 

 いつも警護の警官の立っている御用邸前の葉山署(皇宮警察)を左折するところを、間違えて直進し、長者ヶ崎から秋谷へ向かう方面へ。すぐ気がついて引き返しましたが、おかけでうつくしい夕雲を見ることができました。これもお計らいかもしれません。母と何度も訪れた地ですから。

 

 

 蕎麦屋に到着すると、まもなく休憩時間が終わり、お店があきました。いいタイミングです。ここの野菜天のせいろ蕎麦がとてもおいしくて好きなので、それを注文し、楽しく食事ができました。

 

 

 暗くなって逗子をとおって浄明寺、十二所を経たのち、朝比奈峠を越える山道に入りましたが、急に疲れが出てきたので、休憩することにしました。そこでまたくつろいで歓談のひとときが過ごせました。

 

 

 一周忌をどう迎えるか、とくにイメージを描いていたわけではありません。ただ、この1年はずっとあちらの世界に移った母のほうに意識を向け、自分もやがてはそこに帰ってゆく世界への意識を今まで以上に強くもつとともに、この肉体はいつかなくなるという意識を持続させ、1日1日を大切に生き、世界の平和やわれわれのそれぞれの天命のまっとうを祈りつづけてきました。その結果であるのかどうかわかりませんが、11月6日、7日と非常に意味ぶかい節目となった(その予兆はすでにこの2週間くらいのあいだにありましたが)ことをつくづく実感しています。一年間、母のあちらの世界での生活がしあわせなものでありますように、ご修業が進みますようにとおもって祈りつづけてきたことにも少なからず起因しているかもしれないとおもわれる節があり、母の向こうでの進境が著しいのではないかと感じられることもあります。なかなか実感としては予期もせぬことでしたけれど、おかげさまで明るい光が未来からさしこんでくる心持ちで過ごさせてもらっています。やはり霊界、神界と物質界との協力ということは、地球滅亡の危機が叫ばれる今日、最重要課題だなとつくづくおもいます。

 

 

◇参考資料

 

六角堂に参篭した親鸞聖人の夢告

 

 

森戸大明神

 

◇関連記事 しじまの時間アーカイブスより

 

 

 

◇参考資料

 

父の母方のご先祖が大砲を鋳造する反射炉を築いただけでなく、日本で最初にパンを焼いた人とは知りませんでした。(11月11日追記)