互いを認める平和願う
フランソワーズ・モレシャン
今回、パリに着いて時差にも負けず、私が向かったのは、昨年10月にパリのブローニュの森近くにオープンしたルイ・ヴィトン財団美術館。話題になっていたのは、フランク・ゲーリー設計の建築。展示作品は現代美術を中心とするものです。
建築そのものが現代美術の表現とされる今、世界の新しい美術館がインパクトのある外観を重視します。石川県民、金沢市民には意外と認知されていないのですが、その流れのパイオニアが「金沢21世紀美術館」の成功例。世界に誇れる金沢の美意識の一つです。
私を案内してくれたのは美術館をよく知る友人で、写真家のバネッサ。帰り際に、彼女が私にこう言うのです。
「フランソワーズ、これから私のおいっ子のバルミツバ・パーティーに行くのだけれどあなたも来ない?」
バルミツバとはユダヤ人の成人式(男子が13歳)とのこと。「ユダヤ人じゃない私が行ってもいいのかしら?」と言うと、「だいじょうぶ、だいじょうぶ、とても楽しいから一緒に行きましょうよ」と連れて行かれました。
パーティーには、ユダヤの伝統料理(たいへんなごちそう!)が並び、シャンパンで乾杯。頭にキッパという小さな帽子をかぶった男性たちが、ユダヤ音楽に合わせて踊り始めます。私がユダヤ人であるかないかなど気にせず、誰もが気軽に声を掛けてくれて楽しいひと時を過ごしました。パリはさまざまな人種と文化の坩堝(るつぼ)です。モザイクのような伝統が今も息づいています。
数日後はクリスマス。私はパリのカトリック文化の中で育ちましたが、小さいときに洗礼を受けていないので、正確にはカトリック信者とは言えません。私の友人、オリヴィエは家族そろって敬虔(けいけん)なカトリック信者。彼の家族とも遠い親戚のような付き合いなので、クリスマスは夫とぜひ一緒にと家に誘われました。
夫は両親共に日蓮宗のお寺の家柄。でも、クリスマスは特別。宗教の違いなんてどちらも気にしません。
食事前には子どもたち、叔母さん、叔父さん、おばあちゃん、おじいちゃん、それに私たち……、家族総出で近所の教会のクリスマス特別ミサに出かけます。そして楽しい食事とプレゼントの交換。
日本でも、「ガイジン」である私を、初詣やお正月に招いてくれた数多くの思い出があります。パリも金沢も、伝統が今も息づく街には、互いを認め合い理解する寛容精神が息づいているはず。伝統を大切にしながらも、争いのない平和な街づくりを祈ります。
原風景残す成熟の時代を
永瀧達治
昔自慢をするようになると、年を取った証拠と言われるが、気が付かぬうちに私の心は、四十数年前のパリで過ごした青春時代に戻る。考えてみれば、その後の私の人生は、故郷でもない東京で馬車馬のように仕事ばかりに夢中になって働いた。楽しいこともたくさんあったが、気が付けば東京だけでなく、ふるさとの大阪の風景も変わり、たくさんの思い出が消えた。私が金沢にやって来たのも、私が失った昭和の日本の原風景を求めてのことだったのかもしれない。
対してパリには40年前、いや数世紀も前からの原風景が残っている。きっと永井荷風、藤田嗣治が今のパリを訪れても感涙することだろう。もちろん、地震の有無や木造と石造建築の違いはあるのだろうが、なぜ日本は美しい景観を壊し、新しく建てることばかりに熱中するようになってしまったのだろうか?
涙を浮かべて「故郷」を歌いながらも、なぜ、山には兎(うさぎ)もすまず、小鮒(こぶな)もすめぬ川にしてしまったのか。「食べるため」「時代の流れだから」「災害から身を守るため」……、たくさんの言い訳ばかりを繕うが、私たちはそろそろ、それらが過度の欲望に過ぎなかったことを認めなくてはならない。
歴史や風情のあった寺町を道路拡張のために取り壊し、山の中腹を削り住宅地を造成したのも、川沿いの町屋を壊しマンションを建てたのも、街角を広告で埋め尽くしたのも、はっきり言えば、金もうけのためではなかったか。
イラク戦争が始まる頃、国連安保理で米仏「代理戦争」があったことを覚えているだろうか。イラク戦争をちゅうちょしていたフランスやドイツをからかうように、アメリカのラムズフェルド国防長官が、「フランスなどヨーロッパの古い国」と毒づいた。
遠回しに「国力を失った老いぼれが口を出すな」とでも言うように。だが、フランスは、アメリカと違い「古い」がネガティブな言葉ではない。それは褒め言葉。フランスの外務大臣ドミニク・ドゥ・ヴィルパンは胸を張って、「古い国だからこそ、私たちは戦争に反対する」と言い放った。この心構えの違いが、大人の国と子どもの国の違い。
今春、北陸新幹線が金沢まで開通することは、県民の悲願として望ましいことには違いない。だが、少し浮足立ってはいないか? 伝統の街ならば、窓が夜露に濡れるあの夜汽車を残すため、小さな運動があってもよいのではないか?
2015年、日本もそろそろ古い人間の言うことに耳を傾けてもよい成熟の時代だと思う。