雪の轍(わだち) | sigesugasonのブログ

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無職、わずかな年金で生活します。社会のため、自分のため、と働きにでる高齢者が多いですが、ロビンソンクルーソーのように、自立した老後活動をめざします。

くしゃみ三郎

 

 

 

 他人と話すのが苦手という貴殿にささやかな楽しみを紹介。

 

 秋の夜長に、ひとりでも楽しめる、世界名画鑑賞はいかが・・ 
「雪の轍(わだち)」は、トルコ映画だが、ロシア文学を下地にしたものだと言われる。カンヌ国際映画祭にてグランプリに輝いた。その年の映画の中で、最高傑作のひとつに位置づけられるものだ。
 映画の中、ホテルの主と、出戻りの妹との間において、「悪にあらがうべきかどうか」を巡って長い、やりとりがなされる。
 薄暗い書斎にて、地方新聞に掲載される、コラムを仕上げるべく、机に向かっている顔のひげもじゃらの男性。ソファに寝そべり語りかけを止めようとしない妹。その2人が、堂々巡りとも思える議論を続ける。
 その背景には、彼らが、所有する不動産の中で、滞納問題を起こしている一家をかかえていて、なかなか面倒になっていることがある。
 滞納者は、地区の聖職者でもあるのだが、その家には、失職して、余所から転がりこんだ兄とその息子たる少年もいて、それぞれが、立場を弁えず、オーナーに反抗する姿勢を崩さないでいる。
 ある日のこと、走行中の自動車に投石されて、大変な思いをする。その犯人が、相手方の少年とわかって、注意を促しにいったところ、その父親は、いかにも不幸の根源は、お前たち、オーナー側にあるとばかりに、「殺してやるか」とまで、反発を買ってしまうはめになった。
 そんな忌々(いまいま)しき出来事の後での兄と妹の議論なのだった。
 知識人でもある男は、言う。泥棒に襲われたら、彼らに反抗しないのは身の保全としてあり得ることだが、そんな彼らの行動を許すかどうかとなると、当然のことながら、許してはならないと考える、そんなふうに訴える。
 妹の意見は微妙に食い違う。悪事に対し、法の裁きは受けるべきだとしても、当事者として、悪事に率直に憎しみの姿勢を示せば、相手方は、ますます行動に確信を深めるばかりだ、力づくの関係である限り、反省は生まれない。無抵抗の中にこそ、行いの誤りを悟る気持ちも浮かんでくるものだ。人間であれば悪事の破廉恥に気づきだすに違いない、と。そのときこそ、後悔のどんぞこも味わうことになるであろう。
 そんな風に妹は反駁する。
 何が悪で、何が悪でないか、それは人それぞれであろう。家賃を滞納して、その事に謝罪の気持ちも示さず、反抗の姿勢さえ示す相手方は、悪の何者でもない。その様な「悪」は、だれもが長い人生で、どこかで出くわすような出来事と言えるかもしれない。そのとき、悪にどのように立ち向かうべきであるか、映画は問いかける。自分の本業を休止して、その悪に立ち向かうべきか、自然災害のようなものと位置づけ、その道の専門家たちが、悪を認識し、それを排除すべく活動することを待つのか・・。 
 家庭不和に陥っていた妻は、夫から渡された、寄付の為の大金を、滞納一家に単身訪問し、手渡すというような実に思い切った、いや愚かなとさえいえるようなことをしてしまう。それは、泥棒に狙われ、生命さえも脅かされないためには、あらかじめ彼らに、その目的たる金銭を渡しておけば万全という、議論の中の一説の、実現でもあった。
 その結末はいかに、回答は映画の中にある。