サイコロひとつを、机のあなた側の真ん中に置いて欲しい。


サイコロはあなた。


その後、ビー玉を10個


サイコロを中心として、半円のようなイメージで


前方へ適当に置いて欲しい。


これが①。



次に、様々な色のビー玉を10個手に取って、


その中にきれいな黄色のビー玉を入れて、


その11個のビー玉を別の机に適当に広げて置いて欲しい。


黄色のビー玉はあなた。


これが②。



これは自分と他人の関係性の概念を表している。


①の概念は、自分というものが中心にあり、


その周りに自分とは違う人たちがうじゃうじゃいる。


だから、あえてサイコロとビー玉という違うもので表現した。


②の概念は、自分も周りもビー玉である。


自分はあくまで、周りのビー玉と同じビー玉の1つである。


多数の中のひとつ。



自分と周りの人間に対するこの概念の違いは


普段の生活の中で非常に大きな違いとなる。


①の概念は、自分と周りの人たちは別のものである。


これを『分離』と呼ぶ人もいる。


自分自身の側と周りの世界を切り離しているので


痛みを感じることが多いんじゃないかな。



②の概念は、自分は多数の中のひとつであり


自分は他人の中に含まれている。


これを、『統合』なんて呼ぶ人もいる。


自分と他人は同じなんだから


「自分のニーズと同じように、


他人も同じようなニーズを持っているだろう。」


そう想いを馳せることができる。


(例えば、お金が欲しい、恋人が欲しい、子供と楽しい時間を過ごしたい、休みたいなどのニーズ)


そして、


①は、周りが敵になりやすく


②は、周りが味方になりやすい。


なぜなら、①は、外界の世界という


自分とは異質なものから、常に何かをされるという


被害者意識を感じ続ける。


それに比べて②の概念は、


外界の世界に自分は溶け混んでいるので、


溶け込んでいるものから何かをされるわけはない。


あなたは、どちらの概念で生きているだろうか?


