棚倉田舎倶楽部
2015年4月21日
ゴルフのトピーカップ日米大学対抗戦の歴代の出場選手たちだ。
フィル・ミケルソン、アニカ・ソレンスタムの外国勢に、丸山茂樹、深堀圭一郎、片山晋吾と世界で活躍する選手たちの姿がある。
彼らがこのコースに立っていたのだ。そして、プレーしていたのだ。
あの時の記憶がよみがえる。西コースの一番ティにフィル・ミケルソンがいた。
アリゾナ州立大学の代表として出場していた。彼の放ったティショットは乾いた破裂音だった。
フェアウエーこそ外れたがグリーンの手前まで飛んで行ったように見えた。
音とボールの速度に圧倒された。
あの時、ニュースの原稿にどんなことを書いたか覚えていないが、あの音は今も耳に残り、放たれたボールの速さは目に焼き付いている。
日大キャプテンだった丸山茂樹にもここで出会った。プレーの速さに驚かされた。
取材の準備が整わないうちにすでに打ち終えていた。
しかし、この時は左の土手下に落としたミスショットだった。
その記憶だけが鮮明に焼き付いている。誰にもミスがあることにほっとした気分であったように思う。
そして、何よりも自らキャディバックを担ぎ、ラウンドする大学の精鋭たちに将来の夢を見たような気がした。
学生のトップゴルファーの聖地ともいえる棚倉田舎倶楽部だが、2013年を最後にこの歴史と伝統のある大会は途絶えることになった。
これと呼応するかの様に、2014年4月23日、棚倉田舎倶楽部の親会社のトピー工業(株)が経営権をホスピタリティオペレーションズに譲渡したのだった。
ホスピリティオペレーションズはホテルやスキー場などリゾート地を運営している。
経営が変わって、何かが変わるのだろうか、かつての思い出をなぞるように棚倉田舎倶楽部に挑戦した。やや風はあるが晴れ間が広がる。
今年最初の福島県内のゴルフ場制覇の旅だ。
棚倉田舎倶楽部は新日鉄など鉄鋼関連企業が中核となって1976年(昭和51年)に開場した。
棚倉町のリゾート開発の拠点施設として華々しくデビューした。
しかし、バブル経済の崩壊によって入場者が激減、経営が困難な事態に直面する。
救世主となったのが日米大学対抗戦の冠企業のトピー工業だった。
1999年にトピー工業が親会社となって支えることになる。
しかし、厳しい運営が続き、平成16年に民事再生法の申請した。
トピー工業はこの時、保有していた預託金を放棄するなどして、親会社としての責任を果たす。
平成17年、自主再建型の再生計画の認可を受けて、再出発する。
親会社のトピー工業が新株すべて引き受けての再生「棚倉田舎倶楽部」であった。
さて、プレーに戻ろう。
最初のショット、あの時と同じ西の1番のミドルホールだ。
フィルミケルソンのショットを思い浮かべながら打った。
フェアウエー左、悪くはない。しかし、2打目は前方の木が邪魔だ。どうしても気になる。案の定、グリーンを捕らえられずににボギー。
このゴルフ場はフラットで開放感がある。しかし、樹木やバンカーが微妙なところに配置されている。
ベストなポジションにボールを置かないと何となくプレッシャーを受けるように作られている。
出だしからこの圧迫感から逃れられなかった。その上、パーパットを外して倍返しの憂き目にもあった。
しかし、距離がたっぷりある。
得意のはずの2打目のフェアウエイがなぜか思うようにコントロールできない。
イメージをつかんでいたはずのフェアウエーショットもこの日ばかりは蜃気楼のようだった。
ただ勝負強さは健在である。チップインを決め、不利なスコア―もいつの間にかひっくり返している。
いつもの巨匠がそこにいた。
慎重さは時として裏目にでるが、この日の名人は迷わなかった。
あれこれ考え、時間を費やすパットをさっさと決めていた。
天性の感が戻ってきたのであろうか。
ゴルフは腕が3割、心が7割と言われる。
これは昔からの変わらぬ法則だが、どうしても腕10割と思ってしまう。
腕を振らせているのが脳であることを悟るのはいつになるのだろう。
とにかく、自然豊かな林の中に広がる戦略性に富んだコースである。
西、中、東の3コース27ホールだが、この日は中コースがクローズであった。
入場者が少ないときは中コースを閉じている。
かつてのにぎわいがまだ戻っていない。
そんな中でも、省力化を進め、来場者をもてなそうという気持ちは伝わってくる。
風呂は温泉である。
その名も棚倉温泉。肌が滑るような湯の質だ。スコアの不具合を忘れるにはもってこいだ。
トピーカップを冠に30回の歴史を刻んだパネルをもう一度振り返り、帰途についた。