正しいもの、正しさ、なんてものはない。


正しさは時代によっても違うし


国によっても違うし、性別によっても


個人によっても


産まれ育った環境によっても違う。


ということは、


正しさを主張して


相手を糾弾することは、間違いなく対立を生む。


正しさを主張して


良いことはないだろう。


とはいえ、正しさを言いたくなるよね。


しょうがないよね。


だから、「言ったらダメ!」


と抑圧しなくていいから


『正しさを主張して


相手を糾弾することは、間違いなく対立を生む。』


これを頭に入れておく。


これだけでも、だいぶ違うと思うよ。

久しぶりにこの曲を聞いた。


僕らはいつ死ぬかわからない。


だから、誰かのためにとかじゃなくて


自分のために


自分の望みや期待に応えるために生きて欲しい。


そして、自分をねぎらって優しくして欲しい。


自己犠牲は絶対に違う。


「誰かのために!」は、


自分の価値を感じれないから


自分の価値を感じたくて、周りに認めて欲しくて


やってる人も少なくない。


そう言うと、


「自分の事ばかり考えていたら、わがままじゃないですか?」


とか


「そんなの、誰のためにもならないでしょ?自分勝手でしょう!」


という人が出てくる。


でも大丈夫。


自分の望みや期待に応えるために生きていたら、


自分をねぎらって優しくできたら、


絶対に周りが幸せになる。


だって自分の気持ちに正直で、


自分をいたわりながら、前に進んで


自分の希望を一生懸命叶えようとしている人は


他人に優しくて、キラキラ輝いているにきまってるやんか。




僕は、


僕らの人生、僕らの命は、


価値があるとかないとか、


そういうものを超越したものであると思っている。


でも、価値があるということを前提にするのであれば、


『生物的価値』と『環境適応度合いの価値』


という2種類の価値があると思っている。


生物的価値

→今、心臓が動いているのは、命が与えられたから。僕らは生きるためにここにいる。生きる価値がある。


環境適応度合いの価値

→周りの環境に適応出来ている度合いが、高い方がより価値がある。

日本の最近の価値観であれば、よりお金を稼いでる方が良い、より勉強ができる方が価値があるなど


この2種類の価値を、しっかり分けて生きる事が大事だと思う。


ほとんどの人は、この2つをごちゃ混ぜにするから


生きにくくなるし、自分はダメだとか思ってしんどくなる。


基本的な土台として、


僕らは生きている価値がある。


なぜなら命があるから。心臓が動いているから。


これまで自分の前にいた、沢山のご先祖が繋いでくれた命だから。


誰かが欠けたら、今の自分はいない。


それがまず、とんでもなく土台にしっかりある。


その上に、建物として


お金を稼げる方がより価値がある


有村架純みたいな顔がより価値がある


今の会社に順応している方がより価値がある


などの建物が立つ。



この世の中には、


お金を稼ぐことが不得意な人もいるし、


産まれながらに顔にアザがある人もいるし、


勉強という暗記がとてつもなく苦手な人もいる。


日本という国の環境に適応も順応も出来ない人もいる。


家族での役割が上手く出来ないとか


パートナーの期待に応えられないなどもあると思う。


そういう人は、あなただけじゃなくて、結構沢山いる。


だから、今生きている環境に自分が適応も順応も出来ないからって、


落ち込んだり、あきらめる必要は全く無いってこと。


沢山いるんだから、そういう人が集まる場所に行けばいいのよ。


そういう人が活きる環境に行けばいいのよ。


ダメなら別れたらいいのよ。


ダメなら転職したらいいのよ。



あと最後にもうひとつ。


自分の周りの人で幸せそうだなぁって思う人とか


この人には敵わないなって思う人が、


大きな問題を抱えていたりすることも少なくなくて


自分はダメとか自分は不幸だとか


そんな考えも、なんの根拠もなかったりするから。


根拠の無い思い込みは、やめた方がいいよね。

今を生きる


ということを考えるときに、疑問が出てくる。


「今を生きるということは、未来の準備をしたらいけないのか?」


「未来の準備をしている事は、今を生きることにはならないのか?」


僕のその答えは、

どういう状態で未来の準備をしているのか?


という部分に関わっているのだと思っている。


未来に対する漠然とした不安


恐怖から駆り立てられていること


そのようなネガティブなエネルギーから行っていると


今も恐れながら行動して


今を恐れて生きていってしまう


でも、自分が叶えたいという未来


こういう自分になりたいと


未来の目標を立てて


今日は何をやるべきなのか?


今は何をやるべきなのか?


ワクワクのエネルギーで今日を生きると


今はワクワクして輝く


未来の恐怖に怯えて、今が恐怖に支配されるか


未来のワクワクを感じながら、今日ワクワクして生きるか


同じ未来の準備をしていても


今日の生きる姿勢は全く異なったものになる。

過去の後悔や未来への不安があって

今に集中できない。


今を生きることができないので、

過去の後悔や未来への不安をなくそうなくそうとしてしまう。


それが根本的な間違いである。


過去の後悔や未来の不安をが出てくるのを

なくそうとするのではなく


過去への後悔や未来への不安が出てこないようなあり方で生きる


というのが必要なこと。


それは現在の自分は価値があり、愛されて


みんなと繋がっていて


自分の何かが欠けていても自分は受け入れられる


自分が生きていて良いと言う許可


自分の存在に丸ごと許可が出ていれば


過去の後悔や未来の不安というものは湧き出てこなくなる。


なぜなら今の存在がOKならば


どんな過去や未来の出来事もOKになる


そうすれば今を生きることができる


順番が逆なんだ。


じゃあどうやってOKを出すのか?


OKを出すと心に決めてそう生きていく


理由はいらない


だって僕らが生きている理由は


特にないし


どんなんでも今生きているという現実が


生きていてOKですよという証なんだから

嬉しいときにめっちゃ喜んで

腹立ったときにむっちゃ怒って

悲しい時にむっちゃ悲しんで

楽しい時にむっちゃ楽しんで


信じられないかもしれないけど

感情を味わえば人間は幸せになる



それなのに、ほとんどの人は


嬉しいときにあんまり嬉しがったらいけないとか

腹立ったときに怒ったらダメだとか

悲しい時に悲しんでいるのを見せちゃダメだとか

楽しい時にはしゃぎすぎたらだめだとか


無理矢理ブレーキをかけて


全くその感情を味わわないようにして


無かったものみたいにする


感情の起伏がないのが大人だし


そっちの方が素晴らしい


みたいな



挙げ句の果てには


感情をないものにしていることすら


忘れている


だから苦しくなって、生きづらくなって


病気になって


自分が嫌になり、人生が嫌になる


当たり前の事だよね

内面で自分にOKを出せたら


自分の存在そのものにOKをだせたら


何かわからないけど


自分にある何かが大きくなると思っていた。


でも違った。


どんどん小さくなった。


自分というものが


どんどん小さくなって


なくなって


何もないぐらいになった。


内側が無限に広がるのに


外側には全く無いような感覚


でも、外側への影響力は今までにないくらい大きくなっている


通常の感覚では


全く理解できない


意味不明な状況である





私たちは、他人から求められる事に人生の多くの時間を使う。


それは効力感もあるし、社会的にも認められたりもする。


それは決して悪いわけではないが、やりたくてやっているわけではないし、


疲れ切っているのがほとんどの人なのではないだろうか?


先日のブログでも紹介した


由佐美加子さんの本『ザ・メンタルモデル』


もちろん由佐さんが、魂込めて書いたのは間違いないけれど


僕には、本ではわかりづらかった。


イメージ的には、由佐さんの見つけた


痛みを4つに分類したメンタルモデルの良さが、


本では、10分の1くらいしか伝わらない


そんな気がした。


なので、由佐さんがyou tubeでやっている


紐ときセッションを見て欲しい。


大きな大きなパラダイムシフトだと感じたよ。